第55話 カフェのバリスタ、予選突破の代償
7月下旬。
アスファルトが溶け出しそうな猛暑が続く東京。
朝。アパートのリビングで出勤のためにネクタイを締めながら、俺は足元の光景に思わず手を止めた。
設定温度を低めにしたエアコンがしっかりと効いている涼しい部屋のラグの上で、愛猫のクロが仰向けになり、真っ黒な前足と後ろ足をだらんと空中に投げ出している。いわゆる「へそ天」の体勢だ。
艶やかな毛並みが冷気の中でふかふかに膨らんでいる。俺がしゃがみ込んでその無防備な腹にそっと指を這わせると、クロは目を閉じたまま『クルル……』と鳩のように喉を鳴らし、両方の前足で俺の手首をギュッと抱え込んできた。
そして、自分の顔に俺の手を引き寄せ、ザラザラとした温かい舌で手のひらを念入りに舐め始める。
「……そろそろ行かないと、遅刻するんだがな」
俺が苦笑して手を抜こうとすると、クロは後ろ足も使って俺の腕をホールドし、「絶対に行かせない」とばかりに軽い猫キックを浴びせてきた。爪は完全に引っ込めてあり、ポスポスという肉球の柔らかい感触だけが肌に伝わってくる。
この絶対的な温もりに負けてしまえば、社会人としての最低限のラインまで崩れ去ってしまいそうだった。
俺はクロのおでこを優しく撫でてから、ホールドを解いてゆっくりと立ち上がる。
名残惜しそうに『ミャァン』と鳴く声を背中に受けながら、俺は熱気渦巻く外気の中へと歩み出した。
★★★★★★★★★★★
午前10時。丸の内商事・8階の総務部フロア。
室内は空調が効いているが、どこか落ち着かない空気が漂っていた。
「中川さん、聞きましたか? 1階のカフェのアリーナちゃん、すごいんですよ!」
隣のデスクから、竹内塔子が身を乗り出して話しかけてきた。
「アリーナがどうかしましたか」
「全国規模のバリスタ競技大会があるんですけど、彼女、見事に東京ブロックの予選をトップで通過したらしいんです! 来月の本選に出場するって、朝から小野先輩が社内報の夏期特別号のネタにするって騒いでました」
俺は少しだけ目を丸くした。
彼女の腕前が確かなのは毎日飲んでいて知っているが、まさか全国レベルの大会でトップ通過を果たすとは。
「それはめでたいですね。後で直接、祝いの言葉でもかけに行きましょうか」
「はい! 私も後でコーヒー買いに行きます!」
午後2時。
俺は1階のエントランスホールへと降りた。
社内カフェ『Oasis』のカウンターでは、アリーナ・ヴィルカスがエスプレッソマシンの前で、スチームワンドを布巾で素早く拭き上げているところだった。黒のタイトなシャツにカフェのエプロン姿。プラチナブロンドの髪を後ろで束ねた彼女の横顔は、刃物のように鋭く、そして美しい。
「アリーナ。予選トップ通過、おめでとう」
俺が声をかけると、彼女は新しいカップをセットしながら、ニヤリと口角を上げた。
「Thanks, Mate. 耳が早いわね。まあ、私の腕なら当然の結果よ。本選でもぶっちぎりで優勝して、オーストラリアに凱旋するつもりだから」
「相変わらずの自信だな。いつものブラックを頼む」
「了解。予選突破の特別サービスで、今日は最高級の豆を使ってあげるわ」
アリーナがグラインダーから挽きたての粉を受け取り、タンパーで均等に圧力をかけてから、マシンの抽出ボタンを押す。
普段なら小気味良い機械音と共に黄金色のクレマが抽出されるはずだが、ノズルから滴り落ちてきた液体の様子は明らかにおかしかった。
シューゥゥゥ……と不気味な空気が抜け、コールタールのようにドス黒く粘り気を帯びた斑点が次々とカップの底に浮かび上がってくる。
芳醇なコーヒーの香りの中に、焦げたゴムとヘドロが混ざったような異臭が立ち込めた。
「……何これ」
アリーナが眉をひそめ、直ちに抽出を止めた。
俺の目には、その黒い斑点から不規則な邪気が脈動しているのが捉えられていた。マシンの故障などではない。
