第56話 産業医の休日とストーカー生霊
8月上旬。
容赦のない日差しがアスファルトを焼き焦がし、コンクリートに囲まれた東京は巨大なオーブンのような暴力的な熱気を溜め込んでいる。
休日の午前10時。俺は、アパートのリビングで薄手のサマージャケットに袖を通していた。
足元のフローリングでは、黒猫のクロが一番冷たい場所を的確に陣取り、手足をだらんと伸ばして完全に液体化している。出かける準備をする俺の足音に耳だけをピクッと動かしたが、まぶたを開ける気配はない。無駄なエネルギーを消費せず、冷たい床の感触を最優先する合理的かつ優雅な判断だ。そのマイペースな寝姿を横目に、俺は息の詰まるような熱波の外気へと足を踏み出した。
今日は、丸の内商事の郵便室アルバイト・松田透子と、銀座で待ち合わせをしている。
先日、彼女が残業で大量の荷物の仕分けに追われていた際、少し手伝ったことに対する「お礼」という名目の、事実上の休日買い出しの随伴だ。
地下鉄を乗り継ぎ、待ち合わせの30分前に銀座駅に降り立ったところで、スマートフォンのバイブレーションが短く鳴った。
画面を見ると、相手は丸の内商事の産業医・中山杏子からのメッセージだった。
『今、銀座の四丁目にいるんだけど。荷物が多くて動けないから、すぐ来なさい』
有無を言わさぬ、業務命令のような短いテキスト。
俺は小さくため息をつき、「俺はあなたの専属の運び屋ではないのですが」と返信しようとしたが、入力途中で現在地の位置情報だけが追加で送られてきた。
抵抗しても無駄な相手だ。幸い、待ち合わせの時間まではまだ少し余裕がある。俺は予定のルートを少し外れ、指定されたデパートのラウンジへと向かった。
★★★★★★★★★★★
休日の午前中から、高級デパートのVIPラウンジは冷房が静かに効き、外の狂騒が嘘のような上品な静寂に包まれていた。
奥のソファ席で、深いネイビーのサマーニットに身を包んだ杏子が、氷の溶けかけたペリエのグラスを指先でなぞっている。彼女の足元には、ハイブランドのロゴが入った重厚な紙袋が四つほど、どっしりと鎮座していた。
「遅いわね。ストレス発散に少し買いすぎたわ。私のマンションまで運ぶのを手伝いなさい」
杏子は俺の顔を見るなり、悪びれる様子もなくそう言った。
「無給の休日の重労働は、労働基準法違反ですよ。それに、俺はこの後予定があるんですが」
「タクシー乗り場まででいいわよ。……少し、めまいがしてね。一人で持ち歩くのがしんどいの」
杏子はそう言って、軽くこめかみを押さえた。
いつもの気だるげな色気とは違う、純粋な疲労の影。よく見れば、目元には薄くクマが浮き、彼女の細い肩は何か見えない重しを背負っているかのように強張っている。
俺は黙って彼女の背後へ視線を移した。
霊感のない彼女には見えていない。だが、凝視すると、杏子の首筋から肩にかけて、粘着質でドス黒い靄がべったりとへばりついているのが分かった。
ただの浮遊霊ではない。生きている人間の、歪んだ執着が生み出した『生霊』だ。
靄は脈打つように蠢き、時折、見覚えのある営業部のスーツ姿の男の歪んだ顔を形作っている。そして、『先生……俺を、見捨てないで……』と、耳障りなノイズのような呪詛を吐き出し続けていた。
「……最近、よく眠れていないんじゃないですか」
俺が足元の紙袋を拾い上げながら尋ねると、杏子は少し驚いたように顔を上げた。
「わかる? ええ、そうなのよ。常に誰かに見られているような嫌な感じがして。……心当たりはあるわ。以前、過労で休職の診断を下した営業の元社員。彼、『会社に見捨てられた』と思い込んで、矛先をなぜか私に向けてきてね。何度か、退勤時に後をつけられた気配があったわ」
