第九話 蘊蓄話を披露したかったんだよ
「じゃあ、失礼しますよっと。」
彼女が本を携え、僕の膝の上に勢いよく座った。
「かっる!」
衝撃だった。
女の子というのはこんなにも軽いのか。
この衝撃は携帯ショップで試しに触ってみた◯Padの軽さに匹敵する。
そして◯Padとは違い、温かいし、ふわふわしていて、とても落ち着く匂いもする。
そういう意味では、ユーザー体験において◯Padのはるか上を行くだろう。
ガジェット評価で言うならば文句なしの五つ星。
コメントを書くとするならばこうなるだろう。「こういうのがいいんだよ、こういうのが。」
どんな技術者もこの世界の自然の摂理には勝てない。
そう考えると感慨深いものがある。
「うむ、重いと言ったら蹴り◯していたよ。」
さらりと怖いことを言いながら彼女は本のページを開いた。
「エロスの涙」は哲学書というより、ジョルジュ・バタイユのエロティシズム論を解読するための資料集という感じが強い。
最後の中国の凌遅刑の写真がこの作品のクライマックスであり、バタイユは受刑者の耐え難い苦痛と恍惚とが同時に宿っていることに生涯こだわり続けた。
バタイユがこの写真と出会ったのは、精神分析を受けていた際の分析医アドリアン・ボレルを通じてだった。
以来、この写真に取り憑かれ、机の上に置いて日々眺め続けていたと伝えられている。
なおフランス本国では発禁処分を受けている。
ちなみに僕は日本語訳の文庫版を読んだ。
この本は文字よりも資料が多いため結構楽に読める。
とりわけ今の姿勢では都合がいい。
僕の身長は163センチメートルで、彼女よりも微妙に大きい程度である。
彼女を僕の膝の上に乗せるとなると肩越しに本を読まなくてはいけなくなる。
小さい文字ではなく絵的な資料が多いのは助かる。
「実は私はこの本を読んだことがあります。」
彼女は「鳥頭の男」の図版のあるページまでめくって突然そんなことを言い出した。
「いや、僕もあるんだけど。」
どうやらお互いに読んだことのある本を二人で読んでいたらしい。
「なんで『エロスの涙』にしたんだ?」
「蘊蓄話を披露したかったんだよ。」
なるほど実に彼女らしい。
そしてこの会話の間も彼女のページをめくる手は止まらない。
「ぶっちゃけ凌遅刑に苦痛と恍惚の両方があるというバタイユのエロティシズム論ってどうなんだ?僕は写真を見ても理解不能だったぞ。」
彼女の蘊蓄話を引き出すの半分、自分が本当に疑問に思っていること半分の、趣味と実益を兼ねた質問をしてみた。
ご機嫌取りの始まりである。
「その意見には概ね同意するね。
ブルゴンらや美術史家ジェイムズ・エルキンズが指摘するように、バタイユが受刑者の表情を専ら「恍惚」として額面通り読み込み、自説に奉仕させる一方、処刑が置かれていた実際の法制的・文化的文脈をほとんど顧みていないというのは、私はその通りだなって思うし。
西洋の知識人が非西洋の他者の苦痛を自分の形而上学の素材として消費してしまうオリエンタリズム的まなざしの典型例として読み直されている部分もあるしね。」
質問したのはいいものの、膝の上に彼女を乗せているということもあって、話に集中できないというのが悲しい男の性である。
しかし、元々バタイユは知っていたので彼女の言いたいことは大体わかった。
「どれほどラディカルで優れた思想家であっても、他者の痛みや歴史的文脈を『自分の哲学の肥やし』として消費するとき、そこには無意識の植民地主義的・差別的な暴力が潜んでいるということか?」
頭も舌も回りづらいような心地よさと眠気を抑えながら脳細胞を総動員させてそう答えた。
「その理解で合ってるよ。」
このような会話をしばらく繰り返していると、いつの間にか頭の奥がビリビリして落ち着かないような感覚が続いたが、今は頭全体が痺れるようなものに変化している。
頭痛とはまた違うような経験したことのない感覚である。
思考も舌も一歩間違えれば空回りしそうなくらいの強烈な眠気がある。
これは決して退屈だからなのではないのだろう。
息遣いが重なり、最初は所在なくしていた手はいつの間にか彼女の腹の部分に回している。
こうして言葉を重ねるのも悪くない。
彼女は本を机の上に置き、左手でページをめくり続ける。
右手を重ねてきたので、僕は指を絡ませて彼女の膝の上に置いた。そのとき、
「イイッ!イイッ!」
「バタイユを読んでいる仲睦まじい男女!」
「この瞬間のために生まれてきたんだ!」
店主が突然、姿を現した。
頬に両手を当てて、能面のような顔で絶叫する姿は、まさにムンクの叫びである。
僕たちの姿を見てそんなに喜んでくれるというのなら彼女を膝の上に乗せるというのも悪くないものである。
「90分たちましった。」
そうしてニュートラルな癖の強い声に戻る。
もう90分たったのか…。
「ご来店ありがとうございまっしったぁー!」
まだ客が店を一歩も出てないというのにそう言うやいなや、彼は店の奥に消えていった。
「君の家でもこれやらない?」
彼女にしては珍しく、言いにくい感じでそんな提案をした。
「いいよ。」
こうして彼女との新しい習慣ができた。