「アリーナ、そのコーヒーは捨てるんだ。……何か、厄介なものが寄ってきている」
俺はカウンターに身を乗り出し、エントランスホールの入り口付近へと視線を向けた。
自動ドアの向こう側から、まるで泥水が這うようにして、ドロドロとした黒い影が侵入してきていた。
特定の形はない。だが、そのヘドロのような影の表面には、無数の充血した目玉と歪んだ口が浮かび上がり、床を溶かすような瘴気を放ちながら、一直線にこのカフェカウンターへと向かってくる。
『……ナゼ……』
『……ワタシノ方ガ、努力シテキタノニ……』
『……ポッと出ノ外国人が……ワタシノ枠ヲ……!!』
地を這うような怨嗟の声。
「……予選で負けた連中の逆恨みだな。生々しい嫉妬がこびりついている」
俺は低い声で呟いた。
「……はぁ?」
アリーナは恐怖するどころか、心底呆れたように大きなため息をついた。
「実力で負けたからって、恨み言を飛ばしてくるわけ? ナンセンス極まりないわね。そんな暇があるなら、一杯でも多くコーヒーを淹れて腕を磨けばいいのに」
正論だが、相手は理性を失った念の塊だ。言葉は通じない。
這い寄ってくる生霊は、アリーナの足元へ泥の触手を伸ばしてきている。
俺は内ポケットから黄色い付箋と青い付箋を取り出し、呪力を練り上げて指先の付箋を構える。
しかし、横から伸びてきたアリーナの手がスッと俺の腕を制した。
彼女の切れ長の冷ややかな瞳は、足元に迫る黒いヘドロを真っ直ぐに見据え、静かに燃え上がっていた。
「私の仕事場を泥だらけにする気? ……こいつは、私が自力で片付けるわ」
「……本気か? 相手は怨念だぞ。物理的な攻撃は通じない」
「私のマシンを汚した落とし前は、きっちりつけてもらうわ」
アリーナは振り返り、カウンターの下に置いてある小瓶を掴んだ。
それは、俺が彼女に渡してある、お清め用の特製岩塩だ。
彼女は新しいポルタフィルターに、極細挽きにしたエスプレッソ用の豆をたっぷりと詰め込む。そして、その上から白い聖塩を、躊躇なくひとつかみ分ドサリと乗せ、タンパーで体重をかけてガッチリと押し固めた。
コーヒーの層と、分厚い聖塩の層が一体化した、絶対に飲んではいけない狂気のパック。
『……ズルイズルイズルイ……!! 私ノ場所ヲ返セ……!!』
生霊の泥が、カウンターの側面に這い上がり、アリーナの腕に絡みつこうと触手を伸ばす。
「中川さん! そいつをそこに固定して!」
「……無茶苦茶な女だ」
俺は小さく口角を上げ、手にしていた黄色い付箋を、カウンターの側面に迫る生霊の顔めがけて投げつけた。
「結界展開。――土行、泥濘の陣」
バチッ!
黄色い付箋が張り付いた瞬間、生霊の周囲の空間が見えない沼のように重くなり、触手の動きが完全にピタリと停止した。
「今だ」
「Thanks!」
アリーナは、聖塩を詰め込んだポルタフィルターをエスプレッソマシンにガチャンと乱暴にセットした。
そして、抽出ボタンを押し、同時にマシンの横から伸びているスチームワンドを掴み、生霊の顔の真正面へと突き出したのだ。
「他人の足を引っ張る暇があったら、自分の技術を磨きなさい!」
アリーナがスチームのバルブを一気に全開にする。
エスプレッソマシンから抽出経路を逆流するような異音が鳴り、スチームワンドの先端から、超高圧の蒸気が爆発的に噴射された。
ただの蒸気ではない。
フィルター内に詰め込まれた大量の清めの塩の成分と、深く焙煎されたコーヒーの香りが、100度を超える高温のスチームに乗って、真っ直ぐに生霊の霊体を直撃したのだ。
『ギィィィィィィィィィィッ!?』
物理的な熱と、強烈な浄化の力を持った聖塩のスチーム。
それを真正面から浴びた生霊の黒いヘドロは、悲鳴を上げながらジュワァァァッ! と凄まじい勢いで沸騰し、白煙を上げて蒸発していく。
