第七十話 レバー
あれ?保健室か?
ベッドの上で目を覚ますとまずトラバーチン模様の天井が見える。起き上がるのも気だるかったので僕は天井の斑点模様を数えて状況を整理した。
現在の時刻は15時13分。
四時間目に『探究』という授業があった。
それは知らないことを知ったふうに喋って、なんとなく議論してる感じの雰囲気を作るような授業である。
ただクラスメイトの一人がジェームズ・オールズとピーター・ミルナーの脳内頭蓋内自己刺激(ICSS)について調べたことを発表していて、オペラント条件づけやら報酬系の研究がどうなっているかについての話がすごく本格的で聞き入ってしまったのだ。
その発表でレバーを押しまくって自分の脳刺激で快楽を得ているラットの動画が流れた。
最初はなんだか少し滑稽で愉快に見えたのだが、なんとなくラットと自分を重ね合わせてしまった。僕にとってのレバーってなんだろうと考えたときに、急に意識が遠のき、冷や汗がだらだら流れ、息を吸っても肺が少しの空気しか受け入れてもらえないような、そんな感じになったのだった。別に僕にとっての『レバー』というアナロジーにグロテスクな深淵を見つけたわけでも、そんなものがあるだろうという予感があったわけでもない。ただよく分からないが血の気が引いたというのが正確なところだろうと思う。あの時は本当に死ぬかと思ったが無事で何よりである。
「おう。やっと目を覚ましたか。」
担任が保健室の先生が使う机に座ってノートパソコンで作業をしていた。
「いつ運ばれたんです?」
「11時30分前だったか?突然お前が横にぶっ倒れてビビったぞ。幸いなことに息はしてるし、脈もあったから、目が覚めるまで様子見でいいだろうと保健の先生は言ってたな。なんだ?疲れてるのか?」
「夜更かしが過ぎただけですよ。」
「嘘つけ。」
担任はため息をついた。その様子には安堵と若干の保身が見え隠れする感じがして可笑しかった。
「まあ言いたくないものは聞かないさ。その代わりお前のことは細かく見ることにするよ。お前はなんか危なっかしいからな。」
「そうですか?」
「そんなことは俺の都合だとして、お前は課題をやれ。ちゃんとするって約束した割には2回に1回しか提出してないからな。」
「先生も官僚制の形式主義に毒されて書類仕事をこなす中で、『丁寧だからどうでもいい』って思ってしまうようになってしまった汚い大人なんですね…。見損ないましたよ。」
「そこまで口が元気なら身体の方は大丈夫そうだな?汚い大人の余裕としてその軽口は聞き流してやる。」
僕は丸椅子を引っ張り出して課題をこなした。
担任とはジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』を読んだことで意気投合したり、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』はツァラトゥストラとイエスの二項対立として捉えるのは果たして本当に正しいのかどうかとか、前期ウィトゲンシュタインの要素命題の相互独立性の妥当性を議論したり、そもそも要素命題なるものをこしらえた目的は何かみたいなことを議論したりして、当たり障りのない世間話をしていた。まあ担任は僕が言ったことを律儀にネットで調べて議論していただけだが。僕はまんまとおだてられてしまったということだろう。
「なんとなくお前の人となりが分かった気がするよ。」
「僕はまんまと乗せられたわけですね?」
「お前は良くも悪くも考えすぎる。そして良くも悪くもお前は自分なりの確かな答えを出せる。それは若さの勘違いとは明らかに違う。それはお前の良いところだ。でも。」
そこまで言って担任は黙り込んでしまった。
眉を顰めて、腕を組み、悩ましげな唸り声をあげていた。
「そこまで言うなら言ってくださいよ。」
「適当に生きたらどうだ?」
なんだかその言葉が僕の心の中にストンと落ちた。なんだか大事なことを言われた気がするが、どこかで納得できない自分もいる。
「よく考えてみます。」
「お前なあ…。」
真剣に答えたのだが呆れられてしまった。




