第十一話 にんじん
かつての母は、幼い頃の僕のどんなつまらない発言も相手にしてくれた。
そして
「縹のおしゃべりはとても面白いわ。」
「そんなところが大好きよ。」
みたいなことをいつも言ってくれて、そのような寛大で心優しい母を心の底から尊敬していた。
僕が6歳のとき、父が他の女性を連れて母から逃げた。母はそれについて何も話さないため、何が起きたのか僕には分からない。
母はやり手の経営者で、金回りには困らない。
何をやってるのか調べてみたことがあるのだが、公開情報から実態のある企業を見つけ出すことはできなかった。
母は精神的に不安定になり、僕へのマウンティングと干渉が加速した。
何が母をそこまで変えたのだろう?
玄関を開けるとまず、鼻につく分泌液のような匂いがした。リビングに入ると母が他に何をするでもなくソファーに座っていた。
そして母は僕には目も向けずにこう言った。
「なんで文化祭にいなかったの?」
僕はかつての母の幻想を振り払い、ここでは社会的に人間として扱われているが、その実テンプレートを繰り返すだけの、ネジ仕掛けの人形だと自分に言い聞かせて言葉を選んだ。
母の僕へのマウンティングは、僕の言葉を直接的に否定するものではない。
僕の言葉の枠組みの恒常的な否定である。
分かりやすく言うならば、僕の言葉であるAにnot Aと言うのではなく、BというAよりも包括的な集合を持ち出すことを恒常的に行うマウンティングである。
それゆえ、「ごめんなさい」と言うのは、彼女の欲求を満たす効率的な言葉ではない。
僕が適度に反抗し、僕が負けて彼女の言い分を認めることがもっとも穏便な道である。
「文化祭がつまらなかったから抜けたんだ。あんなものをやるくらいなら、本屋で立ち読みしたほうがマシだろう?母さんだっていつも勉強しなさいって言ってるじゃないか。」
「そういうことを言ってるんじゃないの!」
母は大きな声を出して僕を威圧する。
怒声を浴びせる人間は、嫌いだ。
「文化祭を抜け出したら、あなたが何か事件に巻き込まれたらどうするの?」
母は声を落ち着かせてこう言った。
「文化祭は休んでもいい。心配だけはかけないで。」
「ごめんなさい。母さんを不安にさせたね?」
僕は母の手を握り、上目遣いでそう言った。
すると母は満足したようで、明るいトーンに切り替えて言葉を続けた。
「あと、部屋の中を見たけど、14歳なんだからあまりマセたゲームをするのはやめなさい。」
「母さん!?」
「親として見過ごすわけにはいかないから、ゴミに出したわ。」
「そんなぁ。」
「バカなこと言ってないで、さっさとお風呂に入りなさい。」
「ありがとう。そしてごめん。」
「分かればいいのよ。」
そう言うやいなや、母は家を出ようとしていた。
仕事で忙しいのだろう。
「母さん、体を壊さないでくれよ?」
「なーに言ってんの。まだ現役よ。」
そうしてようやっと、家から母がいなくなった。
やっと解放された。
着替えを取り出すために自室へ向かう。
部屋に入ると、僕のPCや漫画やゲームが全てゴミに出されていた。
そして机の上には、母が僕を入学させたいらしい高校の過去問が置いてあった。
「ここまでやるか。だが甘いな。」
「オタクとは心の所作のこと。フィギュアやグッズをただ集めるだけでは三流。自信のなさの表れであろう。そんなものがなくても、彼女たちは僕の心の中に住まいを構えている。」
ジュール・ルナールの「にんじん」という作品の主人公であるフランソワを僕は敬愛している。
この程度のことは、自分の頭で乗り越えろ。
そう自分にいい聞かせ、僕は風呂に入った。
そんなことはできるわけがないというのに。




