第九章 見送りきれなかった朝
春口へ戻った夜、湊はしばらく帳場の灯りを見ていた。
第四作を通ってから、その灯りの見え方は少し変わっている。
以前なら、宿の明かりはただ静かなものだった。
今はそれが、駅や港でこぼれた時間を最後に受け止める場所の明るさに見える。
発車前の待合室。
発車後のホーム。
下りの接続を追う海側の待合。
そのどこでも決めきれず、間に合いきれなかった人が、最後にたどり着くかもしれない灯り。
澄江は、その灯りを長いあいだ絶やさずに守っていたのだろう。
そう思うと、第五作で駅のことを調べているはずなのに、どうしても第四作の宿へ戻ってくる。
春口では、それぞれの場所が独立していない。
一つの遅れが、駅から港へ、港から宿へと流れていく。
その流れ自体が、この町の物語なのだろう。
夕食のあと、汐里が言った。
「今日のこと、母のノートにもどこかで触れている気がします」
「駅から港へ流れる時間のことですか」
湊が訊く。
「ええ」
「十分ありそうですね」
「宿をやっている人間なら、そういう人を何度も見ていたはずだから」
二人でノートを見直す。
これまでに何度も開いた頁だが、読むたびに別の場所が浮き上がる。
その中の後ろのほうに、短いがはっきりした文があった。
――駅で決めきれなかった人は、宿へ来てもまだ発車のあとにいる。
――港の話をしていても、顔はまだホームに残る。
――そういう人には、帰る話より先に湯を出す。
――人は、見送りきれなかった朝を、その日の夜まで引きずることがある。
見送りきれなかった朝。
その言い方に、湊は息を止めた。
乗りきれなかった朝、ではない。
見送りきれなかった朝。
澄江は、駅の迷いを「出発の失敗」ではなく、「見送りの不成立」として見ていたのかもしれない。
そこには、おそらく千紘と父のあの朝が、かなり濃く影を落としている。
「母」
汐里がその文を見ながら言う。
「お父さんのこと、かなり具体的に見ていたんでしょうね」
「そう思います」
「ただ“遅れた男の人”じゃなくて」
「見送りきれなかった人として」
「ええ」
その理解は、第五作の中心へさらに近づいていた。
これまで父は、“置いていった人”“追おうとした人”“半歩ずつ遅れた人”として見え直してきた。
ここへきてさらに一つ輪郭が加わる。
見送りきれなかった人。
それは、ただ列車に乗れなかったというより、相手の出発をきちんと受け渡せなかった人ということだ。
春口では、そのほうがずっと重い。
なぜならこの町では、人は常に誰かの便や接続に関わりながら生きているからだ。
翌朝、湊は早めに駅へ向かった。
今日は霧はなかったが、空は薄曇りで、海の明るさも控えめだった。
ちょうど“何も決まりすぎていない”朝だった。
ホームには通勤らしい男が一人、学生が三人、買い物に出るらしい年配の女が一人。
待合室の長椅子はまだ冷たい。
湊は、その端に座って父のあの朝の順序を考えていた。
まず待合室で決めきれない。
それからホームに出て、白線の内側で止まる。
列車が来る。
千紘らしき白帽の少女は先に静かになる。
列車は発車する。
父は見送りきれないまま取り残される。
そのあとホームの端へ寄り、下りへの接続を考える。
そして海側へ向かった。
もしこの流れが本当なら、あの朝は一瞬の事故ではなく、長い未完了の連続だったことになる。
「相沢さん」
背後から声がした。
振り返ると、汐里が立っていた。
今日は宿の朝の支度を早めに終えたのだろう。
手には紙袋を一つ持っている。
「来ると思ってました」
彼女が言う。
「顔に出てましたか」
「少し」
「何を持ってきたんですか」
「おにぎりです」
「朝から」
「見送りきれない朝の人には、たぶん必要かと思って」
その言い方に、湊は少しだけ笑った。
澄江のノートの「帰る話より先に湯を出す」が、いま汐里の中で別のかたちに変わっている。
それは模倣ではなく、引き継ぎなのだろう。
「ありがとうございます」
「ええ」
「汐里さん」
「はい」
「お母さんの見方が、少しずつ自分のものになってきてますね」
汐里は紙袋を渡しながら、わずかに首を傾げた。
「そうでしょうか」
「ええ。客や人の途中を見る目が」
「……」
「前より自然です」
「それなら、よかったです」
彼女は小さく笑った。