なるほど。典型的な依存と逆恨みというわけか。
その時、杏子の背後の靄が、不意に大きく膨れ上がった。
『誰ダ……ソノ男ハ……先生ハ、俺ノ……ッ!!』
俺という「別の男」の存在を間近で認識し、生霊の執着が急速に活性化したのだ。
ラウンジの空調が急激に冷え込み、テーブル上のグラスの水滴が凍りつきそうになる。杏子が「……急に冷えるわね」と肩を抱いて顔をしかめた。
「先生。少し、肩の凝りをほぐしましょう。壁際へ」
俺は紙袋を床に置き、杏子の背後へ回った。
「え? なに、あなた整体の技術もあるの?」
怪訝そうな顔をする彼女の背中越しに、俺はポケットから一枚の『白い付箋』を取り出した。
白は金行。刃や切断、そして分離を司る気だ。
相手は生きている人間。燃やして浄化しても、執着の念が続く限り再び湧いてくる。物理的かつ霊的に、この太い呪縛の糸を『断ち切る』必要がある。
俺は指の間に付箋を挟み、極限まで気を練り上げる。
ただの紙片が、鋼のような硬度と鋭利な刃の概念を帯びる。
「少し、冷たいですよ」
俺は杏子の肩口から背中にかけて、空間を切り裂くように手刀を一閃した。
付箋の刃が、杏子と生霊を繋いでいた太い怨念のパイプを、音もなく真っ二つに切断する。
『ギャアアアアッ!?』
鼓膜を直接揺らすような断末魔の悲鳴が上がり、切断された生霊の靄が空中で行き場を失ってのたうち回る。
俺はすかさず、もう一枚の白い付箋を靄の中心に向かって弾き飛ばした。
「――帰りな。依存先を間違えるな」
付箋が空中で弾け、強烈な反発の磁場を生み出す。
切断された生霊は、元の持ち主の元へと強制的に送り返され、空間に漂っていたドス黒い瘴気は一瞬にして霧散した。
ラウンジに、元の静かで穏やかな空気が戻る。
「……あれ?」
杏子がゆっくりと首を回し、自分の肩に触れた。
「……嘘みたい。頭痛も肩の重さも、すっかり消えてるわ。視線の嫌な感じも」
彼女は振り返り、俺をまじまじと見つめた。
「あなた、ツボを押された感覚すらなかったわよ。本当に何者なの?」
「ただのプラシーボ効果です。首元の緊張を物理的に解いて、血流を良くしただけですよ。……それより、ストーカーの件は一度警察に相談して、接近禁止の措置を取ることをお勧めします。根本的な解決にはなりませんから」
俺は残った付箋をポケットにしまい、平然と嘘をついた。
「……そうね。物理的な距離を置くのが一番の自衛策だわ。週明けにでも弁護士を交えて相談してみる」
杏子は深く息を吐き出し、いつものクールな表情を取り戻した。
俺は四つのブランド紙袋を両手に提げ、杏子をデパートの裏手にあるタクシー乗り場まで案内した。
トランクに荷物を積み込み、後部座席に乗り込んだ彼女は、窓を少し開けてサングラスをかけ直した。
「助かったわ。今度保健室に来たら、高い栄養ドリンクでも奢ってあげる。……それじゃ、デート楽しんできなさい」
杏子は薄く笑い、タクシーは夏の陽炎の中へと滑り出していった。
★★★★★★★★★★★
時計を見ると、待ち合わせの時刻まであと三分。
俺は急いで銀座のメインストリートを歩き、待ち合わせ場所である時計塔の下へと向かった。
「あ、中川さん! こっちです!」
人混みの中から、弾むような声が上がった。
透子が、小さく手を振りながら駆け寄ってくる。
大学が夏休みに突入した彼女は、透け感のある白いブラウスに、淡いブルーのフレアスカートという、以前の作業着姿や高校生の頃とは違う、すっかり大人びた私服姿だった。綺麗に梳かれた黒髪が、夏の風にふわりと揺れている。
「遅いですよ! 休日デートの待ち合わせに遅刻ギリギリなんて、減点対象ですからね!」
透子が少し口を尖らせて俺の顔を覗き込む。
「悪い。来る途中で、少し厄介な荷物運びをさせられていた」
