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潮待ちのレール ― 霧のホーム ―  作者: たむ


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第五章 霧の待合室

 数日後、春口にまた深い霧が出た。


 今度は朝だけではなかった。

 夜のあいだに海からゆっくり上がってきた白い靄が、明け方を過ぎても町にとどまり続けている。港の屋根は半分ほどしか見えず、島影は完全に消えていた。駅へ向かう坂道でも、向こうから来る人の姿が少し遅れて現れる。レールは見えるが、その先は白い。

 こういう日は、町そのものが自分の奥行きを隠してしまう。

 春口で起きたことの多くが、見えていたはずなのに見失ったことだと思えば、霧の日の景色はこの町の本性に近いのかもしれなかった。


 湊は朝食のあと、一人で駅へ行った。

 汐里は宿に残ると言った。今日は予約の電話が重なり、昼前に早めの客も来るらしい。

 第四作を経て、汐里はもう、湊に付き添って町のすべてを一緒に見に行く人ではなくなり始めていた。

 宿を守る側に立つ時間が増えている。

 その変化を湊は寂しいとは思わなかった。

 むしろ、春口の時間がきちんと分かれて流れ始めているようで、頼もしく感じた。


 駅の待合室は、霧の朝にはいつもより少しだけ近く思える。

 赤い屋根の下にあるガラス戸は白く曇り、外の風景をほとんど映さない。

 中へ入ると、木の長椅子が乾いた匂いを持って静かに並んでいる。

 人はまばらだった。

 通学の高校生が二人、端のほうで話している。

 買い物帰りらしい老女が一人、膝の上に小さな袋を置いて座っている。

 そして、待合室のいちばん奥に、知らない男が一人立っていた。


 四十代くらいだろうか。

 濃い色のジャケットに、小さな鞄。

 観光客には見えない。

 だが地元の人間の落ち着きとも少し違う。

 窓の曇りを指で拭うでもなく、その向こうを見ている。

 何かを待っている人の立ち方だった。

 ただし、その“何か”が列車そのものではないようにも見える。

 湊は思わず、三輪の言った「ホームに立ちながら、気持ちはまだ駅へ着いてない人の立ち方」を思い出していた。


 待合室の時計が一分だけ進む。

 外から、まだ姿の見えない列車の音がうっすら近づく。

 高校生たちが立ち上がる。

 老女も荷物を持ち直す。

 だが奥の男は動かない。

 音だけが先に来る。

 霧の日の列車は、姿より音のほうが人に判断を迫る。

 乗るのか。

 見送るのか。

 まだ待つのか。

 その決断を、白い窓の向こうの見えない接近が少し早めてしまうのだ。


 湊はしばらく、その男から目を離せなかった。

 もちろん父ではない。

 年代も違う。

 だが、この町では、こういう立ち方をする人間が昔から繰り返し現れてきたのではないかと思わせる雰囲気があった。

 春口の駅は、ただ列車に乗る場所ではない。

 決めきれない人間の気持ちが、白線の手前まで押し出される場所でもあるのだろう。


 列車がホームへ入ってきた。

 車体の銀が、霧の中からゆっくり浮かぶ。

 高校生たちは乗り、老女もそのあとへ続く。

 男は動かなかった。

 ただ、扉が開いた瞬間に一歩だけ前へ出て、また止まった。

 その半歩が妙に胸に残る。

 湊は、父もこうだったのかもしれないと思った。

 完全に立ち尽くすのではない。

 動こうとする。

 だが、その半歩の先を決めきれない。

 だから駅員の記録にだけ残る。


 列車が発車すると、男は何事もなかったように待合室を出ていった。

 見送ったというより、発車に押し出されるように。

 霧の中へ消えるその背中を見送りながら、湊はこの駅に繰り返し宿る同じ形の時間を思った。

 それは個人の事情でありながら、同時に土地の癖でもある。

 海と鉄道の接続を持つ町は、人にこういう半歩の迷いを何度もさせるのだろう。


 昼前、篠原が駅へやってきた。

 今日は布鞄のほかに、古い封筒を二つ持っている。

 ホームではなく待合室の長椅子へ腰を下ろすと、「ここで見たほうが早いでしょう」と言って、その一つを差し出した。


「何ですか」

 湊が訊く。

「春口駅の苦情控えです」

「苦情」

 篠原は苦く笑った。

「駅日誌だけでは現場の目線が強すぎることがある。苦情控えには、利用者側の断片が混じる」

「そんなものまで残っていたんですか」

「全部ではないですが、たまたま」


 封筒から出てきた紙は、正式な様式というより、職員がその場で書き留めたメモの束に近かった。

 その中に、梅雨時の一枚がある。


 ――同一人物と思われる男性、発車間際の列車前に立ち位置不安定。

 ――付き添いらしき少女ありとの声。

 ――危険との申出あり。

 ――ただし本人乗車意思あるや否や不明。

 ――霧深く、確認困難。


「付き添いらしき少女」

 汐里がいればすぐ反応しただろうと思いながら、湊はその文を見た。

 白帽の少女と同じ存在を、別の利用者が“付き添いらしき”と見た可能性がある。

 付き添い。

 つまり父が少女を連れていたように見えたのか。

 だが本人乗車意思あるや否や不明。

 そこでもやはり、男が乗る側なのか見送る側なのか、周囲には判別できていない。


「篠原さん」

 湊が言う。

「これは、父が千紘を連れていたようにも読めます」

「ええ」

 篠原が頷く。

「ただ、その“連れている”と“見送るつもりで付き添っている”の違いが、霧の日のホームでは見分けにくい」

