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第八十二話 厄介事

姫宮さんと別れてから特に何事もなく帰っていた僕の視界に、そろそろ見慣れてきた黒の中型車が入ってくる。なんの連絡もなくあの男が家にやってきたのだろう。玄関前にあるその車は一日の中で一番のストレスになるような厄介事が起きるだろうということを強制的に想起させてくる。こういう時はだいたい碌なことがないということは経験則から理解しているつもりだ。僕は両拳を強く握り締めることで腹を括った。

僕は心の準備が出来てなかったのだろう。僕の腹から胃液のようなものが上の方に逆流するかのような感覚があった。口まで逆流してくるそれを無理矢理ゴクリと飲み込んで深く息を吸った。口の中の苦さと喉の痛みが僕自身が確かにここにいるというリアリティを雄弁に教えてくれている。その不快な感覚のおかげでふわふわと遊離しそうになった内面を蛋白質で出来ている身体に繋ぎ止めることができた。胃がビクビクと痙攣しているが問題ない。家のほうにゆっくりと歩きながら、小さく声を出して、あの男に喜ばれるような、だからといって今の僕の姿とチグハグではない、儚い声にチューニングする。この準備運動によって僕のペルソナは強固なものになり、胃の痙攣も完全に治まった。

「あれ?」

なんだか調子がおかしい。僕の視覚とは別に、僕を俯瞰しているもう一つの視界が頭の中にちらついて見える。アクションゲームで一人称視点と三人称視点の両方が見られるみたいになっている。そして僕の三人称視点は頭の旋毛から襟足まで鮮明にデフォルメされており、靴の踵から足首に至るまでの部分にある小さなロゴが非常にリアルかつ細密だ。まるで両の目以外に僕を俯瞰している別の目があるみたいだ。自分の靴の踵を確認してみたがロゴなどは無く、白の靴底と黒の踵部分が見えるだけだった。

それが分かると僕の三人称視点は溶解して、いつもの一人称に固定化された視覚が戻ってきた。

「なんだか良い具合になってきたな。」

もちろんこの僕の独白には自己防衛が含まれていたがそれだけではなかった。狂気一歩手前で踏みとどまっている内面に対して、僕の良心は「いいぞ!その調子だ!」と悦んでいる。僕の良心は悟性と理性の衝突の先にある破滅を望んでいる。そしてその絶望を通過することなしに僕が幸せになることなどありえないと考えている。必死で現状維持をしようとする防衛機制が一枚一枚じっくりと剥がされているような感覚がした。それは非常に不快かつ危険でありながら僕を高揚させるものだった。僕が『何をしたい』かなんてことはとっくのとうに分かっている。だがそれをしようとしないアンビバレンスな精神構造を支えているのは僕自身の悪癖であると言う他ないだろう。僕を引き裂いているのは他でもない、良心と僕自身の悪癖だ。他人から見ればこんなものは馬鹿な喜劇に他ならない。『だがそんな人間は僕に見えているものが見えていないだけだ。』結局のところそのような僕のナルシズムが僕自身の高揚感を支えているのかもしれない。僕は終わりなきメタ的な防衛機制に見切りをつけて、重い足を玄関まで運ぶことにした。

家の中に入ると玄関まで響き渡る男と女の怒号が聞こえた。大きな声はあまり好きではない。頭では関係ないと思っていてもまるで自分が悪いみたいな、そういう感覚になってしまうからだ。僕は憂鬱ながらもリビングに入って、二人をとりあえず落ち着かせるべく大きな声で仲裁役を買って出た。

「母さん!何やってるの!」

男に掴みかかっている母を力づくで引き剥がす。それをしている最中に男に目配せをして、母にバレないように会釈することによって僕に敵意がないことを相手に示した。

「取り敢えず説明してください。この修羅場は何ですか?」

リビングテーブルの位置が乱れて椅子がひっくり返っている。僕は食傷するくらい母の惨めさと品性のなさを眺めてきたが、ここまで感情的になった姿は見たことがない。

「こんな男の話は聞かなくていいのよ?」

「自分のことを棚に上げすぎなんじゃないか?」

「じゃあ場所を変えましょう。」

僕は母から手を離して男の手を引いた。

「縹、行くのは駄目よ!」

「ちゃんと戻るから待ってて?」

僕は振り返りもせずにそう言った。本当ならば微笑みながら手を握ってやるのが良いのだが苛ついていたからやらなかった。僕はちょっとした嫌味を込めながら男の手をぎゅっと握る。男は大層驚いて面食らった顔をしていたが嫌がることはなかった。

「カフェ行きましょう。もちろん奢りですよ?」

僕は男に話しかけていたが意識は完全に母のほうに向いていた。

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