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俺が本気で愛されているわけがない 〜四人分の食卓と、十年越しの恋〜  作者: バカヤロウ


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10/23

第10章 今年の写真を、一枚


 木製の射的銃のずっしりとした重みを両手に感じた瞬間、男というのはいくつになっても「今度こそ絶対に当たる」という根拠のない万能感に囚われるものらしい。  だが、コルクの弾を五発すべて撃ち終えた時には、それが単なる三十五歳の浅はかな気のせいにすぎなかったことを、冷徹な現実として思い知らされることになる。


「お父さん、最後の二発なんて、撃つ瞬間に思いっきり目をギュッと閉じてたでしょ」 「違う。あれは雑念を払って、心眼で的の中心を定めていたんだ」 「狙いって、目を開けて物理的に定めるものじゃないの?」


 浴衣の袂を手で押さえながら、日菜子が横からのぞき込んでニヤニヤと笑った。  俺は照れ隠しにコルク銃を赤い布が敷かれた台の上へ置き、ひな壇の最上段に鎮座する小さな茶色い熊のぬいぐるみを見上げた。最初の一発を放つ前とまったく同じ、ボタンの瞳で澄ました顔をして、こちらを静かに見下ろしている。倒れるどころか、かすりもしなかった。


 八月最後の日曜日。地元の神社の境内で行われている夏祭りは、夕暮れの時刻を迎えて、昼間以上の熱気と人混みで埋め尽くされていた。  石造りの大鳥居の手前から拝殿へと続く参道には、赤と白の提灯が延々と連なり、生ぬるい夜風に揺れている。ソースとラードが鉄板で焼ける香ばしい匂い、焼きトウモロコシの焦げた醤油の匂い、そして遠くの神楽殿から響く篠笛と太鼓の乾いた祭り囃子が、夏の夜の空気に濃密に溶け合っていた。  年に一度だけ、普段は見慣れたただの散歩道が、極彩色で猥雑な非日常の空間へと変貌を遂げる日だ。


「明美ちゃんも、やってみるかい? 一回三百円だ」 「はい。一回だけ、挑戦してみたいです」


 明美ちゃんは首から提げていた愛用の一眼レフカメラの革ストラップを外し、隣の霧子さんの両手へそっと預けた。  日菜子が俺の顔を見上げ、早くも「ほら見ろ」と言わんばかりの得意げな顔をする。


「言っておくが日菜子、さっきの俺のフォームは、まったく見本になってないからな」 「言われる前に自分から負けを認めた」


 明美ちゃんは真剣な眼差しでコルク銃を両手で構え、台の上に肘をついて慎重に照準を合わせた。  ポン、と気の抜けた破裂音が響き、一発目のコルク弾は熊の足元の隙間を無情にすり抜けた。二発目は隣のキャラメルの箱をかすめて空振りに終わる。  だが、息を止めて放った三発目——パシッと乾いた命中音が響き、棚の端っこに置かれていた細長いプラスチックケース入りのラムネ菓子が、カタカタと音を立てて下の布の上へ転がり落ちた。


「……あっ!」


 撃った明美ちゃん本人が、目を見開いて一番驚いた声を上げた。  残りの四発目と五発目は惜しくも外れてしまったが、屋台のねじり鉢巻のおじさんが「はい、お嬢ちゃんお見事!」と笑顔で拾い上げてくれたラムネを受け取ると、明美ちゃんは少し誇らしげに、頬を紅潮させて俺の元へ戻ってきた。


「海斗さん、見てください。一個だけ、ちゃんと当たりました」 「おお、見事な腕前だ。立派なもんだよ。俺にも射撃の極意を教えてもらおうかな」 「はい。まず第一の極意は、引き金を引く瞬間にちゃんと目を開けておくことです」


 カメラを預かっていた霧子さんまで、口元に手を当ててクスクスと声を立てて笑った。  提灯の赤い光が、笑う彼女の白い頬と目元に柔らかく揺らめき、いつもよりずっと艶やかに映えていた。


