パート32
一輪の薔薇 (— A Rose)
夜の東京、濡れた路地はビルの明かりを反射して鈍く光っていた。深夜にもかかわらず、街にはまだ人の気配がある。カフェの片隅、静寂の中にマヨラ (Mayora) は一人座っていた。目の前には二つのコーヒーカップ。彼の瞳には深い疲労が宿り、その表情は石のように硬く、無機質だった。
カフェのドアが開く。タガヤ (Tagaya) が入ってきた。マヨラは無言で、片方のカップをタガヤの方へ押しやった。
「……で、どう考えた?」
タガヤが問いかける。マヨラは答えず、ただコーヒーの中に砂糖を入れ続けた。カップの底が見えなくなり、砂糖の山が表面に現れるまで、執拗に。
同じ時刻、JIB (日本捜査局) のオフィスに一冊のファイルが届いた。カツネリ (Katsuneri) は既に山のような書類に囲まれていた。彼はボードに各ファイルのページをピンで留め、それらを赤い糸で繋いでいく。糸の先には、奇妙で恐ろしい死因が記された古い未解決事件の数々があった。ゴミ箱は書き損じた紙で溢れ、何本ものペンがインク切れで転がっている。
ノックの音が響く。カツネリの手が止まった。
「開いている、入れ。」
男が入り、厳重に封印された箱を机に置いて、深く一礼して去っていった。カツネリが窓の外を見ると、その男は車に乗せられる直前、何者かに目隠しをされていた。車内の人物が誰かに電話をかける。
「ファイルは無事に届けた……。ああ、分かっている。だが、その後のことは……。」
電話が切れ、車は人跡稀な場所へと消えていった。カツネリが箱を開け、中身を読み進めると、ある名前に目が止まった。
『タカオ・ジカシ (Takao Zikashi)』
カツネリの思考が止まる。彼はファイルを閉じ、頭を抱えて沈黙した。同行していた部下たちが不安げに顔を見合わせる。
(一体、何があったんだ……? あのファイルには何が書いてある?)
カフェのゴミ箱が紙屑で一杯になったように、マヨラのカップも砂糖で溢れかえっていた。タガヤが説得を続けようとしたその時、ドアが開き、シナ (Syna) と テイシ (Teishi) が入ってきた。父親の姿を見たシナは動揺したが、タガヤはすぐに視線をマヨラに戻した。
マヨラは、砂糖で満たされたカップの半分をもう一つのカップに移し、静かに混ぜ合わせた。タガヤはその動きを凝視し、あることに気づく。
(……これは合図か。)
公共の場での密談を避けるための、マヨラなりのコードだった。
最初のカップに溢れるほどの砂糖を入れたのは、オカイラ (Okaira) の死後、シブヤ (Shibuya) のエージェンシーにかかっている過剰なプレッシャーを意味していた。そして、砂糖の入っていない二つ目のカップは、壊滅した東京の本部。
つまり、**「シブヤの戦力の半分を東京の本部に移し、圧力を分散させる」**という作戦の提案だった。マヨラは俯きながら、鋭い視線でタガヤの反応を伺っていた。
東京の反対側、カツネリはまだ思考の迷宮にいた。捜査責任者が部屋に入ってくる。
「以前、犯罪者の怪死事件について話したが……疑念はここから始まる。その極秘ファイルを見たか?」
「……この『タカオ』の事件は何だ?」
カツネリが言葉を遮る。窓から吹き込んだ風が、机の上の書類を無慈悲に散らした。責任者が答える。
「タカオ・ジカシ。警察の重要機密を盗み出し、寸分違わぬコピーを元の場所に戻した男だ。指紋から特定され自宅で拘束されたが、その後の足取りは不明。さらに、このスガロウ (Sugaro) と ジンカイ (Zinkai)……彼らも別の事件で捕まっている。他にも名前も写真もない報告書が数名分ある。」
カツネリは呟く。
「タカオ・ジカシ……マヨラ・ジカシ……。ジ・カ・シ……。」
— 翌日
地面に赤い雫が落ち、ゆっくりと広がっていく。夏の暑さで溶けた子供のアイスクリームだった。
シナがバイオリンのレッスンに向かって歩いていると、テイシが声をかけてきた。
「テイシ君、おはよう。今日は早いのね。」
テイシは照れくさそうに頭を掻く。
「うん、昨日のうちに試験の準備を全部終わらせたから、今日は自由なんだ。」
「そう、良かったわね。」
シナは淡々と答え、歩みを止めない。テイシは内心で自分を責めていた。
(何やってんだよ、テイシ! シナさんを笑顔にすらできないのか……?)
俯いて歩くシナの後ろで、テイシの足音が止まった。不思議に思ったシナが振り返ると、そこには顔を真っ赤にしたテイシが、道端に落ちていた一輪の薔薇を手に立っていた。
(どうしよう、最悪だ……。シナさんはどう思う? 引かれるか? それとも絶交か……?)
震える手で薔薇を差し出すテイシ。彼の額から大粒の汗が地面に落ちる。シナは黙ってその薔薇を受け取った。
「……レッスンに行きましょう。遅れちゃうわ。」
そう言って、シナは再び歩き出した。テイシも慌てて彼女の隣に並んだ。




