第57話 広報部の炎上対策とネットの怨念
8月中旬。
盆明けの湿気を帯びた熱風が、網戸越しにアパートのリビングへと流れ込んでいる。ベランダの外では、朝からけたたましい蝉の鳴き声が響き渡り、空気をさらに重く、不快なものに感じさせていた。遠くに見える高層ビル群は強烈な陽光と反射熱によって輪郭をぼやけさせ、蜃気楼のように揺らいでいる。
出勤の準備を整え、サマージャケットに袖を通しながら玄関へ向かうと、ひんやりとした三和土の上で、黒猫のクロが腹を出して無防備に転がっていた。
猛暑を乗り切るための、床暖房ならぬ『床冷房』だ。家の中で一番温度の低い石のタイルの上を的確に見つけ出し、四肢をだらんと投げ出して張り付いている。俺が革靴を履こうと近づいても、クロは薄く金色の目を開けただけで、ゴロンと寝返りを打ってさらに冷たい部分へ背中を擦り付けた。起き上がって見送る気は一切ないらしい。
徹底して無駄なエネルギーを消費しないその合理的な姿勢に感心しつつ、俺は重い鉄のドアを開け、暴力的な熱波の待つ外の世界へと足を踏み出した。
午前9時過ぎ。丸の内商事、8階の総務部フロア。
盆明けの気怠い空気を吹き飛ばすような、異様な緊迫感がフロアを支配していた。
空調は正常に稼働しているはずだが、室内には不快な熱気がじっとりとまとわりついている。温度計の数値には表れない、肌をジリジリと焦がすような奇妙な熱と、微かな焦げ臭さだ。
「はい、総務部です。……ええ、ですから、その件につきましては現在事実関係を――」
隣のデスクで、竹内塔子が顔を強張らせながら受話器を握りしめている。漏れ聞こえてくる受話器の向こうの声は、ヒステリックな怒声だ。保留ランプが、異常なペースで赤く点滅を繰り返していた。電話のコール音は一つ切れてはまた二つ鳴り響き、終わりの見えない多重奏を奏でている。
一連の対応を終えて受話器を置いた塔子が、血の気のない顔で俺を見た。
「中川さん……」
「朝から鳴り止みませんね。クレームですか」
「はい。営業部の社員が、取引先で土下座を強要したっていう動画が……昨日の夜からネットで拡散されているみたいで」
「土下座、ですか」
「はい。でも、映っているのはうちの社員じゃありません。制服の色も違うし、名札のロゴも、オフィスのレイアウトも全然違うんです。完全なデマなのに、まとめサイトやSNSで『丸の内商事のパワハラ』として一気に広がっていて……『今すぐその社員をクビにしろ』とか、『不買運動を起こすぞ』とか……」
塔子の言葉を裏付けるように、フロアの空気はさらに淀み、重苦しい熱を帯びていく。
これは単なる通信のトラフィック増や、クレーマーの悪意だけではない。何万、何十万という人間が、スマートフォンやPCの画面越しに、事実確認もせずにこの丸の内商事に向けて放つ「怒り」「嘲笑」、そして「正義感を装った悪意」だ。
実体のない感情の波が、ネットワークという見えない糸を伝ってこのビルに集束し、集合的な思念となって物理的な影響を及ぼし始めている。空調が効いているはずのフロアで、実際に汗が滲むほどの熱波を感じるのはそのせいだ。
「広報部の小野さんが、今、全社に向けて対応の指示を出しています。総務への問い合わせはすべて広報の専用回線へ回すようにって」
「わかりました。転送設定を済ませておきます。……俺は少し、広報部に備品の補充に行ってきます。この混乱で、コピー用紙やトナーが切れるかもしれませんから」
「あ、お願いします」
俺は台車にコピー用紙の束と予備のインクカートリッジを乗せ、足早に広報部のあるフロアへと向かった。
広報部のフロアは、まるで火災現場のような惨状だった。
