表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮待ちのレール ― 霧のホーム ―  作者: たむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/12

第十章 霧のホーム

 その朝、春口には久しぶりに、本当の霧が降りた。


 白い。

 深い。

 海も島影も、港の屋根も、ホームの先のカーブも、みな同じ薄い明るさの中へ溶けている。

 待合室のガラスは曇り、赤い屋根の輪郭だけがかろうじて残る。

 遠くから来る列車の音はする。

 船の汽笛も聞こえる。

 だが、どちらも姿が見える前に、まず気配として町へ届く。

 春口で何度も反復されてきた「まだ見えないが、もう近づいている」という時間が、霧の日には町全体に広がるのだった。


 湊はいつもより早く宿を出た。

 まだ朝食の支度が完全には始まりきらない時刻で、台所には味噌汁の湯気が上がり始めたばかりだった。

 汐里は「今日は一人で大丈夫ですか」と訊き、湊が頷くと「たぶん、そういう朝ですね」とだけ言った。

 その言い方に説明はなかったが、十分だった。

 第四作を経て、第五作のここまで来た今なら、汐里も分かっている。

 霧のホームに立つことは、誰かの過去を知る作業であると同時に、自分自身の中の遅れた時間をもう一度見に行くことでもあるのだ。


 駅へ向かう坂道は、どこも濡れてはいないのに湿って見えた。

 向こうから来る人影は、近づいて初めて人の形になる。

 駅前の掲示板も、切符売り場の窓も、輪郭の縁だけがやわらかい。

 春口は霧の日になると、駅と港のあいだの距離が少し伸びるように感じられる。

 歩ける距離は同じなのに、見えないぶんだけ、人の気持ちが追いつくのに時間がかかるのだろう。


 ホームへ上がると、まだ人は少なかった。

 通勤前の男が一人。

 港へ行くらしい老女が一人。

 それから、駅員がホームの先で白線の状態を確かめている。

 湊は待合室の長椅子へ座らず、そのままホームの中ほどに立った。

 今日は、待合室でも発車後のホームでもなく、そのあいだの場所にいたかった。

 父が立っていたかもしれない位置。

 白線の内側ぎりぎり。

 乗るのか、見送るのか、まだ決めきれない人間の身体が、もっとも曖昧になる場所だ。


 霧の向こうで、列車の接近音がした。

 まだ見えない。

 だが来ている。

 その瞬間、湊は不意に、三輪や若い駅員の覚え書きや、澄江のノートや、駅員の「発車後の顔を見ろ」という言葉が、一つに重なるのを感じた。

 父はここで、きっと“何をすべきか”だけでなく、“何がもう手遅れなのか”も同時に考えていたのだろう。

 千紘を見送る。

 自分も別の便へ乗る。

 あるいは追う。

 そのどれもが可能で、そのどれもが半歩ずつ遅い。

 春口では、人の朝がそういうふうに切れていく。


 列車の灯りがようやく白い中に浮いた。

 銀の車体が、霧を押し分けるように現れる。

 その瞬間、湊は、父が見ていたであろう景色を初めてほんの少し身体で理解した気がした。

 霧の日の列車は、来る前から気配がある。

 だが姿が見えるのは遅い。

 その遅い可視化が、人に“まだ間に合う”という錯覚を与えるのかもしれない。

 まだ見えていないから、まだ決めなくていい。

 でも、姿が見えたときには、もう白線のこちら側に立っている時間は残り少ない。

 春口の遅れは、こういうふうにして生まれるのだろう。


 列車がホームへ入り、扉が開いた。

 老女が乗る。

 通勤の男も乗る。

 湊は動かない。

 ただ、半歩だけ前へ出て、また止まった。

 自分でやってみると、その位置の不安定さがよく分かった。

 乗るには遅い。

 見送るには近すぎる。

 駅員の目に残るはずだと思った。

 ここは、決断ではなく、決断の遅れそのものが身体に出る場所なのだ。


 やがて扉が閉まり、列車が動き出した。

 白い中へ銀の車体が再び溶けていく。

 そのあとも、湊はしばらく動かなかった。

 発車後のホーム。

 第一作では知らなかった、もっとも長い数秒。

 ここで父はきっと、乗れなかったことだけではなく、“見送りきれなかった”ことの重さを初めて自分の身体で受け取ったのだろう。

 相手は去った。

 自分は残った。

 だが、それを見送りとして終えることもできない。

 だからこそ、そのあとに下りへ向かう必要が生まれた。