 俺は男親としての敗北の悔しさを胃袋で鎮めるため、参道の端にあるかき氷の屋台へ向かうことにした。  日菜子は舌が赤くなる定番の苺シロップを選び、明美ちゃんは爽やかなブルーハワイを注文した。俺が少し渋めに宇治金時を頼むと、メニュー表の前で迷っていた霧子さんが「あ、私も同じものにしようかしら」と指差したので、二人分をまとめて注文した。


「お父さんたち、同じ宇治金時で、わざわざ一口ちょうだいとか交換したりするの?」


 日菜子がストローのスプーンをくわえながら、意地の悪い目をして聞いてきた。


「同じ味同士で一口交換してどうするんだよ」 「あ、そっか。同じの頼んだんだっけ」


 娘は自分で言っておいて自分で吹き出し、明美ちゃんの隣へ駆けていった。明美ちゃんはカップの端っこで、赤い苺シロップと青いブルーハワイが混ざり合って怪しげな紫色に変わっていく氷を、ストローの先で興味深そうにつついていた。


 俺と霧子さんはかき氷のカップを片手に、人混みを少し離れて、境内の外れにある古い石垣の段差へと腰を下ろした。  足元の砂利の上を、光るプラスチックの剣を振り回した小さな男の子が勢いよく走り抜け、少し遅れて浴衣姿の父親らしき若い男が「こら、走ると下駄の鼻緒が切れるぞー!」と大声を上げながら追いかけていく。


「……あんなふうに、昔は追いかけていましたね」


 霧子さんがスプーンを口元から離し、遠ざかる親子の背中を見つめながら静かに呟いた。


「俺たちが、ですか?」 「ええ。幼稚園の頃の夏祭り、覚えていらっしゃいませんか? 日菜子ちゃんが綿あめを持ったまま人混みに突っ走っていって、海斗さんがサンダルを脱ぎ捨てて裸足で追いかけていったこと」 「そんなこともありましたね……。もし今夜、同じ全力疾走をやったら、間違いなく明日から会社を休む羽目になりますよ」 「明後日かもしれませんよ。筋肉痛って、年々遅れてやってきますから」 「それは……さらに認めたくない現実ですね」


 二人で苦笑いしながら、冷たい緑色の氷を口へ運んだ。  抹茶のほろ苦さと、底に沈んだ練乳の甘みが、熱を持った舌の上ですうっと溶けていく。頭の芯がツンと痺れるような冷たさに襲われ、俺たちはどちらからともなく少しの間、無言でスプーンを動かした。  参道を行き交う人々のざわめきと、時折鳴り響く射的のコルクの破裂音。蝉の鳴き声はすでに途絶え、境内の大銀杏の梢からは、秋の訪れを告げる鈴虫の細い声が微かに混じり始めていた。


 少し離れた大鳥居の脇では、日菜子と明美ちゃんが、他の参拝客の邪魔にならない隅っこのスペースを見つけて写真を撮り合っていた。  明美ちゃんがファインダーから目を離して液晶画面を確認し、日菜子がその横から覗き込んで「もうちょっと下から煽って撮ってよ」と身振り手振りを交えて注文をつけている。  迷子にならないようにと親の手を固く握りしめていた幼い子どもたちは、いつの間にか、俺たちが呼び止めなくても、自分たちの足で次の居場所を決めて歩いていくようになっていた。


 そのすらりと伸びた娘たちの背中を、隣に座る霧子さんも、俺とまったく同じ、誇らしさと少しの寂しさが混ざり合ったような眼差しで見つめていた。


 かき氷のカップが空になり、底の溶けた甘いシロップを飲み干した頃、明美ちゃんがカメラを胸元に抱えて小走りで戻ってきた。


「海斗さん、お母さん。あっちの鳥居の提灯のところで、三人並んで立ってもらえますか?」 「三人? 明美ちゃんは入らないのか?」 「はい。私がシャッターを押しますから」


 日菜子と霧子さんを立たせて、自分だけが記録係に徹しようとする。控えめな彼女らしい選択だったが、俺は石垣から立ち上がり、参道脇の木のベンチに目をやった。  そこには、うちわで涼みながら休憩していた年配の夫婦が座っており、ちょうど男性の方がスマートフォンをポケットへ収めたところだった。


