第三十五話 決意
綾地家で夕食を頂いた後に、紡は「じゃあ縹は私がもらってくね。」と両親に言うやいなや、僕は彼女の部屋に連れ込まれた。
部屋の中にある簡易的な防音室の中で、紡を膝の上に乗せたいつもの体勢で、2人で1冊の本を読んでいた。
僕の側からは文字が読みにくいため、なんとなくの内容しか追うことができない。
ちなみに読んでいるのはニーチェの『この人を見よ』である。
基本的には紡との会話を楽しんでいる。
彼女は膝の上で話し始めた。
「ニーチェの永遠回帰は一般的には『もし、あなたの人生が今この瞬間から、まったく同じ形で永遠に繰り返されるとしたら、それでもあなたはこの人生を肯定できるか?』って思想で、人生肯定系自己啓発論者のガジェットみたいに扱われがちなんだけど」
彼女の声色からは、『やってる感哲学』で金と尊敬を集めている人間に対する圧倒的な侮蔑が含まれていた。
紡さん、怖いです。
「まぁ、間違ったことは言ってないんだけど、永遠回帰思想だけをニーチェから取り出して重大な発見をしたと思うのは錯覚にすぎないんだよ。」
それはその通りである。ハイデガーの『存在と時間』から先駆的決意性だけを取り出して、何か自己啓発的な発見があり、人生が変わったと思い込むのが錯覚であるように、思想家の時代、生い立ち、思考過程などを忠実に追わなければ、僕たちの発見は往々にして錯覚になってしまうだろう。
その錯覚から重要なものが生まれるというのも、また事実ではあるが。
「バタイユの『ニーチェについて』って本の永遠回帰の解釈が面白かったんだよ。
私の理解ではニーチェの永遠回帰の『永遠』をバタイユはニーチェの発狂の原因と結びつけられている偏頭痛から読み解いているんだよ。
バタイユはニーチェにとっての偏頭痛は所与の恐怖であり、未来永劫繰り返されることが約束されているようなものだったと考えたんだよ。
そして逆説的なんだけど、その耐え難い地獄のような経験が、内発性と目的の重さを反転させるんだよ。至高な感性の人間はもはや、存在論的な前提を消し去ろうなんて思わない。その前提を積極的に受け入れて前に進むんだよ。『積極的』って何かって言われたら、過去の自分の肯定だよね。『確かにこれは理不尽だけど無駄ではなかった』という肯定だよ。それがあるからこそ、最悪の状態にある生を、その瞬間において高めようとするんだよ。」
「それは『広島の住民たちの物語について』も含まれてるだろう?『ニーチェについて』だけではない。それに私見も混ざってるぞ。」
「よく分かったね?頭撫でてあげる。」
彼女は身を捩って僕の頭を撫でる。
気恥ずかしいが、心地よかった。
「私たちは、いつになったら大人になれるんだろう?」
紡のその言葉が、僕の心臓を鷲掴みにした。
いつまでこの耐え難い頭の中の喧騒が繰り返されるのだろう?その喧騒は超克ばかりを要求してきて、まるで安息がない。
こんなことをずっとやってたら、ニーチェよろしく発狂してもおかしくないだろう。
「でも、僕らには夢があるだろ。」
「そうだね。でも博打だよ。」
「ロゴセラピーみたいなもんさ。フランクルだって、これで強制収容所を生き延びる勇気を得たんだぜ?それができる人がいたんだ。僕たちにもできそうなものだと思えないか?」
いささか乱暴な言い方だが、こうでも言ってないとやってられない。
僕たちの苦悩は、他人に言っても理解されないし、贅沢な奴だと思われるだけだろう。
「考えすぎだよ」ってたくさん言われてきた。
余計なお世話だ。
このままの自分で、大人になってやる。
そう決意したところで紡が口を開いた。
「一緒に寝よ。」
「…。」
大人になるって、そういうことじゃないからね?




