第三十七話 このままがいい
「おお。」
時刻は朝の5時38分
目を覚ますと見知った顔がいた。
紡は寝る時に眼鏡を外していなかったみたいだ。
誰かと一緒に寝たことがないから、ちょっと不思議な感じだ。
どうやらずっと手を繋いだままだったらしい。
そして、『現実に戻りたくない、ずっとこのままがいい。』という感じが自分から抜けない。
いつの間にか紡は目を開いていた。
「縹はおはようと同時に始めるのが趣味だったんだね…。私はそういうのも受け入れるよ?」
いきなりの軽口に苦笑する。
「おはよう、紡。」
「えっ、始めるの?」
「何も始まらないよ。」
いつものやり取りだ。
紡は満足して防音室に行こうとする。
彼女の袖を掴んで、反射的に止めてしまった。
「このままがいい。」
軽口を言って紡に甘えることもできた。
でもそれはやりたくなかった。
「いいよ。」
紡は受け入れてくれた。
僕たちは布団の中で手を握り合って会話する。
他愛もないことをずっと話していたが、紡がいきなり踏み込んで来た。
「縹は私のこと、好き?」
「怖いんだ。」
僕は正直な気持ちを発露する。
それは、すごく苦しかった。
「紡のことを−−」
「言わなくていいんだよ?」
紡がすごく悲しそうな顔をしていた。
僕は無意識に涙を流していたらしい。
声もちょっと震えている。
身体が心について行けないみたいだ。
よくあることだ。慣れている。
「ああ、こんなの別に−−」
「どうでもよくないんだよ!」
紡は大粒の涙をぽろぽろ流していた。
僕はハンカチで彼女の涙を拭いた。
「縹はいつもハンカチを持ってるね。」
「別に、普通じゃないか?」
紡は何かを言おうとしたが、言葉を飲み込んだ。
「泣いてるなら、どうでもよくないんだよ。」
「泣くなんてもう慣れたよ。」
覆い隠しても、彼女の態度を頑なにするだけだから、素直な気持ちを整理せずに言うことにする。
「小学生の頃なんて毎日泣いてたんだ。僕にとっては、これまで生きていたことが奇跡なんだよ。紡がいて、大五郎さんも睦美さんもいるんだ。こんなに幸せなことはないのに、これで不幸自慢なんかしたら僕は自分を絶対に許さない。」
こんなもの、これまでからしてみれば不幸でもなんでもないことだ。
「縹はいっぱい頑張ったんだよ。」
紡は冷静さを取り戻して、僕にとって手触りのいい言葉を探してくれた。
彼女のその言葉がすごくしっくりとくる。
「僕って疲れてたんだな。」
そんな当たり前のことにようやっと気付くことができた。




