第六十九話 フェチ
「いいんちょ、じゃない、海舟おはよう。」
「縹氏は随分と早いな。」
僕は6時30分には学校に到着し、非常階段でカントの『プロレゴーメナ』を読んでいた。
正式には『学問として現れうる将来のあらゆる形而上学のためのプロレゴーメナ』という長ったらしい題名である。
なぜ『純粋理性批判』を読まないのかと言われれば単純な話で、分厚い上に僕にはとても理解できないからである。文庫本で何巻にも分かれているものは存在するが個人的にはあまり好きではない。それに『純粋理性批判』はカントの言いたいことを理解するのはそこまで苦ではない。ただそこに至るまでの論証とカントの作り出した概念を理解し、自分で使いこなしたり、言葉にして説明するとなると難易度が一気に上昇する。それゆえ僕はカントのことを何も分からないと言っても過言ではない。『純粋理性批判』を読むと、どれだけ自分が言葉を曖昧に使っていたのかを嫌というほど思い知らされる。
『プロレゴーメナ』はカントが自分で『純粋理性批判』を解説したみたいな本だから比較的とっつきやすい。個人的な感覚だがカントが喋ってるみたいな感じがしてとても好きだ。
「随分と難しい本を読んでるじゃないか?」
「海舟はこういうの読まないの?」
「あまり読まないな。でもヨナスとかブーバーとかショーレムとかのユダヤ人哲学者の本は好きだな。」
なんか紡が嬉々として乗っかってきそうな話題だな。なんせ紡が自分の眼鏡に付けた名前は『グノーシス』だし。
「語れるほど詳しくはないかも。紡はヨナスが大好きだから機会があったらそういう話を振ってみたら?色々と話が合うと思うよ?」
「うむ。まあ機会があったらな。」
海舟は『行けたら行く。』みたいなニュアンスでそう言った。確かに女子軍団のマスコットキャラに収まっているあいつに話しかけるのは至難である。
「綾地氏とは一緒ではないのだな?」
「病欠だよ。しばらくは学校に来れないかも。」
「綾地氏のことを愛しているのだな。」
「はあ?」
「なんだか、あれだな。これは言っても良いことなのだろうか?」
海舟は身体を左右させてどこか落ち着かないような、言いたいことを我慢しているような、そんな様子だった。
「まあ僕らの仲なんだし、言っちゃえば?」
「縹氏は凄く辛そうな顔をしている。事情は分からんが男と女なんだ。同意を取れば程々にそういうことはしてもいいと思うぞ?色々と溜め込むのは良くないと思うぞ?」
「聞かなきゃよかった…。それに僕はそういうのを顔に出すほど下品ではない。」
「まあ良いではないか。そういうのを本で読んだんだ。」
「あれは架空だからいいんだろ?」
「縹氏は禁欲主義者なのか?それも美徳だが、あまり世界から疎外されぬようにな。」
なるほど。海舟の悪趣味かと思ったがそういうことを言いたかったのか。ヨナスの話とも繋がるし。僕は良い友と巡り会えたみたいだ。
「紡が水疱瘡なんだけど、めちゃくちゃ看病したい。それで−−」
僕は懺悔室で自分の罪を語るような気分だった。
下品なことは言ってないが、ここから先は男子高校生が限界まで踏み込んだ、切実かつ生々しい欲望の話をしたということだけ報告したい。
「女の子の水ぶくれって僕はすごくいいなあって思っちゃったりするんだけどね。それはなぜかって言えばやっぱり自分がその部分を見た時のなんとも言えない−−」
「もう口を閉じていいぞ。」
海舟が絶句していた。別に大したことは言ってないと思うのだが。
「まあ、それを綾地氏に言ってみるのも良いかもしれんな。」
「良いわけねーだろ!」
海舟は適当なのか真剣なのか分からないようなアドバイスをして僕から離れた。
そこまで引かなくていいじゃん…。僕は男の子の無垢な心を言葉を尽くして包み隠さずに表現しただけだ。そんな犯罪者予備軍を見るかのような目で僕を見るな。
まあ色々あって僕は疲れているんだろう。ちょっと不安定になってしまっただけだ。
僕は責任を自分の疲労に帰属させて、自分のフェティシズム的な発言を正当化した。




