第七十九話 防衛機制
綾地家の前まで来ると綺麗なご婦人が僕を待ち構えていた。彼女は仁王立ちで腕を組んでおり、目が据わっている。僕に対する警戒心があるように見えるが気のせいだと信じたい。
「おはようございます。睦美さん。」
「のこのこと何をしにやって来たのかしら?」
「待ってたって事は聞いてるんでしょう?」
「紡に言っても埒が明かないから縹くんを説得しようと思ったの。」
「さいですか。」
どうやら紡は甘やかされているが信用されていないらしい。いや信用も何も、水疱瘡の紡がいる家に懲りずに突入しようとしている僕が100%悪いのだけれど。きっと寝ていないせいで変なテンションになっているのだろう。なんだか僕の頭の中で壮大な責任逃避がなされた気がするが、きっと気のせいだ。別に間違ったことは何も言っていないはずだ。
「学校はどうしたの?」
「最近は寝不足なので一週間休みをもらっています。」
「それで家には居られないから学校にいると。」
僕の制服姿を見て事情を察したみたいだ。そして睦美さんは急に近づいてきたかと思うと僕の頭に拳骨を振り下ろした。
年上のご婦人に叱られるというのはなかなかどうして悪くない。いやなんならもっと痛くしてほしいまである。
平静を保つために頭の中で防衛機制(変態ごっこ)を働かせつつ、僕はなぜ叱られたのかを考えた。だが正直に白状すれば、このシチュエーションは僕の胸を大いにときめかせるものだった。この言いようもない喜びと少しの焦燥感によって、僕の平常な思考は大きく妨げられている。僕は表情筋を制御してニヤつくのを抑えるのに必死だった。僕は恋する乙女の気持ちを理解したのかもしれない。
「これが恋…。」
僕は心ではなく身体でそれを理解した。
「そんなに嬉しそうな顔をされるとは思わなかったわ…。あとそれは恋じゃなくて性欲よ。」
睦美さんはなぜか毒気を抜かれたような様子になって脱力した。そういう呆れた目で見られるのも好きかもしれない。それはともかく、どうして睦美さんは僕を叱ったのだろう?僕は我に返って睦美さんをじっと見た。
「助けてって言ってる割には、まるであなたは助けさせてくれないわね?」
「どういうことですか?」
綾地家の皆にはたくさん助けてもらっている。放課後の僕の居場所を提供してくれているし、僕を気に掛けてくれている。それどころか僕のことを本当の息子のように思ってくれている。これ以上何があるのだろうか?
「あなたは冗談めかして逃げてるけど紡に会いたいんでしょう?だったら堂々と言いなさいよ。その防衛機制はあなたの悪い所よ。」
「でもどうせ会えな−−」
「勝手に諦めて逃げるんじゃない!」
睦美さんは先程とは比べものにならない力で僕の頭に拳骨を振り下ろした。頭が揺れるほどの衝撃の後に強い疼痛が広がる。
「ワガママを言いなさい。私達を頼りなさい。」
「そんな事できませんよ…。」
「なぜ弁護士の私を利用しないのかしら?それに夫は警察官よ?なぜ個人的に話をしてなんとかしようとか思わないのかしら?立場的に限界はあれど、ちゃんと力がある大人をどうして使わないのかしら?」
「……。」
それは、言えない。
その理由を突き詰めてしまったら完全な僕のワガママになってしまう。
環境の変化が極度に嫌いだという個人的な僕の性質がそうさせているというだけだ。僕がこうなっているのは何も母のせいだけではない。僕の無思慮、無計画、惰性の三つの悪癖がこうさせているに過ぎないということだろう。だが決して直そうという意思がなかったわけではない。直そうと思っても直せないのだ。初めての道、初めての風景、初めての関係性、初めての店、乗ったことのない乗り物、挙げればキリがないほどに僕は初めてのものや新しいものに対する生理的な恐怖がある。何度も直そうとしたが、緊張してもコンビニで買い物が出来るようになるまでが関の山だった。睦美さんにワガママを言うなんて新しいことは絶対にしたくない。
「僕はすごく生きづらいです。」
「そうね。」
「電車くらい一人で乗れるようになろうとしたけど身体が言うことを聞かなくて、ずっとトイレで吐いてました。一人でお店に行ってご飯くらい食べられるようになろうと思って挑戦したけど、店にすら入れずにずっと震えていました。僕は新しい環境とか新しいことがとにかく出来ないんです。こんなことを言うのもおっかなびっくりなくらいなんです。」
「それで?」
「ワガママは言いません。」
「……。」
睦美さんはまるで整理されないままに放たれた僕の言葉を整理するように目を瞑っていた。
「ままならないものね。」
「ごめんなさい。」
「縹くんは私と夫の恩人だわ。いつ消えてもおかしくなかった紡を明るくしてくれた。当時の自分たちは小さい頃の紡の聡明さが怖かった。『大人』とか『経験』とか便利な言葉を使って煙に巻いてまるで相手にしちゃいなかった。私は紡と話せるだけの能力があったのにやらなかった。」
「……。」
「ままならないものだわ…。」
彼女は僕のことを慰めるわけでも問題を解決するわけでもなく、ただ自分の話をしてくれた。傍から見れば会話が成り立っていないだろうし、実際に見てもそうなのだろう。でも僕は睦美さんがそうしてくれたことがたまらなく嬉しかった。
「縹!ハグしよ!」
玄関から出てきた紡がそんな事を言って駆け寄ってきた。紡が呼び出したのはどうやら僕を手籠めにするためだったらしい。彼女の顔は火照り、目は蕩けて妖しい光が宿っている。睦美さんはそんな紡をハグして拘束した。
「ババ…、じゃなかった。ママはお呼びじゃないんだよ?」
「お前なんて言いかけた?」
ブチギレた睦美さんが紡を羽交い締めにして首を締め上げた。その姿のまま紡は無事に家の中まで連行されることとなった。
「縹くんはさらっとついてこないでくれる?」
「ばれました?」
紡の元気そうな姿が見れてなんだかんだで嬉しかった。
「水疱が瘡蓋になったらお見舞いくらいは許してあげるわ。それまで我慢して頂戴。」
紡を締め上げる睦美さんの表情はどこか柔らかかった。