「すみません、失礼いたします。もしよろしければ、あちらの提灯の前で、四人の写真を一枚だけ撮っていただけないでしょうか」


 俺が丁寧に頭を下げてお願いすると、白髪の男性は「いいですよ、旅の記念……じゃなくて、お祭りの記念だね」と快く立ち上がってくれた。  明美ちゃんが驚いたように目を瞬かせながら、カメラのオートフォーカスとシャッターボタンの位置をその男性に手短に説明し、俺たちの元へと駆け寄ってきた。


「明美ちゃん。せっかく四人で浴衣やお気に入りの服を着てきたんだから、撮る側じゃなくて、ちゃんと写真の中に写らなきゃダメだろ」 「……はい。ありがとうございます」


 明美ちゃんは少し照れくさそうに頬を緩め、けれど嬉しそうに頷いた。


「でも、私、自分がどこに立てばいいか考えてませんでした」 「真ん中の空いてるところに入りなよ」


 日菜子が自分の隣をポンポンと手で叩いた。明美ちゃんがその間に入り、霧子さんが手元に持っていたお土産の袋を自分の足元へと置く。


「はい、お父さんたち、もう少し真ん中へ寄って! 画面の両端が切れちゃうからね」


 カメラを構えた男性に声をかけられ、俺は一歩だけ内側へ足を踏み出した。  どこまで距離を詰めればいいのか分からず、隣に立つ霧子さんの柔らかそうな肩と、俺の青い麻シャツの腕が触れ合いそうになる寸前のところで、気まずくなって足が止まる。  すると、霧子さんはこちらを振り向くことなく、下駄の爪先をスッと半歩だけ、俺の足元の方へと寄せてくれた。  触れ合うか触れ合わないかのわずかな隙間で、彼女の若草色の袖と、俺のシャツの生地が、夜風の中でカサリと小さく擦れ合った。彼女の体温の気配が、至近距離から静かに伝わってくる。


「はい、笑ってー。撮りますよー」


 合図のカウントダウンの直前、隣の日菜子が俺のシャツの裾をクイッと不意に引っ張った。


「お父さん、また顎が上がってる! 写真写り悪くなるよ!」 「えっ、おい、そんなこと今——」


 カシャリ、と静かで重みのあるシャッター音が夜空に響いた。


 お礼を言ってカメラを返してもらい、四人で小さな液晶モニターを覗き込んだ。  案の定、日菜子の余計な注意に反応した俺だけが、口を半分間抜けに開けた、なんとも情けない顔で写っていた。けれど、その両隣にいる日菜子も、明美ちゃんも、そして俺のすぐ隣に寄り添う霧子さんも、提灯の暖色に照らされて、今夜一番の心からの満面の笑みを浮かべていた。


「海斗さん、もう一回撮り直してもらいますか……?」


 明美ちゃんが申し訳なさそうにモニターを見上げてきたが、俺は首を横に振った。


「いや、これでいいよ。これが一番、いつものうちのお父さんらしくて自然だ」 「ふふ、確かにそうですね。この海斗さんの慌てた顔、すごく味があります」


 霧子さんが声を弾ませて同意し、日菜子が得意げに胸を張った。


 神社を出た帰り道、俺たちは駅前の二十四時間営業のコンビニへ立ち寄った。  明美ちゃんのカメラのSDカードを店内のマルチコピー機に差し込めば、その場でL判の写真用紙に一枚数十円で即時プリントができるのだと、彼女が教えてくれたからだ。


 機械がカタカタと音を立てて印刷を処理する間、日菜子はガラス窓に映る自分の浴衣姿を見つめながら、少し崩れかけた帯の結び目を直していた。明美ちゃんはカメラのストラップを首から外し、レンズキャップをはめて丁寧にバッグへしまっている。  霧子さんは空になったプラスチックのカップをゴミ箱へ捨てに行き、戻ってくる途中で、俺が両手に持て余していた祭りのうちわを一枚、自然な手つきですっと受け取ってくれた。