彼女が日々の業務で培ってきた、職人としての矜持。その絶対的な自信と強烈な陽の気が、スチームの浄化力を限界まで引き上げていた。
『ア……アアァァァァ…………!!』
生霊を形作っていたドス黒い未練と嫉妬が、清らかな塩の蒸気に完全に洗い流され、最後は跡形もなく霧散して消え去った。
後に残ったのは、焙煎されたコーヒーの香ばしい匂いと、少しだけ温度の上がったカフェの空気だけだ。
「……ふぅ。これでスッキリしたわ」
アリーナはスチームのバルブを閉じ、ワンドを布巾で手際よく拭き上げながら、満足そうに鼻を鳴らした。
「……見事な手際だな。だが、マシンの使い方が荒すぎるぞ。壊れたらどうするつもりだ」
俺が付箋を回収しながら呆れたように言うと、彼女は肩をすくめた。
「No worries. これくらいで壊れるようなヤワなマシンじゃないわ。それに、私のテリトリーを守るためなら、これくらい当然でしょ」
彼女はマシンのノズルを洗浄し、今度は正常な豆を使って、あっという間に美しいクレマの浮かんだエスプレッソを抽出し、お湯で割ってロングブラックを作り上げた。
カウンターにコトンとカップが置かれる。
「はい、お待たせ。お詫びに一杯おごってあげるわ」
「ありがたくいただこう。……本選、期待しているぞ」
「当然よ。優勝トロフィー、ここに飾ってあげるから楽しみにしてなさい」
アリーナの顔に、一切の迷いも不安もない。
俺は香ばしいコーヒーを一口飲み、その深いコクに肩の力を抜きながら、自分のフロアへと戻っていった。
★★★★★★★★★★★
夕方。定時を迎え、俺はタイムカードを切ってオフィスを後にした。
真夏の生ぬるい風が、ネクタイを外した首元を通り抜けていく。
スーパーで食材を買い込み、アパートのドアを開けた。
「ただいま、クロ」
玄関の三和土に、黒い弾丸が飛び出してきた。
クロは俺の革靴にすりすりと頭をこすりつけ、喉を盛大に鳴らしている。
俺はクロを抱え上げたままリビングに入り、キッチンへと向かった。
今夜は、火照った体を冷やしつつスタミナをつけるためのメニューだ。
『豚しゃぶと夏野菜の梅肉和え冷製カッペリーニ』。
まずは鍋にたっぷりの湯を沸かし、少量の酒を加えてから、極薄切りの豚バラ肉を一枚ずつ丁寧に泳がせるようにして火を通す。色が変わった瞬間に氷水に引き上げ、余分な脂を落としつつ肉の甘みを閉じ込める。
オクラは塩茹でして斜め切りにし、ミョウガは大葉と共に極細の千切りにする。
ボウルに、叩いた紀州南高梅の果肉、エキストラバージンオリーブオイル、少量の白だし、そして隠し味のハチミツを加えてしっかりと混ぜ合わせ、特製の梅肉ソースを作っておく。
別の鍋で極細のパスタ、カッペリーニを規定の時間より少し長めに茹でる。氷水で一気に締めるため、芯が残らないようにするためだ。
氷水でパスタをキンキンに冷やし、水気を徹底的に絞ってから、先ほどのボウルに投入。豚しゃぶ、オクラ、ミョウガ、大葉を加え、梅肉ソースと素早く絡め合わせる。
ガラスの器にふんわりと高く盛り付け、最後に白いりごまを散らせば完成だ。
ダイニングテーブルに座り、ガラスの器から冷製パスタをフォークに巻き取って口に運ぶ。
キンキンに冷えた極細の麺に、梅肉の鮮烈な酸味とオリーブオイルの香りがしっかりと絡みついている。火を通してから氷水で締めた豚バラ肉は、余分な脂が落ちて肉本来の甘みが際立っており、ミョウガと大葉の香味が後味をすっきりとさせていた。
グラスのスパークリングワインを静かに煽る。きめ細かい炭酸が喉の奥で弾け、外気と調理の熱で火照った体を内側から心地よく冷やしていく。
隣の椅子では、クロが小皿に乗った無添加のささみフレークに夢中になっている。時折、美味しそうに舌を鳴らしながら食べるその姿を横目に、俺は二口目のワインをゆっくりと喉へ流し込んだ。




