第七十一話 美意識
「鬼畜くんは疲れてるの?」
「保健室で寝たからもう平気だよ。」
時刻は15時45分。
授業終わりの掃除の時間である。
姫宮さんは廊下の埃を箒で掃いていた手を止めて声をかけてきた。
そのことについて答えるのは億劫だったが姫宮さんの顔を見ると、なんだか暇潰しするおもちゃを見つけたような、無邪気な子供のような表情だったため、毒気を抜かれてしまった。
「綾地さんには気絶したことを連絡しておいたからね。」
「……。」
僕の顔は『余計なことしやがって』という気持ちを雄弁に表していたのだろう。
思いっきり鳩尾を殴られた。
内臓に響く良いパンチだ。僕は情けない呻き声をあげてしまった。
「姫宮さんは手が出るのが早いね?大人になってもうちょっと落ち着いてくれたら、僕は嬉しいな。」
「手が出るのが早いのは鬼畜くんでしょ?でも綾地さんに手が出るだけだから内弁慶か。」
「どういうことだ?」
「綾地さんに深夜連絡されて惚気話を聞かされたよ。綾地さんが鬼畜くんの耳元でASMRごっこをして−−」
「それ以上言ったらお前を◯して僕も死ぬ!」
「それで鬼畜くんの顔が蕩けたのを見た綾地さんが盛り上がったんだけど、そんな綾地さんを止めるために−−」
「降参だ!何でも言うことを聞くから!」
あの話をされるのは嫌だ。思い出したくもない。
紡はすごい喜んでたけれど、なんというか、すごい情けないから。
「どこまで聞いてるんだ?」
「うーん、私が最後に聞いたのは鬼畜くんが甘えきった声で−−」
「もういい。大体分かった。」
どうやら全部の話は聞いてないらしい。
それでも僕の尊厳を破壊するには十分だ。
「それで?何をしたら黙ってくれるの?」
「綾地さんが寂しがってたよ?」
「それで?」
「綾地さんを癒してあげなさい。」
姫宮さんの言うことを聞くのはこれで2度目だが、どれも自分のためではなく他人のための要求をしているのに素直に感心してしまった。
考えすぎかもしれないが『綾地紡の恋路を応援する会』なるものの発起人が彼女なのだが、その欲望はどこか他人の幸せに向けられていると思ってしまう。
クラスのまとめ役になってるのも、こういう性根の優しさと面倒見の良さという二つの美点があるからなのかもしれない。
まあ姫宮さんの事は全然知らないし、僕の穿った見方なのかもしれないけれど。
「姫宮さんの言うことも聞くよ?」
たとえ勘違いの可能性があっても、そういうことを考えてしまったら、なんだか胸が締め付けられるような気持ちになった。
利他的な人には報われてほしいものだ。
『疑わしきは罰せず』という言葉があるのだ。善良な小さな個人の不利益を見逃すのは僕の美意識に反することだ。それに善人に見えたのなら、何かを与えてしまいたくなるのが人情というものだろう。
「じゃあジュース奢って。」
「了解。」
「そんなので良いのか?」と思ってしまったが、まあいいだろう。
無理難題を言われても嫌だし。
「綾地さんに言いつけてやろ。」
「あっ…。」
紡の基準ではこれはアウトなのだろうか?
そこまで面倒臭くないと思うのだが不安は拭えない。
姫宮さんはニヤつき顔を隠そうと必死で顔を強張らせていた。