「海斗さん、少し涼しくなりましたね」


 パタパタと彼女がうちわを扇いでくれた風が、汗ばんだ俺の首筋を優しく撫でた。  そこで俺は、彼女に自分の分のうちわまで持たせてしまっていたことに気づいた。


「あ、すみません、俺のうちわまで持たせてしまって。返してください、俺が扇ぎますから」 「いいんですよ。私、両方の手で一枚ずつ持てば、自分の顔も、海斗さんの横顔も、交互に扇げますから」 「……器用ですね」 「ふふ、長年の一人暮らしと子育てで培った、ささやかな生活の知恵です」


 霧子さんの左右の手で、違う色のうちわが交互にパタパタと柔らかく動いた。  窓際で帯を直していた日菜子がふと振り返り、並んでうちわの風を浴びている俺たちの姿をじっと見つめて、何かを言いかけようとして——そして小さく息を吸い込み、口を閉じた。


「あ、写真、出てきたよ!」


 明美ちゃんの呼ぶ声に、俺たちはマルチコピー機の取り出し口へと集まった。  四人で頭を寄せ合って、排出口から滑り出てきた一枚の光沢紙を覗き込もうとする。


「ちょっとお父さん、頭が大きいから邪魔! 見えないじゃん!」 「頭が大きいとはなんだ、失礼な」


 日菜子に肩を押されて俺は一歩下がり、三人の頭が仲良く並んでいる後ろ側から、肩越しに写真を見下ろした。


 プリントされたばかりの写真は、カメラの液晶画面で見るよりもずっと、インクの温かみのある深い色合いをしていた。  背景の大鳥居と無数の提灯の赤が滲むように広がり、その光に包まれて立つ四人の姿は、まるで昔からずっとひとつの家族としてそこに存在していたかのように、不思議な調和を保って収まっていた。  俺は財布から小銭を出し、プリント代を明美ちゃんの手のひらへ渡した。


「この写真、折れないように大切に持って帰らなきゃな。俺が持つよ」


 帰り道、俺はスーパーの買い物袋をぶら下げる時よりもよほど慎重に、両手の指先で写真の四隅をつまみ、風で煽られないように胸の前に抱えて歩いた。  日菜子が隣でそれに気づき、「お父さん、印画紙ってそんなに弱くないよ。揺らしても破れたりしないから」と呆れたように笑った。


「ねえ、お父さん。この神社の鳥居、うちの古いアルバムの写真にも写ってたよね」 「そうだったか?」 「うん。私がまだ幼稚園の年少さんくらいの時、水風船を両手で大事そうに持ってるやつ。明美は、手首に光るプラスチックの腕輪をいっぱいつけて写ってたの」 「いっぱいじゃないよ、日菜子。あれは二個だけだったよ」 「ううん、私の記憶では絶対に片腕に二個ずつで、合計四個光ってた!」


 娘たちは、アパートの敷地に入る最後の角を曲がるまで、十年前の光る腕輪の個数を巡って他愛もない論争を繰り広げていた。


 隣の棟のエントランス前で白石母娘と別れ、「おやすみなさい」「また明日ね」と手を振り合って部屋へ戻った。  日菜子は「先にシャワー浴びてくる!」とバスタオルを抱えて洗面所へ駆け込んでいった。  換気扇の回る音と、浴室からジャージャーと流れるシャワーの水音。  一人きりになった薄暗い居間で、俺は押し入れの天袋を開け、今朝、母・裕子が置いていったあの古い紙箱を抱え下ろした。


 居間のちゃぶ台の上に腰を下ろし、四角い箱のフタを開ける。  幼稚園の入園式、近所の公園での砂遊び、七五三の晴れ着姿、ピントのブレた誕生日のロウソク。  日菜子が言っていた夏祭りの写真は、最初の二冊のアルバムには見当たらなかった。  俺は箱の底から、背表紙の布が一番激しく擦り切れ、色あせた一番古いアルバムを一冊引っ張り出し、膝の上でそっと開いた。