 発車後のホームで生まれた遅い決断。

 それが父を海側へ走らせたのだと、いまはかなりはっきり分かる気がした。


 ホームの端へ歩いた。

 篠原が教えてくれた、昔の脇線跡の見える場所。

 霧の中ではそこも曖昧だが、それでも海側の明るさだけは少し分かる。

 父はここで、まだ下りへつなげるかもしれないと考えたのだろう。

 遅れた。

 だが、まだ終わっていない。

 春口という町は、そういう“終わりきらない”感覚をいつも人に与える。

 だから人は余計に遅れる。

 けれど同時に、その感覚があるからこそ、最後に追おうとすることもあるのだ。


 湊は、そこでようやく父を少し違う角度から受け止められる気がした。

 父は、千紘をきちんと見送りきれなかった。

 それは変わらない。

 半歩ずつ遅れた。

 それも変わらない。

 だが、その遅れの中で最後まで“もう無理だ”と決めきれず、別の接続を探して下りへ向かった人でもあった。

 その必死さは、父を無罪にはしない。

 けれど、父を単純な臆病者のままにもしておかない。

 人はときどき、遅れたまま必死である。

 春口の人物たちはみな、そうした矛盾の中を生きていたのだろう。


 気づくと、背後に小さな足音がした。

 振り返ると、汐里が立っていた。

 霧の中で少しだけ肩をすくめ、息を整えている。


「来ないつもりだったんですけど」

 彼女が言う。

「ええ」

「でも、今日はやっぱり一人で立たせたくなかったので」

「ありがとうございます」

「どうでした」

 湊はしばらく答えなかった。

 霧の中のレールを見て、それから言った。


「父は、見送りきれなかったんだと思います」

「はい」

「乗れなかった人、追えなかった人、というだけじゃなくて」

「ええ」

「相手の出発を、自分の中で終わらせられないまま、取り残された」

「……」

「それで、遅れて下りへ向かった」

「そうですね」

 汐里は霧の向こうを見たまま頷いた。

「それがいちばん、今の父親像に近い気がします」


 二人でしばらく、ホームの端に立った。

 霧は少しずつ薄くなり始めていた。

 見えていなかったレールの先が、ゆっくり輪郭を取り戻していく。

 春口では、答えもたいていこういうふうに現れるのだろう。

 劇的に晴れるのではない。

 少しずつ見える範囲が広がり、前はただ白かった場所に、ようやく線が戻ってくる。

 それだけで十分なのかもしれない。


「相沢さん」

 汐里が言った。

「はい」

「第五作って、たぶん」

「ええ」

「お父さんを赦す巻じゃないですね」

「そう思います」

「じゃあ、何なんでしょう」

 湊は霧の薄くなるレールを見つめながら答えた。


「父が、どこで遅れ、どこで動き、どこで取り残されたかを、ちゃんと場所のあるものとして知る巻なんだと思います」

「場所のあるものとして」

「ええ。待合室で、ホームで、発車後に、下りの接続で」

「……」

「ただの“負い目”じゃなく、その朝の具体的な地形として」

「そうですね」

 汐里は小さく笑った。

「それ、春口らしいです」


 霧がさらに薄れる。

 赤い屋根の輪郭がくっきりしてくる。

 ホームの白線も、昨日までよりはっきり見えた。

 それでも、完全に晴れた感じはまだない。

 それでいいのだと、湊は思った。

 父の朝も、きっと完全な晴れにはならない。

 けれど、どこで立ち止まり、どこで半歩遅れ、どこで下りへ向かったのかが分かるだけで、その朝はようやく空想ではなく、父の生きた具体になる。


 宿へ戻ったあと、湊はノートを開いた。

 今回は迷わず書けた。


 ――霧のホームで、父は見送りきれなかった。

 ――それは単に列車を逃したのではなく、相手の出発を自分の中で終えられなかったということだ。

 ――発車後のホームで取り残され、ようやく下りの接続へ向かった。

 ――半歩ずつ遅れたまま必死だった。

 ――その朝の具体を知ることで、父はようやく“ただの後悔”ではなく、一人の人間の遅い決断としてこちらへ戻ってくる。


 書き終えたとき、帳場のほうから汐里の客を迎える声が聞こえた。

 宿は今日も普通に動いている。

 駅も港も、きっと同じだろう。

 春口は誰かの未完了を抱えながら、それでも毎日を止めない。

 そのことに、第五作の終わりが近い気配を湊は感じていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