第六十六話 牢獄
男が僕の家から帰ると母さんと二人になった。
「今まで母さんは働きすぎだったんだよ。少しはゆっくりしたら…?」
「でも、辛い役回りをあなたに押し付けたわ。」
母さんは泣きじゃくっていた。
口で言うだけならいくらでもできることだ。本当に申し訳なかったら僕にこんなことをさせたりしないだろう。母は悲劇の自分を演じようとする自己幻想の粉飾に忙しいらしい。そのような茶番に長ったらしく付き合うほど僕はお人好しではない。
「母さんは悪くないよ。気付いてあげられなくてごめん。」
僕は母の手を握り、ハンカチで涙を拭いた。
「お腹すいたよね?鶏肉のトマト煮込みとトマトの中華スープのどっちがいい?ご飯あるし、唐揚げは買ってあるけど。」
「じゃあ、鶏肉のトマト煮込みがいいわ。」
「がっつり食べようか。」
「辛くなったら言ってね。」
「……。」
その言葉に一瞬だけドロドロした感情が湧いたが、僕はすぐに打ち消した。
僕は最短の会話、手早い料理、母を慰めるため培った僕の技術、の三つを駆使して最速で不快な時間を終わらせ、紡に連絡した。
時刻は22時である。
「どしたん?」
紡の声を聞くだけで力が抜けた。
でも事情がバレないように声色を上手い具合に操作する。
「ちょっと声が聞きたくて。」
「恋人ごっこかな?」
「うん。」
「なんか目的がないとむず痒いんだよ。」
「じゃあゲームしよう。」
「なんかあったんでしょ?」
「言いたくないとだけ言っておくよ。」
「無理しないでねー。」
紡にしては珍しく、詮索することは無かった。僕のカモフラージュが上手かったのか、紡の思慮によるものなのかは分からない。
「じゃあ寝落ち通話しよ?」
「ええ?寝坊しそうな紡を起こしに行くのは僕なんだけど。」
「じゃあやめる?」
「ちょっと待て。なぜ寝落ち通話しか選択肢がないみたいな話の流れになってるんだ。」
「縹が騙されてくれないんだよ…。」
紡が甘えるような声を出した。じゃあちゃんとやりたいって言えばいいのに…。
「じゃあ寝落ち通話しようか。」
「大好き。愛してるよ。」
「……。」
茶化すのも悪いような気がするし、真剣に答えるにも何を言えばいいのか分からず黙り込んでしまった。
「私は縹を独り占めしたいな。」
自分が紡に求められていることを理解した。
それはものすごく嬉しいことであると同時に底冷えするほどの冷たい感情が僕を支配した。
怖い。紡の気持ちに応えてしまったらこんな現実なんて、すぐさま打っ棄ってしまうだろう。
「なんで僕に素直になれるの?他の人にはかなり猫被ってるのに。僕も似たようなもんだけど、どうして僕にはそんなことを言うの?」
「これは賭けなんだよ。縹にはそうとしか言えないかな?」
僕に素直になれる紡がすごく眩しく見えた。自分にはとてもできそうにない。
「紡と結婚したいな。」
「うん。」
「高校を卒業したら二人だけになれる場所が欲しい。それでさ−−」
僕は牢獄の中で外の世界を夢見ているような感覚だったと思う。言葉を尽くせば僕が牢獄の中にいる理由は原理的に幾億幾兆ほど挙げることができるだろう。僕の外側の見えない社会構造とやらを取り上げたりして、僕がこうなった原因というものを23ほど考えてみたものだが、どれも認識論的に意味がある営みとは言えなかった。要するにいずれもが各論であり、総論として『なぜ、こうなったのか?』とかを論証することなど僕の知能ではおよそ不可能な試みであり、自己正当化や自己幻想の埋め合わせには大層役に立つものではあったが、最終的に言えば僕の実存とは何ら関係のないものだった。
例えば僕は心優しかった在りし日の母が、どうして今のように変わり果てたのかなんて分からない。それに僕の外側にある官僚制度のどうこうやら、既得権益がどうこうやら、教育のどこそこが悪いどうやら、世代論どうやら、をもっともらしく語ってみることはできるが、自己幻想を粉飾したり、あるいはそれをしながら人を騙すことができる、という二つのプラグマティックな意味しか僕には見出せなかった。
それでも、実現可能性を度外視した紡との将来を語るということは、僕にとってはこの上ない幸福だった。
「それで?好きって言ってくれるのかな?」
「ずっと思ってたんだけど、なんでそこにこだわるの?」
「うーん、よく分かんないかも。でも私を信じてもらわないといろいろマズイんじゃないかなって思ってるだけなんだよ。」
「そう。」
「ごめん。それもあるんだけど本音は別のところにあるんだよ。」
「じゃあ本音は?」
「縹に好きって言われたら、きっとすごく幸せな気持ちになれるんだよ。」
僕が気持ちを言えないのは信頼がないからか?それは違うだろう。僕には信頼がなくても紡は応えてくれるという確信がある。おそらく僕のストイシズムがこの関係にブレーキを踏み抜いているのだろう。これ以上進んだら、僕たちは生きていけないという確信がある。現実にうんざりして、二人だけの世界に閉じ籠もることになるかもしれない。今だってそうしたくて堪らないというのに、その先に進んだら歯止めが効かなくなるだろう。だから絶対に踏み込ませない線引きは守らなければならない。
僕は、死にたくない。
そうなるのは時間の問題だとしてもだ。
「それは最悪の場合も考えて言ってるの?」
「いいじゃん、それで。」
紡はあっけらかんとした様子だった。
どう答えていいのか分からない。
「縹が私にプロポーズしたときに言ったことなんだよ?もっと自分に素直になったらどう?」
「まあ、最悪の場合がそうなるっていうのなら幸せかもしれないな。」
「最悪じゃなくて、そうなりたいんだよ?」
それが紡の本心みたいだ。でも僕のストイシズムが、紡の気持ちに応えて突き進むことを許してくれない。僕の中の良心は、ストイシズムに対する裏切りをいつだって監視して、口煩く僕を指図する。こればっかりは僕の性分と思って諦めるしかないみたいだ。
「じゃあ結婚しよう。」
「うん?」
「ひとまず二人だけになりたいな。それはその時になってから考えよう?」
「その話に乗ってあげるんだよ。それで縹は好きって言ってくれるのかな?」
「言わない。言ったらダメになっちゃうから。」
「縹は可愛いすぎるんだよ。隣にいたら思いっきり抱きしめてたよ?」
「キスもえっちぃことも無しだよ?これが僕の線引き。守らなかったら嫌いになっちゃうかも。」
「ウン、ワカッタ。」
「……。」
まあ、いいだろう。
僕らはくだらない話、将来の話、結婚したらしたいこと、みたいな色々な話をした。
寝落ちすることなく夜が明けてしまった。