 めくったページの真ん中に、以前の妻——沙織がいた。


 二歳になる少し前の、まだ歩き始めでおぼつかない足取りの日菜子を腕に抱き、真冬の海辺のドライブインの駐車場で、冷たい潮風に長い髪をなびかせて笑っていた。  写真の左上の隅っこには、カメラを構える俺の不恰好な人差し指の先が、黒く見切れて写り込んでいた。生まれて初めて買った一眼レフカメラの持ち方がよく分からず、ファインダーを覗くのに必死だったのだ。


 静まり返った居間で、首振り運転の扇風機のモーターが、かすかにキュルリと軋んだ音を立てた。


 その写真を見た瞬間、激しい悲しみや怒りが湧き上がってきたわけではなかった。  ただ——自分がいま、何を探すためにこの古いアルバムを開いたのか、その目的そのものが頭の中からすっぽりと抜け落ちて、呆然と視界が霞んでいくような感覚に囚われていた。


 あの日、海からの帰り道の車の中で、俺たちは一体何を話したのだろう。


 後部座席のチャイルドシートで日菜子がすやすやと寝息を立てて、俺たちは車内の小さな明かりの下で、途切れることのない穏やかな会話を交わしていたはずだった。  次の休みにどこへ出かけようかという話だったかもしれない。  あるいは、夕飯の買い出しにどこのスーパーへ寄ろうかという、ごくありふれた日常の相談だったかもしれない。


 確かに、あのドライブの車内で、俺は心から楽しかったのだ。  楽しかったから、自分たちの家庭は平穏で、この先の未来もずっと大丈夫なのだと、何の疑いもなく信じ込んでいた。  それなのに——そのわずか数ヶ月後、彼女は『あの子の父親は別にいる』という一枚の書き置きを残して、俺の視界の外へと永遠に消え去ってしまったのだ。


 俺はアルバムの台紙を閉じようとして、焦ってページの間に自分の指を挟んだ。  大した痛みではなかった。けれど、その鈍い感触が、胸の奥底に澱のように沈んでいた惨めさと情けなさを、一気に引きずり出してきた。  俺は今、霧子さんや子どもたちと過ごす時間に浮かれ、また同じ過ちを繰り返そうとしているのではないか。  自分だけが一人で「楽しい」「幸せだ」と思い込み、相手の本当の心の痛みや孤独に何ひとつ気づかないまま、最後には全部を失ってしまうのではないか——。


「……あった? 鳥居の写真」


 背後から、バスタオルで濡れた髪を拭きながら、日菜子が居間へと戻ってきた。  俺は慌てて指を抜き、アルバムを開いたままの状態で取り繕った。


「いや……まだ、見つからないな」


 日菜子はちゃぶ台の手前で足を止めた。  俺の手元に広げられた、冬の海辺の写真を見つめ、何も言わずに、向かい側の座布団の上へと静かに腰を下ろした。


「……これ、海?」 「ああ。お前がまだ、二歳になる前だな」 「……全然、覚えてないや」 「そうだろうな。小さかったからな」


 俺は笑おうとした。けれど、口元の筋肉が引きつり、乾いた笑い声すら出なかった。


「楽しかったんだよ、この日も。すごく風が冷たくて寒かったけど、三人で食べたクラムチャウダーが美味しくてさ」 「うん」 「今日のお祭りみたいにな。だから……なんというか……」


 言葉を探そうとすればするほど、十六歳の娘に対して過去の亡霊のような弱音を吐き出そうとしている自分の情けなさに、押し潰されそうになった。 「すまん、何でもない。探すのやめるよ」とアルバムを閉じようとした、その時だった。


 日菜子がすっと細い腕を伸ばし、ちゃぶ台の端に置いてあった、さっきコンビニでプリントしたばかりの「今年の四人の写真」を取り上げた。


 そして、古いアルバムの上に重ねるのではなく——その開かれた海の写真の、すぐ真横の畳の上に、パチンと音を立てて置いた。


「今日も、すっごく楽しかったよ」 「……ああ」 「私、射的は全然当たらなかったけど、でも楽しかった」 「そこは……忘れてくれていいんだがな」


 日菜子は笑わなかった。  今年プリントしたばかりのカラー写真の中の、慌てて口を半開きにしている俺の顔を、人差し指の先でトン、と一度だけ突いた。


「お父さん、何がそんなに怖いの?」 「……え?」 「何が嫌なの? 何に怯えてるの?」 「嫌というか……俺はまた、昔と同じことを繰り返すんじゃないかって、そう思う時があるんだ」 「同じことって?」 「自分一人だけが『大丈夫だ』って勝手に満足して、相手が何を考えているのか何にも分かってないままにして……また、全部壊してしまうんじゃないかって」


