第三十六話 誘惑
「一緒に寝よ?」
「いや、聞こえてないわけじゃないから。」
「分かった。じゃあ行こ。」
「いや、違うから。」
僕は基本的に紡の言うことに従いがちではあるが、大五郎さんと睦美さんの言いつけがある。
ここで引くわけにはいかない。
「ダメ?」
子供のおねだりのような口調だった。
ここは毅然とした態度を取らなければならないだろう。
「ダメです。」
そう言った瞬間に、紡の目が据わる。
僕は蛇に睨まれた蛙のように固まった。
「ダメならここで叫ぶ。」
「おい!」
「縹に手籠めにされるって叫ぶんだよ。」
「僕の信頼はそんなに薄くはないぞ?」
今日の僕は一味違う。
そんなチープな脅しに屈したりなどしない。
紡は僕の決意の固さを察して、別の切り口で攻めてくる。
「手を繋いで一緒に寝たいんだよ。」
紡は甘えるような声で、僕を悪の道に誘惑してくる。正直に言って心が揺らぐ。
だが負けるわけにはいかんのだ。
「約束は破れないよ。」
なんとか僕は踏みとどまる。
「一時間だけなんだよ。」
「そっか、ならいいよ。」
僕はあっさり陥落した。
いや、僕は屈したりなどしていない。
欲望に負けて折れたわけではない。
睦美さんには一夜を共にしてはいけないと言われたのだ。
それ故、論理的に考えると僕は紡から譲歩を引き出したという形になる。
僕は勝利したのだ。
そんな僕の強がりは10分も続かなかった。
「やっぱり、落ち着くんだよ…。」
紡の声が耳元で聞こえる。
一緒の布団に入ってから10分が経過した。
紡の目は、とろんとしてて眠そうだ。
僕たちは布団の中で手を絡ませている。
お互いの体温で中はすごく温かい。
正直に言って、すごく心地良い。
僕の心に多幸感を並々まで注がれてる感じがして、頭の中がふわふわする。
心の中から幸せが溢れて切なさと入り混じる。
強烈な眠気が僕を襲う。
こんな現実を打っ遣って、これだけで生きていたい…。
もうこのまま溶けて消えたい…。
「眠たいなら寝ちゃえば?」
悪魔の囁きだった。
紡は僕を詰ませようとしている。
一欠片の理性でなんとか抵抗する。
「だめだ。出ないと…。」
紡は「逃がさないよ?」と言わんばかりに手を強く握った。
彼女の手を振り払うなんて出来なかった。
「朝早くに起こしてあげるよ。そうしたらバレないよ?」
紡がそんなことをするわけがない。
それでもその免罪符のような言葉で、僕の心の糸がプツンと切れた。
身体から力が抜ける。
トドメとばかりに頭を撫でられて、完全に意識を狩り取られた。




