第五十四話 仮面
目を覚ますと目の前に紡の顔があった。
可愛い…。
思いっきり抱き寄せて堪能する。
なんだか胸がいっぱいになった。
紡の温かさと匂いで頭がふわふわする。
いや、もちろん分かっているのだ。
僕は完全に寝ぼけている。
欲望を抑える理性がまるで仕事をしていない。
「縹…?」
僕はびっくりして身体を離す。
紡の目はとろんとしていて、なんだか舌っ足らずな感じになっていた。
「やめちゃうの?」
完全に甘えきった声だった。
たまらない気持ちになって、再び抱きしめた。
そして髪を丁寧に手櫛で梳く。
「溶けちゃいそう…。」
紡はご満悦な様子で、その声は艶っぽかった。
ダメだこれ。癖になる。
毎日これができたらいいのに。
けどそれをすると色々とダメになりそうだ。
こんなことやってたら、いつか絶対にこの現実を打っ棄ってしまうだろう。
「二度寝したい。すごく気持ちいい…。」
「髪を梳くのをやめちゃ嫌なんだよ。」
「うん。」
紡も僕の頭をさわさわする。
僕たちはお互いを甘やかしあった。
しばらく離れられそうにない。
だが幸か不幸か分からないが、そんな僕たちに水を差す存在がいた。
「その女の子は誰?」
心臓に氷柱を突き立てるような冷たい声で、僕の頭が覚醒する。
時刻は7時30分を回っていた。
今日は土曜日だと言うのに、親らしいことをしたかったのか何なのかよくわからないが、僕を起こしに来たらしい。
「母さん、これはですね。あれですよ。」
「私が言えたことではないけれど、あなたもあなたね…。」
母は完全に呆れていた。
そして紡に目を向ける。
「あなたはうちの息子のガールフレンドかしら?」
「そうですよ?私は縹と結婚するんです。」
「まあ、若いうちの判断は気の迷いということもあるから、自分の言葉に縛られないようにね?」
「安心してくれて構わないんだよ。私はそんなにお馬鹿さんじゃないよ?それに大切な人とは、ちゃんとしたお部屋でするくらいの節操はあるんだよ。」
ものすごい皮肉だ。
完全に喧嘩を売っている。
「その様子だと早すぎたかしら?」
「私は縹の恋人になれるし、妹にも姉にもなれるし、母親にだってなれるんだよ。相対的に考えてあなたに優れた機能なんて何もないんだよ?ああ、でもお金だけは置いてくれると助かるな。縹のために。」
「まあ、いいでしょう。」
紡と母は完全に睨み合っていた。
大人としての余裕を保ちたいからか、穏やかな表情を装っているが、内心穏やかではないだろう。
「息子と話したいんだけれどいいかしら?」
「分かりました。出ますね?」
すぐに立ち上がり部屋を出ようとする。
そしてドア前の母とすれ違いざまに「縹ってすっごく優しいんだよ?」とだけ言った。
色々と含みのある、嫌らしい言い方だった。
母親の余裕の仮面が非対称に歪んだ。




