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第八十話 廊下

我が高校の廊下を歩いて必ず目につくものは何かと言われればパーテーションで区切られた無数の机と椅子だろう。このような勉強スペースは教室前の廊下や渡り廊下に至るまで、様々なところに配置されている。ここまでの話からも分かるようにこの高校の廊下は無駄に広い。僕には横並びで4人の女子が歩いてくるのがちょうど見えたが、身体を端っこに擦り付けて、おっかなびっくりすれ違うことができるくらいにはゆとりがある。

この無駄に広い廊下は自習スペースをそこら中に確保するためのものだったのか、それとも環境心理学的な配慮があったのか、はたまた僕では思いもよらない思慮の末に生み出された緻密で繊細な計算のもとで行われた建築なのか、それは分からない。ただ確かな事を一つだけ挙げるとするならば、僕は廊下から溢れ出す暴力的なまでの学力至上主義を改めて目の当たりにし、『自習環境とは何か?』みたいなことについて考えさせられたということだろう。

僕は紡の家に入れずに学校に戻ってきたのは良いものの、特にやることもなく保健室で寝転ぶことになった。そしてなんとなく居心地が悪くなってそこら中を徘徊したり、非常階段の踊り場で寝たりして時間を潰していた。要するに僕は平日に暇を持て余した暇人の中の暇人なのである。

僕は暇すぎて興味本位でパーテーションで区切られた空間に侵入して腰を下ろしてみた。外から見ると多くの学生が放課後に自習している姿が見える。使っている人の多くが受験に追われてピリピリした高校三年生である。外から見るとその光景はあまり閉鎖的には見えないが、目の前の壁と左右のパーテーションの三面が僕の視覚を覆っているため、当事者の感覚としてはプライベートな感じが強い。この体験を通じてよくよく考えてみると学校の廊下に机と椅子を置いてパーテーションで区切るというこの空間自体に対して何か錯誤的なものがあると思わずにはいられなくなった。隣の人が目端に入ると集中が出来ないというのは大いに理解できるのだが、カフェやファミレスで同じことが起きたら、別に気にすることはないだろうと思う。その違いは何かと言われれば、同じ集団であることを強制されているか、そうではないか、という違いだろう。分かりやすく言えば学校で大っぴらに自習すれば、他の人の目に付いてしまう、習慣がバレてしまう、知らない人に覚えられてしまう、ということが起きるかもしれないという不安があるということだろう。自習が見られることの嫌悪感とか羞恥心があるのは、なにも『ガリ勉であることが恥ずかしい』という思春期特有の変なプライドだけではないだろう。人は誰しも集団から離れた匿名性というものに飢えてしまうのではないだろうか?集団にいる自分というペルソナと、匿名性を獲得した自分の本性の、二項対立でこのことを語るのも良くないだろう。これを二項対立で語ることには一定の条件付けをしなければならない。そして僕自身は言語ゲーム的にこの条件付けの限界を露わにする営みに興味も無ければ関心も無い。こんな休むにも似た僕の考えはどうでもいいのだ。ただ僕は多くの高校三年生がパーテーションで区切られた空間の中で勉強しているこの異様な廊下空間に匿名性もへったくれもないだろうと思っただけだ。僕はこの廊下空間の中で読書をしていたが息苦しいことこの上なかった。この時空間においては『勉学こそが正義』であり、『勉学をしなければ死』という洗脳じみた圧力が人間たちを支配している。僕はこの空間に辟易しながらも、同時に身動き一つとることができなかった。何か一つでも物音を立てて、彼らの勉学を阻害しようものなら、彼らの無数の悪意が圧力となって僕を押しつぶすだろうという被害妄想に囚われてしまう。この廊下空間からある程度人が掃けるまで動くことが出来なさそうだ。しかしこれは神の思し召しと言うべきか、この地獄のような時空間から僕を救い出してくれる女神が現れた。

「鬼畜くん?」

「貴様、死にたいのか。」

「やんのか、コラ。」

「いやそういう意味じゃないです。冗談です。ごめんなさいでした。」

後ろ姿だけで人間を判別できる姫宮さんに驚きつつも胸を撫で下ろした。今の僕には彼女が天使に見える。『幸運の女神には前髪しかない』という言葉があるが、それを否定する確固たる証拠が目の前にあった。彼女は決して前髪以外の毛髪がないエキセントリック少女ではない。艶のあるショートカットの髪からは本物の天使の威厳を感じる。僕は彼女の存在が何なのかを確かめるべく、厳かな口調で慎重に言葉を選んだ。

「姫宮さんって前髪以外の髪を削ぎ落とす予定ってあるのかな?」

「え?ないけど…。」

なるほど、天使には前髪しかない云々の話はガセだったらしい。彼女がそう言うのならば間違いない。そして周囲からこの上ない殺気を感じるが、これはきっと僕の自意識過剰であり、誇大妄想であろう。このような自己防衛を働かせながら僕は彼女に目配せをした。

「女の子とお話しようか、鬼畜くん?」

「ありがとう。」

当て擦りをして僕を追い込もうとする言葉には苦笑したが、その言葉とは裏腹に彼女の表情には憐れみの色があった。

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