第四十二話 委員長
僕は6時40分に家を出て学校に行く。
学校までは徒歩20分もかからない。
ちょっと早すぎるのではないかと思われるかもしれないが、皆と同じ時間に登校すると学校に至るまでの長い上り坂が人でごった返す。
僕は人混みがとても苦手だ。
歩くだけで気疲れしてしまう。
ちなみに紡はそんなものを気にしないため、誘うわけにもいかないだろう。
7時前に学校に到着する。
下駄箱に靴を入れて、廊下を歩いていた時にチャバネゴキブリを人形遊びをしているように掴み、お話をしている奴がいた。
……。
日頃から世話になってるから、話しかけないのも感じが悪いだろう。
「委員長、おはよう。」
「おお、夏目氏ではないか。」
彼は僕のクラスの学級委員長で、賄賂を払えば授業を抜け出した時の人数確認を適当にやってくれる人だ。
これだけを聞くと委員長はセコくてズルいやつと判断されても仕方ないが、僕は彼以上の人格者を見たことがない。
恰幅がよく、雰囲気がとても丸い。そして落ち着いた声の調子を乱すことがない。困っている人はどんな人でも躊躇なく助ける筋金入りの紳士だ。
彼はどんな時も聖書を持ち歩いている。
ちなみにクリスチャンではない。
彼はチャバネゴキブリを外に出し、手を洗いながら僕と会話する。
「委員長はいつもこんな時間に?」
「ああ、非常階段で本を読んでいるんだ。」
「じゃあ僕もそっちに行くよ。」
どうせ暇だし、委員長は唯一の男友達だ。
そんなに話さないけど。
僕らは非常階段に適当に座り、カバンから本を取り出す。
委員長は聖書を英語で読んでいた。
「委員長は英語が読めるのか?」
「まだ勉強中だがね。聖書は一通り日本語で読んだから内容は大体分かるね。」
「僕もそれしようかな…。」
いつも英語くらいは考えないで読めるようになりたいと思っていた。
「サリンジャーとかヘミングウェイを英語で読もうとしたけど挫折したよ。」
「夏目氏は勉強家なのだな。」
委員長は感心するように言った。
「聖書の訳は何?」
「口語訳だ。」
「文体が独特で読みづらくない?すごいな。」
「ESVもKJVもあるぞ。」
委員長は何気にインテリだ。
見習いたいところである。
「もうすぐテストだけど委員長どうするの?」
「テストには出席しないさ。」
彼はテストには出席せずに補習で高校生活を乗り越えようとする猛者である。
しかも補習には出席せずに高校側に最大限の譲歩を引き出した上で単位を取るらしい。
まぁ、我が校は偏差値が高いがプライドも高い。
留年なんかする奴がいたら面子と評判が潰れるのを恐れているのだろう。
目隠ししても卒業できる高校というのが我が校の裏評判である。
「なんでテスト受けないの?」
「テストなんてしたら勉強ができないだろう?」
なるほど、箴言である。
どうやら委員長は本を読んで働かないという人種みたいだ。
本を読むことが労働という社会的活動と対置されるのは、考えてみれば中々奇妙なものである。
労働というのは読書の邪魔をするのだろうか?
どうも『働いて本が読めなくなりました』とかいう人間に対する軽蔑と侮蔑と嘲笑が自分の中から抜けない。
その時間でスマホを触ってるなら、本はスマホ以下だと認めればいいのに。
だって所詮は趣味だぞ?
自分にとって本はその程度なのであって、さっさとそれを自己幻想を補完するツールであることを認めて、潔くSNSで『年200冊の本を読んでます!』と発信したりして承認を集める戦略を考えるゲームをした方が幸せになれるだろうに。
それだって良識のある賢い人間の行動の一つじゃないか。
まあ、僕は学生なんですけど。
僕は自分で立てた問いの中にいる架空の人格を嫌悪していた。
「夏目氏、顔が怖いぞ。」
僕の侮蔑が顔に出ていたらしい。
ちょっとした自己嫌悪に苛まれる。
それを誤魔化すように、なんとなく考えていたことを言葉に出してみた。
「テストしたら本が読めなくなるの?」
「いいや、本を読む時間を最大化してるのさ。」
委員長とは少しだけ仲良くなれそうだ。




