第八十五話 お見舞い
二週間後の六月初旬。水曜日。
時刻は7時6分。
僕は睦美さんからの許しを得て、病状が落ち着いたらしい紡の様子を見に来ていた。彼女の水疱瘡はかなり酷いものだったらしく、全身の水疱が瘡蓋になるまでにはかなりの時間がかかったらしい。『なんだかんだで紡は繊細なところがあるから顔の瘡蓋が目立たなくなるまで休ませた方が良いだろう。』と睦美さんは言っていた。
「久しぶりなんだよ。」
「ん、そうだね。」
僕が紡の部屋に入るなり彼女が嬉しそうに手を振ってきたため、僕もつられて同じことをしてしまった。お互いに変なテンションになっているのだろう。僕たちの距離感はふわふわしていて、なんだかお互いに探り合うような感じになっていた。
「縹はこれから学校?」
紡は制服姿の僕をマジマジと見るなり、ご機嫌斜めな様子になった。外に出れないせいでかなりのフラストレーションが溜まっているのかもしれない。
「梅雨入りしたから毎週水曜日と金曜日は休むことに決めたんだ。今日は紡のお見舞いがてら一緒に遊ぼうかなと思って来た。」
「ん?梅雨と休むことの間にある因果性はどうなってるのかな?」
「ほぼ毎日曇りとか雨とかだと気分が落ち込むだろ?それなのに学校に行くなんて精神衛生上良くないじゃないか。」
「じゃあなんで今年からやり始めたの?」
なるほどそう来たか。これはライプニッツに影響を受けた『形而上学入門』でのマルティン・ハイデッガーの『なぜ何かがあるのであって、むしろ無があるのではないのか』という言葉と類似している部分があると言えるだろう。ある主張Aをするためには、なぜ他の主張であるBでもCでもDでもないのか、なぜAなのかを説明するような論理展開をしなければならない。そうでなければ全ての主張というものは地に足がつかないものになってしまうだろう。つまり紡はまず僕の主張に対して『なぜ2年前でも1年前でもなく今やるのか。』という時間性の議論をすることで言葉の意味を探ろうとしているということなのだろう。
「うーん、気が向いたから?」
「うんうん。」
紡はニヤニヤした顔をして僕の言葉を真面目に受け取ろうとはしなかった。なんだか変な誤解をされてしまっているような気がするが、それもいいだろう。
「まずは私にご飯を食べさせてほしいな?」
「それ言ってて恥ずかしくないの?」
どうやら紡は痛い所を突かれたらしく、いきなり黙り込んでしまった。
「分かったよ。やりますともさ。」
別に僕は何も悪くないはずなのだが、そう言わなければ紡が不機嫌になってしまうだろう。僕は自宅から引っ張り込んできた食材を詰め込んだ大きなカバンを手に取った。
「んじゃ、セロリのポトフでも作るか。」
「ああ、食べ物はここにあるんだよ。」
紡は布団の下からゼリー飲料を取り出して僕の目の前に突きつけてきた。
「これを飲ませてほしいな?」
「それは恋人ごっこ?」
「うん、そうだよ?」
「せめてちゃんとしたものを食べなさい。」
「これが私の三食なんだよ。」
「冗談だろ…?」
なんで僕がオカンみたいな事を言わなければならないのだ。だが布団の下から覗いてくる数多くのマスカット味のゼリー飲料を見ていると、こういうお節介も焼きたくなってくるだろう。嫌な予感がして紡の部屋を物色するとローヤルゼリー味のゼリー飲料がいたる所から発掘された。そしてベッドの下にある数々のエナジードリンクを目にした時に僕の我慢は限界に達した。
「これ何?」
「マスカット味だけだと飽きちゃうんだよ。」
「……。」
別にステレオタイプを押し付ける気は無いが、これはあんまりにもあんまりなのではないか?睦美さんは何をやっていたのだろう?それとも紡の側の問題なのだろうか?
「縹、なんならゼリーを口移——」
「ベッドに座って。」
「うん、分かった。」
「正座して。お説教するから。」
「うん…。」
紡は神妙に頷きながらもベッドの上でアヒル座りをして嬉しそうに笑っていた。緊張感のないコイツに長ったらしく文句を言っても何もないだろう。僕はシンプルに聞きたいことだけを聞くことにした。
「睦美さんとは最近話してるの?」
「必要なこと以外は話してないよ。」
「そっか。」
この様子だと詳しい事情を聞くのはやめた方が良いだろう。紡の態度からは睦美さんに対して何ら価値を感じていないようなニュアンスが含まれているように見えた。外から見れば仲が良いように見えても睦美さんと紡の間には深い溝があるようだ。睦美さんは別に悪い人じゃないし紡にちゃんと寄り添おうとしている。こんな断絶は他人から見れば喜劇だし、ただの紡の一人相撲だろう。だが僕はそれに対して分かったような口をきいたり、アドバイスめいたことをするようなことは出来なかった。
「身体を大切にしてほしいな?」
「別にいいんだよ。」
「と言うと?」
「私の身体は私じゃないんだよ。だからいつこの身体が錆びついても構わないんだよ。」
「僕は紡の身体が好きだな。」
「えっち。」
「だから、ご飯ちゃんと食べて。」
紡は僕の感情的な発話の羅列に目を白黒させていた。こういう表情をするのも珍しい。
「縹はちょっとずつだけど変わってるね。」
「ん?」
「自分のことを優先するようになった。」
「紡じゃなかったらこんな事言ってない。」
「それでも、嬉しいな。」
彼女は身を乗り出して僕の頭をゆっくりと撫でる。僕は頭に乗せられてる手を掴んで指を絡ませた。