鳴り響く複数回線のコール音、怒号のように飛び交う指示。フロアを小走りで駆け回る社員たちの顔は一様に青ざめ、額には汗が浮かんでいる。彼らは各メディアや取引先からの問い合わせに対し、「事実無根です」「法的措置を検討しております」と必死に声を張り上げていた。
そして何より、空間そのものが赤黒い靄に覆われていた。
天井にへばりついた靄の中から、無数の「匿名の目」のような不気味な模様が浮かび上がってはチカチカと点滅し、社員たちのタイピングする指先や電話のケーブルに絡みつこうとしている。キーボードを乱打するような耳障りなノイズが空気を震わせている。
『炎上の怨霊』だ。
事実確認すらしないまま、安全な場所からただ石を投げる快感に酔いしれる無責任な思念の集合体が、情報のハブであるこの部署に集結し、異常な熱源となっているのだ。
その混沌の中心で、小野みゆきは自席のPCモニターを冷徹に睨みつけていた。
「法務部、まだ!? 文言の確認に何分かけてるの!」
彼女はインカム越しに鋭く指示を飛ばしながら、恐ろしい速度でキーボードを叩き続けている。
「事実無根であること、名誉毀損で法的措置を進めること。この二点だけは絶対に譲らないで。曖昧な表現は格好の餌食になるわ。相手に付け入る隙を1ミリも与えちゃダメ。向こうは正義の皮を被った暴徒なのよ!」
彼女の顔に焦りはない。だが、その額にはうっすらと汗が滲んでいた。
霊感のない彼女には、フロアを覆う赤黒い靄や無数の目は見えていないはずだが、空間に充満する異常な熱気と悪意の圧力を、本能で感じ取っているのだろう。
「……エアコンの設定温度、下げて。息苦しいわ」
みゆきがネクタイを緩めるような仕草で、ブラウスの第一ボタンを外した。
その時、彼女のPCモニターが不自然な明滅を始めた。
画面の端から、黒い染みのようなものが広がり、タイピングの入力速度が極端に落ちる。フロアの隅にあるネットワークルーターのラックから、冷却ファンが悲鳴のような爆音を上げ始めた。
炎上の怨霊が、物理的なデバイスに干渉し、情報の発信を妨害しようとしているのだ。
『……トラフィック、異常』
俺の胸ポケットのスマートフォンが振動し、社内SEの石田繭子からチャットが届いた。
『……広報フロアのルーター周り、物理的な発熱が限界値。このままじゃ熱暴走で回線が落ちる。……中川さん、そっちのオカルト的なノイズ、どうにかして』
「石田さん! 回線が重いわよ! 今ここでリリースを出せなかったら、完全に火だるまになる!」
みゆきがインカムに向かって叫ぶ。
「……5分以内に復旧させます」
俺は台車をフロアの隅に寄せ、誰の目にも留まらないようにルーターのラックの裏へと滑り込んだ。
ラックの周囲には、濃密な赤黒い靄が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、機器から異常な熱が発せられている。
俺は懐から青い付箋と黄色い付箋を数枚取り出し、それらを素早くルーターの配線に沿って貼り付けた。
「水剋火……相剋の理にて、熱を奪い水へ還せ」
指先から静かに霊力を流し込む。
付箋が青と黄色の混ざった微かな光を放ち、凍りつくような冷気がラックの周囲に展開された。ルーターに絡みついていた赤黒い靄が、急激な温度低下によって霜のように白く変色し、ボロボロとひび割れて剥がれ落ちていく。荒れ狂っていたファンの回転音が、次第に落ち着きを取り戻していった。
『……回線、安定した。帯域、最大まで開けた。……あとは小野さん、お願い』
繭子からの通信が入る。
「繋がった! 法務部、OKね? プレスリリース、各メディアと公式アカウントに一斉送信!」
