パート29
— JIBの一歩 (Step Of JIB) —
「1945年、日本は深い悲しみに包まれていた。私はまだ八歳で、ラジオに耳を傾けていた。
あの頃、人々は恐怖と、わずかな希望を求めて空を見上げていた。
その時、父が私にある言葉を残した……。
それは今でも、私の心に深く刻まれている。
『自由とは、諸刃の剣だ。』」
部屋には静寂が満ちていた。
吹き込む風だけが、まるで部屋に命を与えようとしているかのようだった。
煙草の灰が床へ落ちる。
煙はゆっくりと立ち昇り、やがて空気へと溶けていった。
部屋の壁には、一人の男の写真が掛けられている。
椅子に腰掛けていた老人は煙草を揉み消し、静かに振り返った。
眼鏡を掛け、白髪混じりの髪。
そして顔の半分は、酷く焼け爛れていた。
—— 東京、日本。
マヨラはカフェで働いていた。
テーブルのカップを片付け、注文を取り、同僚たちと軽口を交わしている。
今日は客も少なく、店内はどこか穏やかだった。
その時、二つのテーブルベルが同時に鳴った。
マヨラが振り向くと、そこにはシナと一人の青年が座っていた。
だがその直後、再びカフェの扉が開く。
マスクを付けた男が店に入ってきた。
男は二人の後ろの席へ静かに腰を下ろす。
シナは何度もマヨラと目を合わせようとしていた。
しかし、マヨラはまるで気づいていない。
注文を取りに向かう間も、シナは彼を見つめ続けていた。
マヨラはまず、後ろの男の席へ向かう。
男はただ静かに座り込み、紙に何かを書いていた。
まるでその紙だけに意識を奪われているように、深く俯いている。
「ブラックコーヒーを。」
男は短く告げた。
マヨラは注文を書き留める。
(……この男、妙だ。)
そんな違和感を抱えたまま、彼は次のテーブルへ向かった。
シナが口を開く前に、隣の青年が注文する。
「シンプルなアイスコーヒーを二つ。」
マヨラは注文を書きながらも、意識はずっとあの男へ向いていた。
(何かがおかしい……。)
胸の奥にざわめきが残る。
やがてマヨラが伝票を持っていくと、男は代金と共に一枚の紙を差し出した。
マヨラは躊躇いながら、その紙を受け取る。
男はそのまま店を後にした。
後ろでは青年がマヨラを呼んでいたが、彼は窓越しに男の背中を見つめ続けていた。
(……嫌な予感がする。)
男は道路を渡りながら、帽子を外し、そしてマスクを取った。
その瞬間。
マヨラの手が震えた。
瞳が一箇所に縫い付けられたように動かない。
背後から青年の大きな声が飛び、マヨラは我に返って振り向き、伝票を差し出した。
その頃——。
ズシャイ・カフェから遠く離れたJIB(日本調査局)では、一つのファイルが持ち込まれていた。
事件の主任担当者が、その資料を捜査官たちの元へ運んでいく。
「お待たせしました。」
彼らが入った先は会議室だった。
そこには三人の捜査官だけが座っている。
主任はファイルを机の上へ滑らせた。
「この事件は、決して普通の案件ではありません。
まず説明しておきたいのですが——
我々が皆さんに協力を要請した最大の理由は、市民への影響です。
もし警察が扱えば、全てが公になり、人々の目に晒されることになるでしょう……。」
捜査官たちは、一文字たりとも見逃さぬよう資料を読み進めていく。
ページを捲るたび、その視線は鋭さを増していった。
「最も恐ろしいのはここです。
殺害時、悲鳴も物音も一切ない。
あれほど残虐に身体を切り刻んでおきながら……。
普通なら、何かしら音がするはずだ。」
JIBの面々は資料を読み終え、再び主任へ返した。
その時、一人の男が口を開く。
「以前、東京近郊の森林地帯にある屋敷で爆発事故がありましたね……。
覚えていますか?」
長官はしばらく考え込み、水を一口飲んでから答えた。
「ああ、覚えている。
あの時は、屋敷で火災が起きたと報告されていた。」
二人の捜査官は互いに視線を交わし、小さなメモを書き込む。
その一方で、長い間沈黙していた男がいた。
彼は静かに指を持ち上げ、机へ置く。
そして——。
トン、トン、と机を叩き始めた。
全員の視線がその男へ向く。
彼の座る場所だけが薄暗く、その背後は完全な闇に沈んでいた。
やがて会議は終了し、三人は部屋を後にする。
最後に長官が外へ出て、静かに扉へ鍵を掛けた。
—— 夕暮れ。
鳥たちは巣へ帰り、太陽は沈み、空は灰のような色へ変わっていた。
その頃、マヨラはアパートのベランダへ出ていた。
片手にはコーヒー。
もう片方には椅子。
椅子を置き、腰掛け、静かにコーヒーを飲む。
飲み終えたカップを床へ置いた頃、冷たい風が吹き始めた。
「……どうしてだ。」
彼の脳裏には、シナがあの見知らぬ男と座っていた光景が浮かんでいた。
そして同時に——
マスクを外した男への恐怖も。
マヨラは頭を抱える。
「消えてくれ……。
お前と一緒にはいられない。
だが、お前から離れることもできない……。」
その苦悩の最中——。
シナは家へ帰り着いていた。
あの青年が彼女を家まで送ってきたのだ。
シナは別れを告げ、家へ入ろうとする。
だが、青年が彼女を呼び止めた。
シナが振り返る。
「シナ……。
君は……本当に、優しいんだな。」
そう告げられた瞬間、シナはただ俯き、そのまま家の中へ入っていった。
青年は帰路につく。
(ちゃんと言えただろうか……?
いや、もしかしたら嫌だったかもしれない。)
そんなことを考えながら帰宅した彼は、自室へ入ると鍵を掛け、窓を開けた。
月を見上げながら、小さく呟く。
「次に会う時は……。
シナ、今度はちゃんと君のことを大切にするよ。」
翌日。
シナはヴァイオリン教室へ向かっていた。
途中、花屋へ立ち寄り、小さな植木鉢を探している。
その時、誰かが彼女を呼んだ。
振り返ると、そこにはテイシが立っていた。
シナは微笑む。
テイシは少しの間、彼女を見つめていた。
「何を探してるの?」
「小さい植木鉢。
先生の誕生日なの。教室では渡せないし、パーティーもあるから……オフの時間に渡そうと思って。」
テイシは辺りを見回し、小さな白い花の植木鉢を指差した。
それはシナの気に入るものだった。
シナがレジへ向かったその時——。
彼女はマヨラの姿を見つける。
彼は白い花束を買っていた。
(あの花束……誰に?
まさか、マヨラには他に好きな人が……?)
一瞬で無数の疑問が胸に溢れる。
マヨラは花束を抱え、そのまま去っていった。
シナもまた、説明できない寂しさを抱えながら教室へ向かう。
—— 墓地。
車が止まり、マヨラは降り立つ。
オカイラ先生の墓前へ歩み寄り、白い花束を供えた。
「……勤続二十三周年、おめでとうございます。先生。」
そう呟いた後、彼は車へ戻り、ビール缶を二本持ってきて墓の前へ置いた。
「良い一日を……先生。」




