第八十四話 サラダバー
「焼肉食べ放題にサラダバーがありますね。」
「そうだな。それで?」
「一緒に取りに行きましょう。肉ばかりでは健康に良くないですからね。」
「俺はパス。」
「一緒に行きませんか?」
「ん?」
男は僕の押しの強さに気圧されながらも怪訝な顔をしていた。背もたれに完全に身を預けたその姿からは揺るがない意志と僕に対する牽制が含まれているように見える。
「僕は初めてのことが怖いんです。」
「……。」
僕の言葉を聞いた瞬間に男の背中は背もたれから離れた。どうやら真面目な会話をするのに丁度いいきっかけだとでも判断したらしい。
「まずは肉です。肉肉肉肉。肉を食べなければ人間はまともに考えることもできません。まずは温かい糖質とタンパク質をちゃんと摂取してから話しましょう。」
「それもそうだな。」
男は立ち上がって無言でサラダバーの方に向かった。『一緒に行く』ということだろう。男のいちいち芝居がかった、それでいて防衛機制が含まれているようなその構えは嫌いだが、内心すごく助かった。
サラダバーのためにお盆を手に取り、そこに大小さまざまな皿を載せ、野菜をよそい、ドレッシングをかけるときに背後に待つ人間を気遣うことを一人でやっていたら、僕は確実に挙動不審になって挫折していたことだろう。カレーをよそうために鍋の蓋を開けるのにも絶大な勇気が必要なのである。男が隣にいてもいなくてもこのことは一つも変わることはない。ただ見知った人間の視線というのは結構大きな効力を持っているもので、途中でやめることを咎める見張り役として男は大きな役割を果たしてくれたと言えるだろう。まあ、男はそんな役割を担わされていることは夢にも思っていないだろうが。
僕らが自分の席に戻る頃にはすでに注文した肉が到着していた。ちなみにカルビ、ロース、豚トロ、タンのそれぞれ1人前が一つの大きな皿に盛られていた。何を頼むのかは男のセンスに任せていたのだが、誰でも好きそうな無難なチョイスから、意外とこの男は真面目な奴なのかもしれないと思った。
「無難なチョイスですね。ホルモンとかハツとか後で頼んでもいいですか?」
「そりゃ構わないが俺は内臓系が苦手なんだ。」
「なるほど、ガキ舌なんですね。」
「どうとでも言ってくれ。」
そう言うとこの男は店のタブレットを手に取り、まだ食べてもいないのに追加でカルビを頼もうとしていた。
「何やってるんですか?」
「どうせたくさん食べるんだろ?ここは火力も強くてあっという間に焼けるから今のうちに…。」
「よく人につまらない男って言われませんか?」
「いきなりどうした?」
いきなりの挑発的な言葉に男の目が剣呑なものに変わる。だが僕はそんなものにはひるまない確かな直感があった。このなんとも言えないガッカリ感は、決して僕自身の受容性だけに還元されるものではないはずだという独善的判断が僕を突き動かしていた。男に変化してほしいとかではない。今、この瞬間にいるこの男の振る舞いだけを変えられればそれでいい。焼肉の時間を妥協してたまるか。
「言われませんか?」
「そこまで言われる義理はない。」
僕の言葉に対して男が声を荒げたり、不機嫌になったりすることは無かった。ただし男は網に一枚だけ肉を置いてからいきなり水を飲みだしたのは良いものの、今度は肉を焼かずにトングを手で弄んでいた。僕はその挙動不審な様子で色々と察してしまった。
「ひょっとして、図星とか?」
「黙れ!」
ふむ。人間の直感というものは、時として長ったらしい論証よりも本質を言い当てるものなのかもしれない。別に焼肉の注文で性格診断ができるなんてことは微塵も思わないが。
僕らは無言でご飯と肉を口に運び、腹八分くらいの具合になって残り時間が40分を切った頃に、僕はようやっと口を開いた。
「それで?母と何があったんです?」
「君の母のパトロンをやめて君だけのパトロンに切り替えたいと言ったんだよ。」
「母は飽きちゃいました?」
「それもあるがそれだけではない。」
「情が移っちゃいましたか。」
「……。」
男は黙り込んで頬杖をついた。僕はこの男の拗ねた子供のような仕草に絆されてしまった。
「勘違いしないでくださいね?お金が無ければあなたなんて相手にしちゃいませんよ。」
「分かっているさ。だがあの女からはとっとと離れて自立しろ。そうじゃなきゃ——」
「別に金だけ寄越すわけじゃないんでしょう?」
「それでもあの女よりはマシだ。」
「僕はね、母さんのことが好きなんですよ。」
どんなに頭では拒絶しても在りし日の尊敬すべき母の記憶が焼き付いて離れない。いやもっと本質的には僕にとって母を否定するということは自分を傷つけるということと裏表なのだろう。忌々しいことに、母の仕草や立ち振る舞いの全てが僕に継承されている。
「どうしても母さんを捨てることが出来ないんです。」
「でも!いずれは——」
「どうせ分からないでしょう?」
「……。」
僕は分からないことを分かったように言う人間の表出の全てに付き合ってやる程のお人好しでもなければ馬鹿でもない。こんな話をこの男にしても何も無いのだ。
「まあその話はどうでもいいとして。あの話は進みましたか?」
「ああ、もう契約したぞ。」
「ありがとうございます。感謝してます。」
「そうか。」
それが分かればそれでいいのだ。それがあればまだ僕は延命できるような気がするから。
「それじゃあホルモンに挑戦してみましょうか。」
「臭みがあって嫌いなんだよ…。」
暗くなった雰囲気を打ち破るために言った無茶振りだったが、男は自分からタブレットで注文していた。案外押しに弱いのかもしれない。
ちなみに男のホルモン嫌いは単なる昔のトラウマ由来の食わず嫌いだった。
彼は結局、三人前のホルモンを僕と食べることになった。