ちょうどそのとき、下り列車の接近を知らせる音がした。
ホームにいた人たちが少し動く。
待合室のドアが開き、外の湿った空気が入る。
湊はふと、その音が父にとってどれほど追い立てるものだっただろうと考えた。
決める時間は無限ではない。
列車は来る。
発車する。
そのたびに、何かを見送りきれなかった自分だけが残る。
その連続に耐えきれず、最後に下りへ乗ったのだとしたら、その背中はあまりに人間的だった。
「今日」
汐里が列車の音を聞きながら言う。
「少し分かった気がします」
「何がですか」
「見送りきれないって、相手が去ることを受け止められないだけじゃないんですね」
「ええ」
「自分がそのあとどう生きるのかも、一緒に決められない」
「……」
「だから、発車後のホームに取り残される」
「そう思います」
列車がホームへ入る。
銀の車体、開く扉、乗る人、下がる人。
そのどれもはっきりしている。
だからこそ、かつてここでそのはっきりさについていけなかった父の姿が、今日は以前よりもっと具体的に思い描けた。
列車が去ったあと、二人はあえてそのままホームに残った。
人がいなくなり、レールの音だけが少しずつ消えていく。
それからが長い。
発車したのに、朝はまだ終わらない。
この時間に父は立っていたのだろう。
乗れなかったでもなく、見送れたでもなく、ただ列車の去ったあとの空白の中へ取り残されて。
「相沢さん」
汐里が言った。
「はい」
「お父さんが何度も春口へ戻ったの、分かる気がします」
「どうして」
「この時間、きっとそのままじゃ終われないからです」
「……」
「発車後のホームって、何もないように見えるけど、ここで終わるのはつらすぎる」
「そうですね」
「だから港へ行く。下りを追う。宿へ戻る。そうやって、どこか別の場所で続きを作らないと」
「父も、そうしたのかもしれません」
「ええ」
そのとき、背後から小さな咳払いがした。
見ると、昨日見かけた中年の駅員がホーム端に立っていた。
業務の邪魔をしたかと思って湊が一歩下がると、駅員はむしろこちらへ少し寄ってきて言った。
「昨日の話」
「はい」
「迷う人のことです」
「ええ」
「昔の駅員さんたち、よく“発車後の顔を見ろ”って言ってたらしいですよ」
「発車後の顔」
湊が繰り返す。
「乗るかどうかは、その前から分かることもある。でも」
「でも?」
「本当にその人が何を失ったかは、発車後の顔に出るって」
その一言で、湊の中の何かがきちんと定まった気がした。
発車前ではない。
発車後だ。
父が何を見送りきれなかったのか、何を追おうとしたのか、その本当の重さは、列車が去ったあとにしか表れない。
だから三輪も駅員の覚え書きも、みな発車後の停滞を覚えていたのだろう。
「ありがとうございます」
湊が頭を下げると、駅員は少し照れたように笑った。
「うちの仕事、そういう顔を見てしまうもので」
「……」
「危ないかどうかだけじゃなくて、戻ってきそうな人かどうかも、なんとなく分かるんです」
「戻ってきそうな人」
「ええ。春口はそういう人、多いですから」
戻ってきそうな人。
その言い方が、まるでこのシリーズ全体の人物を指しているように思えた。
父も、佐和子も、汐里も、そして自分も、きっとそういう種類の人間なのだろう。
春口は、戻ってきそうな人を最初からどこかで受け入れている町なのかもしれない。
宿へ戻ると、帳場の前に小さな荷物が一つ置かれていた。
新しい客らしい。
汐里が応対に向かいながら、湊へ小さく言う。
「春口って、ほんとうに休みませんね」
「ええ」
「人の途中が、ずっと流れてくる」
「だから宿も駅も必要なんでしょうね」
「そうですね」
その日の夕方、湊はノートにこう書いた。
――見送りきれなかった朝は、その日の夜まで続く。
――発車後のホームに取り残された人は、そこで終われないから港へ向かい、あるいは宿へ戻る。
――父は、おそらくそういう朝を生きた。
――そして駅員たちは、発車後の顔でその重さを知っていた。
――春口は、戻ってきそうな人を最初から少し知っている町なのかもしれない。
書き終えると、外では日が暮れかけていた。
港のほうから短い汽笛。
それに少し遅れて、レールの振動。
海と鉄道。
春口ではその二つが、いつも誰かの見送りきれなかった朝の続きを運んでいるように聞こえた。




