パート28
— 裏切り (The Betrayal / Uragiri) —
堺の市場は、かつてないほどの人混みで溢れかえっていた。季節の変わり目を告げる冷たい風が吹き抜けたその時……。
数滴の血が、土の上に滴り落ちた。
耳は塞がれ、手は震え、息が止まる。人混みがその場所から潮が引くように分かれた。他の侍たちが、現場へと駆けつける。
一人の侍が、町人を斬り捨てたのだ。
群衆の中に動揺が走る。視線はその侍へと注がれた。
その顔には、悦びなど微塵もなかった。そこにあるのは苦悶。他人の痛みでありながら、同胞を手にかけたという深い痛みだった。侍はただ立ち尽くし、地面を見つめていた。彼の額から汗の一滴が土に落ちた瞬間、舞い上がっていた埃が静かに沈んだ。
目の前にいたカメズは、その光景に芯から震え上がっていた。
別の侍が歩み寄り、何事か問答を交わす。しばらくの後、その侍が民衆に向かって告げた。
「法によれば、侍を侮辱し、不当な言葉を浴びせる者は、その場で成敗することが許されている。騒がせたこと、お詫びいたす。」
カメズはただ呆然と立ち尽くしていた。その時、誰かが彼の肩に手を置いた。血の気が引き、全身から力が抜けていく。
「……行くぞ。」
フラダの声だった。カメズは我に返り、フラダに連れられてその場を後にした。
(これ以上こいつと一緒にいれば……俺もあのように殺されるに違いない。)
カメズの胸の内で、その恐怖は拭い去れぬほどに膨れ上がっていた。二人は何度も路地を替え、街の中を逃げ回った。その最中、フラダは何者かが自分たちを追っていることに気づいた。路地の角を曲がった時、そこには一人の男が立っていた。フラダはその傍らを通り過ぎる。カメズの忍耐は、すでに限界を迎えようとしていた。
「一人じゃない。どの路地にも誰かが立って、ただこちらを見ている。手出しはしないが、見張られている……。」
フラダはその異様な光景に違和感を覚えた。そして、あることに気づいたかのように、突如として足を止めた。カメズを引いていた手の力が緩む。フラダは冷え切った声で告げた。
「……囲まれた。」
カメズの視線がフラダの顔に釘付けになる。その先、少し離れた場所に景政が座っていた。フラダの視線が、ゆっくりと地面へと落ちていく。
「あの日、私の下した決断は正しかったのか? 罪人だと分かっていながら、こいつと共に歩みを進めてしまった。私は間違っていたのだ……。」
「私は間違っていた……。」
カメズは、フラダが自分を「間違い」だと責める声を聞いていた。
(この大馬鹿野郎が。俺をこんな窮地に追い込んで、木偶の坊のように立ち尽くしやがって。この役立たずめ、死んじまえ!)
カメズは心の中で毒づき、農場から持ち出していた小刀を抜き放った。
侍たちが一斉に駆け寄り、景政も走り出すが、一歩遅かった。
カメズの放った刃が、フラダを貫いたのだ。
フラダは振り返り、カメズを見つめた。カメズの瞳には激しい怒りが宿り、全身は脂汗で濡れていた。
フラダの視界が霞み、体温が急激に上がる。音は遠のき、重苦しい響きだけが耳の奥で鳴っていた。フラダは崩れ落ちるように地面に倒れ、視界は闇に包まれていった。
その混乱の中、侍たちがカメズを取り押さえる。景政は駆け寄り、倒れたフラダの様子を確認した。まだ息はある。小刀は腰のあたりを貫き、鮮血が激しく流れ出していた。景政はフラダの意識を繋ぎ止めようとする。
一方、カメズは両手を縛られ、地面に這いつくばらされていた。首筋には冷たい刀の刃が添えられる。
フラダが薄く目を開けると、そこには無残な姿のカメズがいた。後ろ手に縛られ、喉元には刀。
その光景が、フラダの脳裏に幼い頃の記憶を呼び起こした。盗みの濡れ衣を着せられ、力ずくで引きずり回されたあの日。自分の手も同じように縛られ、首には棒を押し当てられていた……。
「なぜだ……なぜ、また繰り返す……?」
フラダが微かに呟く。景政は耳を傾けるが、その言葉を聞き取ることはできなかった。
この惨劇を知る由もないユリナは、畑仕事を終えて家に戻っていた。敷居に足を踏み入れた瞬間、冷たく湿った風が吹き抜け、彼女は深く息を吸い込んだ。母親が何かを話しかけていたが、ユリナの耳には何も届かなかった。
その頃、フラダの体は冷たくなっていた。手足から力が抜け、呼吸が途絶える。時間が尽きたのだ。
死の恐怖に狂ったカメズは、逃げようとして侍に襲いかかった。もはや誰のことも信じられなくなっていたカメズに対し、侍たちはその場で即座に処刑を執行した。
—— 二日後。
木曽の谷には、死者を弔う御詠歌が響き渡っていた。谷の家々は空になり、人々はある一軒の家の前に集まっていた。刺客とフラダの死の知らせは、既に上洛の地まで広まっていた。
家の中から、一つの遺体が運び出される。皆の視線がそこに注がれた。
そこはユリナの家であり、泣き崩れているのは彼女の両親。そして、横たわっている亡骸もまた、ユリナであった。
雪が降り始めた。
初雪の小さな欠片がユリナの頬に触れ、やがて穏やかな雪が舞い落ちる。
今年の雪は、遅すぎたのだ……。
毎年、初雪を見て微笑んでいたあの顔は、今は物言わぬ亡骸となり、埋葬されていく。
—— 東京、現代。
真実は目の前にあった。夜は更け、マヨラは水の入ったグラスを再びタガヤ先生に差し出す。先生は水を一口飲み、言葉を続けた。
「あの日、ただ二人の恋人が引き裂かれただけではない……。あの日、決して起こってはならないことが起きてしまったのだ。」
マヨラはその言葉を遮るように尋ねる。
「……何が起きたというのですか?」
「ユリナの死だ。」
マヨラは考え込む。タガヤ先生はその様子を察しながらも、先を続ける。
「ハッキリと言ってください。」
マヨラが促すと、先生は重い口を開いた。
「血の中で生きることは、ユリナの意志だった……。彼女の心には、一分の偽りもなかったからだ。
単刀直入に言おう。ユリナこそが、『刃のゴラリ』なのだ。」




