第六十七話 ナルシズム
僕は母親から一度たりとも殴る蹴るの暴力やネグレクトや暴言や人格否定などは受けていない。
多くの人間は当事者であるからには必ず自分の被害を大きく見せたり、あるいは小さく見せたり、不条理を強調したり、自尊心を守る語りをしたりして体験に脚色をつけることは免れないだろう。
それはこの僕も例外ではない。
そしてこの脚色を無くして、なるべく客観的に語ろうとする努力は、逆に真実を覆い隠したり、体験の記述の精度を下げるものになるだろう。
それ故、僕が心の中で反復する体験の記述は、僕の脚色が大いに含まれていると宣言したい。
母が僕に差し向けているものは悪意でもなければ無関心でもない。他者に対する徹底的な無思慮である。母は言う。『人間の感情ってのは理屈では説明できなくて目に見えないものなのよ。』と。この言葉を聞いたときは心の底から母を嘲り、笑った。母の目に何が見えているというのか?その命題に何の意味があるというのか?
こんなことを母に言って、この言葉をよく考えてみるなんてことはまるで無意味な試みであるだろう。在りし日の僕はそんなことをしてみたこともあったが、母は決まって反論されれば大声を出し、もしくは論理的ではないことを早口でまくし立てるばかりだった。そういうときには母の言葉を肯定したり、その理由を聞いたりして、さも文芸人の高尚な人間観察を拝聴した観衆のごとく頷いてみせるのが早いという処世術は、僕が7歳の頃には無意識で身につけていた。
男に逃げられる前の母の寛容さは現在になっても尊敬すべきものだと思っているが、なぜここまで変わったのか?(あるいは変わっていないのかもしれないが)というのは分からない。
寛容なだけな人間など存在しないように、無思慮なだけの人間も存在しないという、ただそれだけの話なのかもしれない。
「まったく、船を木造で作っているというのに上にテラスとか作ったら、重心が上がっちゃうじゃない!所詮はテレビね。」
母さんの秘密がバレてから時間が経ち、5月も下旬になった頃。
中間テストも終わって特に行事もない時期だ。
最近は夜職であることを隠すことをやめたらしい母と毎日ご飯を食べている。
この時間が、苦痛だ。
米粒とおかずを何度も何度も噛み潰して飲み込む。その1回1回の嚥下が吐き気を誘発する。
僕は母との食事に600mlの温かい緑茶がないと耐えられない。
母のテレビに対する指摘は的確であったが、その言葉には『大きな物語を否定し、私だけが真実を知っている。』という自己物語に酔いしれているニュアンスがあった。そこには現状のままならない自分に対するルサンチマンがあり、自己物語を創出することによって、恵まれない自分の責任は自分の外側にあると思いたいナルシズムがあるのだろう。そしてそのナルシズムの大部分は多くの人間が思っているように、その人の嘘や現実逃避や無能力でできてるわけではない。自己自身からの逃避によって成り立っているのだろう。
心の底から母を侮蔑する僕のナルシズムが、これから先も一生抱えるであろう僕のルサンチマンを癒した。僕が内省して自分を恥じ、この愚かしい認識のやり方を変えることなど、この先の一生で一度もないだろうと思う。
母を侮蔑する内面と、この場を丸く収めるための外面を瞬時に切り分ける。
内面など晒したところで意味などない。
もっと本音を言うならば、『関係や環境の変化がとても嫌いだ』という僕の悪癖がそうさせているだけのことだということだろう。
「本当だよね。うわ!ロフトまで作り出しちゃったよ!実際に動かしてひっくり返ったりしたら笑っちゃうね。」
「素人だわね。まあ別にそんなのはどうでもいいんだろうけれどね?」
他にも大食いの誰それが何だとか、最近のお笑いが何だとか、スポーツで盛り上がるのは何だとか、母は大衆を仮想的にして自己幻想を補完する発話を繰り返していたのに対して、シンバルチンパンジーのように手を叩いて相槌を打ったりするのを楽しむことで、分裂した自己自身の恒常性を保っていた。
そんなこんなで地獄の時間を乗り越え、皿も洗い、完全に一人になろうと部屋に向かったところで母が後ろからしがみついてきた。
「あの娘のことは嫌いって言ったでしょ?」
変なところで勘がいいことに感心した。
今日は一人で寝れないみたいだ。
明日は早くに紡を起こしに行こうかな…。
そんな現実逃避をしないとやってられなかった。




