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第54話 女子大生・松田透子のキャンパス怪談

 7月上旬。

 朝の眩しい光が、アパートのリビングのフローリングを四角く切り取って照らし出している。


 出勤の準備を整え、ワイシャツの袖口のボタンを留めようとしていた俺の足元に、小さな麻紐のボールがポトリと落ちてきた。

 見下ろすと、愛猫のクロが、ピンと立てた尻尾の先を微かに揺らしながら、金色の丸い瞳でこちらを見上げている。


「……今は遊んでいる時間はないんだがな」


 俺がため息をつきつつボールを拾い上げ、部屋の奥へ向かって軽く投げ放つ。

 クロは目にも留まらぬ速さで床を蹴った。しなやかな筋肉が躍動し、フローリングを滑るように駆け抜け、空中で見事な弧を描いてボールを両前足でキャッチする。トンッ、という軽やかな着地の音。そして、器用に口にくわえ直すと、再びトコトコと俺の足元まで戻ってきて、ボールを落とすのだ。


『ミャッ』


 催促するような、甘ったるい声。

 最近のクロは、どういうわけか俺と遊ぶことに異常なほどの執着を見せている。一人遊びよりも、俺が投げたおもちゃを追いかける「狩り」の共有が楽しいらしい。俺が無視して洗面所へ向かおうとすると、行く手を塞ぐように足元へ回り込み、ゴロンと仰向けになってお腹を見せ、「遊べ」と強烈にアピールしてくる。


 壁の時計の針を確認し、俺はもう一度ボールを部屋の隅へ向かって投げた。クロが弾かれたように飛び出していくのを見届け、俺は鞄を手に取ってアパートのドアを開ける。

 外に出ると、すでに肌を刺すような夏の熱気が、コンクリートの照り返しと共に立ち昇っていた。


★★★★★★★★★★★


 午前10時。

 丸の内商事、8階の総務部フロア。

 外の猛暑とは対照的に、室内は空調が稼働し、本来なら快適な温度に保たれているはずの空間だ。

 だが、自席のPCで伝票の入力作業を進めていると、肌を撫でる空気に不自然な冷気を感じた。


「なんだか今日、冷房が効きすぎていませんか……?」


 隣のデスクで、竹内塔子が両腕をさすりながら身震いをする。


「設定温度は26度のままです。風向きのせいかもしれませんね。ルーバーを少し上に向けておきましょう」


 俺が立ち上がり、空調の操作パネルに手を伸ばした直後、フロアの入り口から台車を押す鈍い音が近づいてきた。


「おはようございます……社内便、です……」


 現れた松田透子は、顔面が蒼白になり、目の下にはうっすらと暗い影が落ちている。足取りも重く、台車に寄りかかるようにして歩いていた。

 俺の網膜が捉えた『それ』は、尋常ではない瘴気を放っている。

 透子の背中に、コールタールのように黒く、ドロドロとした不定形のモヤがべったりとへばりつく。そのモヤからは、細い糸のような触手が何本も伸び、フロアの床や、周囲のデスクの脚に絡みつこうと蠢いていた。


「松田。こっちへ来い」


 俺は透子の前に立ち塞がり、声を落として尋ねた。


「お前、何か変な場所にでも行ったか」


 透子は虚ろな目を向け、震える唇を必死に動かす。


「あ、あの……昨日、大学のサークルで……ちょっと変な、文字盤の遊び、しちゃって……そしたら、急に部屋が、凍るみたいに寒くなって……私、何もしてないのに……うぅっ……」


 言葉を詰まらせ、その場にうずくまりそうになる。

 サークルの学生たちが面白半分で呼び出し、処理しきれずに放置した浮遊霊の吹き溜まりが、彼女を極上の器として認識し、そのままくっついてきてしまったのだ。塔子が感じていた寒さの原因も、この悪霊が周囲の空間の熱を奪っているからに他ならない。