「えー? まあいいです。今日は私がナビゲートしますからね! まずはあそこの裏路地にある、限定のパンケーキを食べに行きますよ!」
透子は俺の腕を引き、銀座の華やかな人混みの中へと歩き出した。
十分ほど歩き、喧騒から少し離れた路地裏にある小さなカフェへと入る。アンティーク調の家具が並ぶ店内は、甘いバニラと焦がしバターの香りに包まれていた。
席に着くや否や、透子はメニューを開いて目を輝かせた。
「私、この『季節のフルーツマウンテン・パンケーキ』のトリプルサイズ! あと、アイスティーをお願いします!」
「……俺はブラックのコーヒーだけでいい」
「えっ、中川さん食べないんですか? じゃあ、私のを少し分けてあげますね」
運ばれてきたパンケーキは、彼女の言葉通り「山」だった。三枚重ねられた分厚い生地の上に、苺やマンゴー、ホイップクリームが雪崩のように盛り付けられている。
透子はフォークとナイフを構え、嬉々としてその山を崩し始めた。
「んん〜っ! 美味しい! 疲れが吹き飛びます!」
一口食べるごとに、彼女から純粋な「陽の気」が立ち昇る。相変わらず、彼女の健全な食欲が放つ生命力は、下手な除霊符よりも周囲の空気を浄化する力を持っていた。
「……お前、そんなに食べて、午後の服選びは大丈夫なのか? 試着室で後悔することになるぞ」
俺がコーヒーを啜りながら言うと、透子は口元にクリームをつけたままでムッとした顔を作った。
「失礼ですね! 私の胃袋と消化器官はブラックホールなんですから。それに、今日はバイト代も入ったし、服飾費の予算はばっちり確保してあります」
彼女はパンケーキを切り分け、俺の前の小皿に強引に乗せてきた。
「ほら、中川さんも食べてください。いつも会社で、私が巻き込んだ変なトラブルの後始末、こっそりしてくれてるでしょ? そのお礼なんですから」
俺はフォークを手に取りながら、少しだけ目を細めた。
「……お前、気づいていたのか」
「霊感はないですけど、馬鹿じゃありませんよ。私が幽霊っぽいものにビビった後、いつも中川さんが何かして、そのあと空気がスッキリするんですから。竹内さんみたいに『中川さんは凄い!』って真正面から信じ切ってるわけじゃないですけど……まあ、感謝してます」
透子は少しだけ照れくさそうに笑い、アイスティーのストローを咥えた。
「でも、中川さんっていつも定時で帰りたがるくせに、結局最後まで残って助けてくれますよね。案外、お人好しっていうか」
「……買い被りだ。俺は自分の契約範囲内で、自分が働きやすい環境を維持しているだけだ。契約外の休日にまで、厄介事に巻き込まれるのは御免だからな」
「あはは、そういうことにしておきます」
俺は押し付けられたパンケーキを口に運んだ。
舌が痺れるほどの甘さだが、先ほどまでのドス黒い生霊の怨念に当てられた後には、この悪意のない純粋な糖分が妙に胃に染み渡る。
「さて、エネルギー補給も終わりましたし! 次はあそこの雑貨屋と、角のセレクトショップを回りますよ! 中川さん、ちゃんと荷物持ちとしての責務、果たしてくださいね!」
パンケーキの山を瞬く間に平らげた透子が、勢いよく立ち上がる。
俺は軽く息を吐き、最後の一口のコーヒーを飲み干した。
「……わかったよ。ただし、夕方の五時までだ。それ以降は超過料金を請求するからな」
「ケチ! でも、それまでに私の買い物を終わらせてみせます!」
冷房の効いたカフェを出ると、再び夏の暴力的な熱波が体を包み込んだ。
だが、そこにあるのはただの物理的な暑さだけで、陰湿な霊障の気配は微塵もない。
俺は透子の弾むような足取りを追いかけながら、報酬の発生しない、だが決して悪くない休日の喧騒へと足を踏み入れた。




