親の慈愛
「商社なんですね。私は市役所の公務員をしています。」
「え、市役所でお勤めなんですね。いつも、お世話になっています。」
「いえいえ、地元の役所ではなく遠く離れた街の市役所なんですよ。」
あ、この人も地元から離れて暮らしているんだと、詩は思った。何だか親近感を持った。
「そうなんですね。私も実家から離れた街に暮らしています。」
その隣のやり取りを聞いていたお兄さんが、ふいに会話に入ってきた。
「弟は、若いころから勝手気ままに独りで暮らしていますよ。こいつ、運動はできないけど、こう見えてピアノを弾くんですよ。」
「え、凄い!ピアノを弾かれるんですね。」
「いえいえ、全然うまくはないです。」
詩が驚きを示すと、弟さんは否定するように胸の前で大きく手を振りながら、謙遜の言葉をつないだ。なんだか、この人が良い人に思えてきた。
話を聞くとお兄さんとは違って小さい頃からピアノに興味があって、一人暮らしになった今でも自宅で独り練習しているらしい。詩はどういう曲を弾くのか興味があったが、その後はお互いの仕事の話になってしまい、最後まで聞けずじまいのまま食事会は終了した。
会合が終わった後、お店の人に頼んでレストランの前で、家族全員の写真を撮った。食事会が無事に終了して、葉音はご機嫌だった。この後、このまま彼氏と二人でデートに出かけるという。お互いの両親達も、相手方の両親との親睦が図れて安堵した様子で、それぞれ帰宅の道についた。詩は両親とともに、ホテルで手配したタクシーに乗って実家に戻ることにした。
やむを得ずに詩の部屋に残してきたプチのことが心配だ。早く戻らないとプチが寂しがるかもしれない。いや、寂しいのはむしろ詩の方だった。
『私も彼に会いたいな。』
タクシーの後部座席の車窓から通り過ぎる市街地を眺めながら、詩はいっちゃんが弾いてくれた懐かしいピアノの音色を思い浮かべていた。
地元の風景、葉音の結婚、残酷なほどに時は確実に流れていく。
今日はお目出たい日なのに、自分のことを振り返ると、無性に感傷的な気分になる。
この夏が終わると、もうすぐ2年。来月で20代ではなくなる。
早く戻ってくれないと私…
隣に座る母親がその気持ちを察したのか、詩の方を見てこう呟いた。
「詩は焦る必要はないからね。ずっとお父さんとお母さんがついているからね。」
三人かけの後部座席の反対側に座る父親も優しく頷いている。
両親の言葉が胸に刺さった。涙があふれてきた。悲しいからじゃない。嬉しいからだ。そう、これは慈愛。四段階の愛、性愛、恋愛、敬愛、慈愛の中の最高レベルの愛に包まれて、地元でのこの夏の日に詩は久しぶりに心からの幸せを感じた。
そうだ、焦らずに待っていよう。私には心強い親友の芽依ちゃんもいる。今日のこともあって、あれ以来すれ違ってずっと会えなかった彼女に会いに行こう。タクシーが実家へと向かう大きな交差点を曲がるタイミングで、詩はまだ見えない未来に向けた決意を新たにした。
参考: Pomegranate I
第一章序章 死別
第二章伝言 芽依ちゃん