『……アソンデ……』

『……ズット、ココニイル……』


 透子の背中のモヤから、複数の重なり合ったような気味の悪い声が漏れ出し始めた。

 このままフロアに放置すれば、霊障が他の社員やネットワークに伝染する。


「竹内さん。松田は少し貧血気味のようです。俺が空いている第2会議室で休ませてきます」

「あっ、はい。お願いします」


 俺は透子の腕を掴み、足早に廊下へと出た。

 突き当たりにある第2会議室のドアを開け、彼女を中に押し込むと、すぐに内側から鍵をかける。


 密室になった途端、透子の背中にへばりついていたモヤが、ドワァッ! と一気に膨張し、部屋の天井と壁を覆い尽くすように広がっていく。


「な、なんですかこれ! 部屋が急に真っ暗に……!」


 透子が悲鳴を上げる。


 俺は彼女を庇うように前に出つつ、素早く部屋の四隅と天井付近へ霊力を巡らせた。

 先月着任した外部役員の九条が仕掛けている「黒いシール」の波長がないかを探る。


 ……感知されない。この会議室はクリーンだ。ここなら、少し出力の高い術を使っても、あの厄介な探知網に引っかかることはないだろう。


「お前がキャンパスから連れ帰ってきた厄介な客だ。サークル遊びのツケとしては、少々高くついたな」


 俺は冷静に言い放ち、会議室のホワイトボードの前に立った。

 モヤが蠢き、壁からいくつもの「黒い手」が這い出して、俺と透子に向かって伸びてくる。


 俺はスーツの胸ポケットから、一本の『ホワイトボードマーカー』を取り出した。

 相手は、文字盤を通じた降霊術で呼び出された怪異だ。ならば、こちらも「文字」と「印」の力で封殺するのが最も理にかなっている。


 マーカーのキャップを外し、芯の先に丹田から練り上げた『火行の気』を集中させる。無機質なプラスチックのペン先が、微かな熱を帯びて朱色に発光し始める。


 俺は真っ白なボードの表面に、巨大な『破邪の呪符』を描き殴った。

 キュキュッ、というマーカーの摩擦音が静かな部屋に響く。ボードに記された赤いインクの線は、ただの文字ではない。ホワイトボードの滑らかな表面に、複雑な幾何学模様と梵字が組み合わさった印が形成されていく。インクの揮発するアルコール臭の中に、微かに焦げたような匂いが混ざり始めた。俺の霊力が定着した、燃え盛る火の縄だ。


「結界展開。――炎縛の印」


 俺がマーカーの尻をボードに強く打ち付けると、描かれた赤い呪文がボードから剥がれ落ち、空中に立体的な光の網となって展開された。

 朱色の軌跡が空気を焦がし、部屋中に充満していた黒いモヤを、四方八方から一気に絡め取る。


『ギャアアアアッ!?』

『……アツイ……! モエル……ッ!!』


 光の網に捕縛された悪霊たちが、耳障りなノイズのような悲鳴を上げる。


「キャンパスの怪談は、大学の中だけでやっていろ」


 俺はさらに、机の上に置かれていたプラスチック製の『バインダー』を手に取った。

 バインダーの強力な金属クリップ部分に霊力を流し込み、網の中で身悶えする怨念の中心核――もっとも濃いモヤの塊に向けて、迷いなくクリップを叩きつけ、物理的に挟み込む。


 バチンッ!!


 金属のバネが弾ける鋭い音と共に、悪霊の核が完全に圧殺された。

 それを合図に、空中の赤い網が一気に収縮し、黒いモヤ全体をチリチリと焼き尽くしていく。

 俺はマーカーのキャップを静かに閉めた。会議室の空調が再び正常に機能し始め、淀んでいた空気が少しずつ入れ替わっていくのを感じる。


 透子は床にへたり込んだまま、呆然と宙を見つめていた。


「……消え、た……? あの黒いウジャウジャしたやつ……」

「ああ。二度とオカルトサークルなんかに近づくな。次やったら、自分の力でなんとかしろ」

「は、はい……ごめんなさい……」


 透子は涙目で何度も頷いた。


 これ以上無駄な体力を使う気はない。俺は透子を立たせ、会議室のドアの鍵を開ける。


「さあ、仕事に戻れ。溜まっている社内便があるだろう」


★★★★★★★★★★★


 午後の業務を淡々とこなし、時計の針が退勤時刻を回ったのを確認して、俺は誰よりも早くPCをシャットダウンした。


 外に出ると、真夏の夕暮れはまだ空が明るいが、アスファルトからは昼間に蓄積された熱が容赦なく放出され、むせ返るような湿気が空気を重くしている。

 駅前の喧騒を抜け、コンビニで冷たい麦茶のペットボトルを一本だけ買い、アパートへと歩を進めた。額に滲む汗を拭いながら、早く冷房の効いた部屋へ戻ることだけを考える。


 ドアの鍵を開け、玄関に足を踏み入れる。


『ミャオォォン!』


 待ち構えていたクロが、口に朝の「麻紐のボール」をくわえたまま、俺の革靴に突進してきた。

 靴を脱ぐ暇も与えず、俺の足元にポトリとボールを落とし、見上げるような姿勢で短く鳴く。


 「続きをやれ」という明確な要求だった。


「……わかった、わかった。今夜は少し、長めに付き合ってやる」


 俺が苦笑してボールを拾い上げると、クロは喉をゴロゴロと鳴らしながら、瞳孔を極限まで見開いてフローリングの奥へと走り抜けていった。

 俺は鞄を置き、ネクタイを緩め、終わりのない狩りごっこへと身を投じた。


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