みゆきがエンターキーを力強く叩き込む。
ターンッ! という鋭い打鍵音が、戦場のようなフロアに高らかに響き渡った。
その直後、みゆきの放つ圧倒的な「陽の気」と、理路整然とした「事実」の言霊が、光の波紋となってフロア全体に広がった。
『丸の内商事に関するSNS上の動画について。当該動画に映っている人物および場所は当社とは一切関係なく、完全な事実無根です。現在、悪質なデマの拡散に対し、法的措置を含めた厳正な対応を準備しております』
隙のない、徹底した反撃の声明。
それがネットワークを通じて拡散された瞬間、フロアを埋め尽くしていた赤黒い靄が、まるで水を被った炎のようにシュゥゥッ……と音を立てて急速にしぼんでいった。
「……ふぅ。とりあえず、初期消火は完了ね」
みゆきがモニターから視線を外し、大きく息を吐いた。フロアに充満していた焦げ臭さも、嘘のように消え去っている。
「あれ、中川さん。こんな所で何してるの?」
みゆきが、ラックの裏から出てきた俺に気づいて眉を上げた。
「ルーターが異常な熱を持っていたので、保冷剤を当てておきました。熱暴走で回線が落ちたら、備品管理の責任問題になりますから」
俺が平然と答えると、みゆきは少しだけ目を丸くし、それからふっと笑った。
「そう。気が利くじゃない。おかげで助かったわ。……この後の火消しはまだまだ続くけど、最悪の事態は免れたわね」
彼女は再びモニターに向き直り、次の指示を出し始めた。
俺は役目を終えた青と黄色の付箋をこっそり回収し、台車を押して広報部を後にした。
午後8時。
俺はアパートの玄関の鍵を開けた。
靴を脱ぐと、朝は三和土で伸びていたはずのクロがのっそりと歩み寄ってきて、俺のふくらはぎに一度だけスリスリと頭をこすりつけた。そして、俺の帰宅を確認すると、すぐにまたエアコンの冷風が直接当たるフローリングの定位置へと戻っていく。過剰な歓迎などしない、無駄のない動きだ。
俺は薄暗いリビングの照明を点け、一日中まとわりついていた焦げ臭い炎上の余韻を払拭するように、軽く首を回した。
サマージャケットをハンガーに掛け、ネクタイを緩めながらキッチンへ向かう。
冷蔵庫を開け、スーパーのチルドコーナーで150円引きのシールが貼られていた「柳麺ちゃぶ屋 薫風醤油ラーメン」を取り出した。賞味期限は明日までだ。高級な食事ではないが、冷房の効いた部屋で温かいものを腹に入れるのが、今の俺には必要だった。
鍋にたっぷりの湯を沸かし、気泡が激しく踊り始めたところで、隣のコンロでスープ用の湯を温める。
どんぶりに液体スープを絞り出し、熱湯を注ぐと、焦がしネギと上質な醤油の香ばしい匂いが立ち上った。沸騰した鍋に細麺を投入し、箸で軽くほぐしながらきっちり一分間で引き上げる。湯切りは手首のスナップを利かせ、完璧に水分を飛ばす。
澄んだスープに麺を泳がせ、あらかじめ切っておいた長ネギの小口切り、真空パックのシナチク、薄切りのチャーシュー、そして半分に割った半熟の煮玉子を配置する。スープの熱でチャーシューの脂がわずかに溶け出し、どんぶりの表面にキラキラとした油膜が広がっていく。
俺はローテーブルにどんぶりを運び、割り箸を割った。
まずはスープを一口。醤油のキレと動物系のコクが、疲れ切った胃に染み渡る。細麺にスープがよく絡み、シナチクのコリコリとした食感が良いアクセントになっている。煮玉子の黄身は絶妙な半熟具合で、スープに溶け出す前に丸ごと口に放り込むと、濃厚な甘みが広がった。
部屋には、俺が麺をすする音と、クロがキャットフードをカリカリと噛み砕く音だけが静かに響いていた。