 俺は途中で言葉を飲み込み、両手で顔を覆った。


「……悪い。何を言ってるんだろうな、俺は。父親のくせに」


 居間の中に、換気扇の回る低い音だけが響いた。  日菜子は膝の上で、湿ったバスタオルを端と端を揃えて、ゆっくりと丁寧に畳み直した。


「……それってさ、昔のあの人のことだけでしょ?」


 俺は覆っていた手のひらの隙間から、顔を上げた。


「あの人といた、たった二年間だけの記憶で……お父さんのこれまでの人生のこと、全部決まっちゃうわけ?」 「日菜子、そういうつもりで言ったんじゃ——」 「私が十四年間、ずっと一番近くで見てきたお父さんのことまで、なかったことにしないでよ」


 日菜子は怒鳴らなかった。  叫ぶこともなく、取り乱すこともなく、ただ静かに、けれど芯の通った強い声で言い終えると、キュッと唇を真一文字に結んだ。


 俺は息を呑み、畳の上の二枚の写真を見比べた。  十四年前の、端っこに見切れた二十一歳の俺の頼りない指先。  そして、今夜の提灯の光の下で、娘に服の裾を引かれて情けない顔をして笑っている、三十五歳の俺の姿。


 その二枚の間の十四年間、俺がどんな思いで毎日ご飯を作り、熱を出した夜に背中をさすり、不器用に髪を結んできたのか。  その時間を一番近くで受け止め、父親としての俺を形作ってくれたのは、元妻ではなく、目の前に座っているこの子だったのだ。  俺は過去のたった一度の裏切りに怯えるあまり、娘と一緒に積み上げてきた十四年間の確かな愛の重みまで、自分の手で否定しようとしていた。


「……そうだな。お前の言う通りだ」


 喉の奥が熱く焼けるように痛んで、それ以上の言葉はすぐに出てこなかった。


「今日の写真、ここに飾っておいていい?」


 日菜子が、四人の写真を指差して聞いた。


「ああ。明日、百円ショップでちゃんとした写真立てを買ってこよう」 「うん。そうして」


 日菜子は立ち上がり、ドライヤーを持って洗面所へと戻っていった。  やがてブオーという力強い温風の音が、廊下の向こうから聞こえてくる。


 俺は一人、ちゃぶ台の上に並んだ二枚の写真をじっと見つめていた。  古いアルバムから元妻の写真を抜き取ることはしなかった。過去を消し去る必要はない。ただ、その擦り切れたページのすぐ隣に、今夜の暖かな四人の写真を、しっかりと並べて置いておいた。


 翌朝、朝食の片付けを終えたあと、俺はスマートフォンのメッセージアプリを開いた。  相手の名前は『白石 霧子』。


『相談があるのですが』と打ちかけて、用件が大袈裟すぎるように見えて消去した。 『何でもない話なんですが』と打って、誤魔化すような軽さが嫌でこれも消した。


 結局、俺は自分の不器用な心のままに、短い文章を打ち込んだ。


『少しだけ、話を聞いてもらえませんか。昔の自分のことを思い出してしまって、うまく話せるか分からないのですが』


 送信ボタンを親指で押し、逃げるように画面を伏せてテーブルの上に置いた。  断られたらどうしようかという冷たい不安が、胸の奥をかすめる。


 だが、一分も経たないうちに、テーブルの上の端末がヴヴッと短く一度だけ振動した。


 恐る恐る画面を表に返すと、そこには彼女からの、迷いのない一行が届いていた。


『はい。お茶を淹れて待っていますね』


 俺は深く息を吸い込み、スマートフォンの画面を握りしめて、静かに椅子から立ち上がった。


お読みいただきありがとうございました。

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