「……」

「だから駅というのは面白いんです。港と違って、鉄道は本来もっと明確な移動の場なのに、春口ではそこまで曖昧になる」


 湊は、第四作の迎えの部屋を思い出した。

 宿には、まだ動く人と、もうその日は動けない人の違いを見分ける部屋があった。

 離れは帰れない夜の部屋。

 迎えの部屋は、まだ向こうへ行く可能性がある人の部屋。

 では駅には、その見分けをする部屋がない。

 ホームは一枚の白線だけで、それを判断しなければならない。

 だからこそ、決めきれない人間の迷いがむき出しになるのだろう。


「待合室」

 篠原が周囲を見回して言った。

「ここも大事です」

「どういう意味で」

「ホームに出る前の最後の保留の場所だから」

「……」

「宿が夜を預かる場所なら、待合室は発車の手前の数分を預かる場所とも言える」

「でも、ほんの数分ですね」

「ええ。だから厳しい」

 篠原はそう言った。

「宿は一晩ある。待合室は数分しかない。その短さが、人を白線のぎりぎりまで追い込む」


 その言葉が、第五作の章題そのもののように感じられた。

 霧の待合室。

 ここは宿よりずっと短い時間しか預かれない。

 だからこそ、発車を前にした人間の決めきれなさが、そのまま剥き出しになる。


 午後、湊は再び待合室に一人で残った。

 篠原は資料の整理のため一度帰り、次は夜に宿へ寄ると言う。

 駅には霧がまだ残っていた。

 朝より少し高くなっただけで、完全には晴れない。

 窓の向こうにホームが白く見える。

 長椅子に腰を下ろしていると、待合室は宿とは別種の“預かり”の場所だとよく分かった。

 ここでは長く留まれない。

 留まりすぎれば、すぐに次の列車が来る。

 その都度、乗るかどうかを問われる。

 宿が人を朝まで守るのに対して、待合室は人を最後のぎりぎりまでしか守れないのだ。


 そのとき、駅員室のほうから中年の駅員が出てきた。

 制服の襟を少し緩め、ホームの先を見てから、待合室の中を一度見渡す。

 湊と目が合うと、会釈をした。

 何気ないその動作を見て、湊はふと思った。

 駅員という仕事は、こういう“決めきれない人”を毎日のように見ているのだろう。

 鉄道の運行は明確でなければならない。

 その一方で、人の側の事情は曖昧だ。

 その曖昧さが危険に近づくぎりぎりのところで、駅員は日々立ち会ってきたのかもしれない。


「すみません」

 湊は思わずその駅員に声をかけた。

「はい」

「霧の日って、ホームで迷う人、やっぱり多いですか」

 駅員は少し驚いたようにこちらを見てから、小さく笑った。

「多い、というより」

「ええ」

「見ているこちらが、その人の迷いに気づきやすいんです」

「どういう」

「晴れてる日は、皆、ただ立ってるように見えることもある」

「でも霧の日は」

「姿が見えにくいぶん、動きの遅れや半歩がよく分かるんです」


 その説明は、妙に納得がいった。

 霧が深いほど、輪郭は見えなくなる。

 だが、そのぶん人の動きのためらいだけが浮く。

 半歩遅れる。

 一歩出て止まる。

 ホームの白線の前で息を詰める。

 そういう微細な迷いが、駅員にはよく見えるのだろう。


「昔も」

 湊が訊く。

「そうだったんでしょうか」

 駅員はホームのほうを見てから答えた。

「たぶん今よりもっと」

「……」

「今は案内も多いし、接続も昔より整理されてますから」

「それでもある」

「ええ。人が決めきれないのは、時刻表じゃどうにもならないです」


 その一言を聞いて、湊は小さく頭を下げた。

 人が決めきれないのは、時刻表じゃどうにもならない。

 それは第五作だけでなく、このシリーズ全体の核心の一つかもしれなかった。

 鉄道も、船も、宿も、時刻表や部屋割りで人を支える。

 だが最後に決めるのは人の心であり、その遅れだけは、どんな接続表にも書けない。


 夕方、宿へ戻ると、汐里は帳場で今日の客の準備をしていた。

 湊が待合室のこと、篠原の資料のこと、現役の駅員の言葉のことを伝えると、彼女は静かに聞き、やがてこう言った。


「宿が一夜を預かるなら」

「ええ」

「待合室は、決めきれない数分を預かるんですね」

「たぶん」

「それ、かなりつらいですね」

「どうして」

「短すぎるから」

「……」

「人は一晩なら少し落ち着ける。でも数分で決めろと言われたら、かえって止まってしまう」

「そうですね」

「だから、白線の内側に立ち尽くす人が出る」


 その整理の仕方も、もう宿の主のそれだった。

 汐里は今、宿と駅と港を、ただ別々の場所ではなく、「人の途中をそれぞれ別の長さで預かる場所」として見始めている。

 第四作を越えて、第五作では彼女自身の見方もまた広がっているのだろう。


 夜、湊はノートにこう書いた。


 ――待合室は、宿より短い時間しか人を守れない。

 ――だからこそ、そこでの迷いは鋭く表に出る。

 ――霧の日のホームでは、姿よりも半歩の遅れがよく見える。

 ――人が決めきれないのは、時刻表ではどうにもならない。

 ――春口の鉄道は、そのどうにもならなさごと、人を発車の前まで運んでしまう。


 書き終えたとき、窓の外にはまだ少し霧が残っていた。

 それはもう朝のような深さではない。

 けれど、見えなくなったものが完全には戻りきっていない感じがある。

 第五作もまた、まだその途中にあるのだろうと、湊は静かに思った。

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