第53話 外部取締役は呪術師の匂い
6月下旬。
数日続いた長雨が嘘のように晴れ渡り、アスファルトからは梅雨の晴れ間特有のむせ返るような熱気と湿度が立ち昇っている。
朝。俺がベッドで目を覚ますと、リビングの窓際から微かに「カカカッ」という小刻みな音が聞こえてきた。
視線を向けると、黒猫のクロがキャットタワーの中段から身を乗り出し、網戸の向こう側の電線に止まっているカラスをじっと見つめて、狩猟本能特有のクラッキングを鳴らしているところだった。
網戸に両前足をかけ、耳を少し後ろに伏せながら、短い尻尾をパタパタとせわしなく振っている。カラスが羽ばたいて飛び去ると、クロは不満げに「ミャウ」と一声鳴き、ゆっくりと前足を下ろした。
俺が身を起こしても、こちらを一瞥しただけで、すぐにまた窓の外の新たな獲物を探して視線を巡らせている。
洗面所で顔を洗い、クロ用のフードボウルに新鮮なご飯を補充する。カリカリと良い音を立てて食べ始めた背中を一度撫でてから、うだるような暑さが支配するオフィス街へと足を踏み出した。
★★★★★★★★★★★
午前10時。丸の内商事、8階の総務部フロア。
空調が稼働し、快適な温度に保たれているはずの室内だが、今日は朝から社員たちの間にピリピリとした緊張感が走っていた。
「それでは、各部署の環境データ収集のため、順次センサーを設置させていただきます。業務の妨げにはなりませんので、お気になさらず」
フロアの中央で、仕立ての良さが素人目にもわかるグレーのダブルスーツを着こなした男が、周囲の部下たちに指示を出していた。
今月着任したばかりの新たな外部取締役、九条だ。
白髪交じりのオールバックに、感情の読めない冷徹な双眸。彼は数人の部下を連れ、キャビネットの側面や観葉植物の鉢の裏などに、親指の爪ほどの大きさの黒いシールを次々と貼り付けさせていた。
「さすが九条取締役ですね。社員の労働環境改善のために、あんな細かな温湿度センサーまで導入するなんて」
隣のデスクで、総務部の竹内塔子が感心したように頷いている。
俺は自席のPCで備品の在庫データを打ち込みながら、その黒いシールを冷ややかな目で見つめていた。
シールの表面には、QRコードに似た複雑な幾何学模様が銀色のインクで印刷されている。霊的な知識のない人間には、ただの小型の電子デバイスか、管理用のタグにしか見えないだろう。
だが、俺の目には、その幾何学模様から極めて微弱な、しかし精緻に編み込まれた呪力の波長が絶え間なく発信されているのが見えていた。
――『監視の式神』だ。
空間内の微弱な霊力変動や音を拾い上げ、離れた場所にいる術者の端末へと情報を送るための術式。九条は、俺がこのフロアで陰陽術を行使した瞬間を捉え、その証拠を掴むつもりなのだ。
(……このままでは、日常のホコリを払うことすら自由にできないな)
俺はキーボードを叩く手を止め、静かに立ち上がった。
フロアの壁やデスクの陰に、すでに十数枚の式神が配置されている。これを呪力で一気に焼き払えば、九条の探知網に異常なアラートを送ることになる。
あくまで「日常業務の範囲内でのアクシデント」として処理しなければならない。
「竹内さん。月末の大掃除の一環として、キャビネットの裏やOAフロアの隙間のホコリを落としておきます。梅雨の時期はカビが繁殖しやすいので」
「あ、ありがとうございます。助かります」
俺は備品室から、柄の長いハンディモップと、不要になった裏紙の束、そしてゴミ袋を取り出してきた。
そして、フロアの隅から順に、モップを壁や家具の隙間に滑り込ませていく。
九条の部下たちが設置していった黒いシールにモップの先が触れる瞬間、俺はごく僅かな物理的な力を指先に込め、シールの端をカリッと引っ掛けて剥がし取った。
剥がしたシールは、手元に持っている裏紙の束の間に素早く挟み込んでいく。
この段階では、式神の機能はまだ生きている。九条の端末には「センサーが移動している」という環境ノイズ程度の情報しか送られていないはずだ。
フロアを一周し、すべての式神を裏紙の束の間に回収し終えた俺は、そのまま自然な足取りで、フロアの端にある大型の業務用シュレッダーの前へと向かった。
シュレッダーの主電源を入れる。
重厚なモーター音が鳴り始めた。
俺は回収した裏紙の束を投入口に差し込みながら、密かに右手の指先に『金行の気』を練り込んだ。
金は刃物や金属の象徴。俺はその研ぎ澄まされた気を、稼働しているシュレッダーの強靭な金属刃に直接流し込む。
ガリガリガリッ! バリバリバリッ!
紙の束が吸い込まれ、鋭い刃によって細かく裁断されていく。
そこに霊的な金行の気が加わることで、金属刃は一時的に『破邪の断層』へと変化する。シールに刻まれた幾何学模様の呪的リンクが、紙の裁断と同時に物理的・霊的の両面から完全にズタズタに切り裂かれていった。
それは、術者から見れば「突然の断線エラー」や「物理的な破損」による通信ロストにしか見えないはずだ。
わずか十数秒で、数十枚の裏紙と共に、九条が仕掛けた監視の式神は、すべてただの白い紙屑となってダストボックスの底へ落ちていった。
「……よし」
俺がシュレッダーの電源を切ると、フロアの向こう側で、タブレット端末を見ていた九条がピタリと足を止めるのが見えた。
彼は眉間に深いシワを寄せ、タブレットの画面を何度もタップしている。
やがて、鋭い視線が真っ直ぐに俺の方へ向けられた。
俺はダストボックスのゴミ袋を縛りながら、静かに振り返って会釈をした。
九条はゆっくりとした足取りでこちらへ近づいてくる。
「……中川くん。今、ここで何をしていたね」
「不要になった機密書類と、フロアのゴミの裁断処理をしておりました。備品管理の日常業務です」
「そうか。……先ほど私が設置させたセンサーの信号が、突如としてすべて途絶えたのだが。君は何か見ていないだろうか」
九条の声には、隠しきれない苛立ちが混じっていた。
「センサーですか? 申し訳ありません、ホコリ取りの最中にいくつか黒いシールのようなものが剥がれ落ちてしまったのは見かけました。粘着力が弱かったようで、裏紙のゴミに紛れて一緒にシュレッダーにかけてしまったかもしれません」
「……何だと」
九条の顔がわずかに険しくなる。
だが、俺はあくまで「不注意な清掃作業」を装い、淡々と言葉を続ける。
「高価な機器でしたら申し訳ありません。次からは、もっと粘着力の強いテープで固定されることをお勧めします。……弁償が必要でしたら、総務部を通していただければと」
物理的な掃除のミスとして報告された以上、彼がここで「あれは呪術的な監視網だ」と声を荒らげることはできない。
九条は俺の目を数秒間睨みつけ、やがて短く舌打ちをした。
「……いや、構わん。試作品のテストだったからな。清掃業務、ご苦労だった」
九条は踵を返し、足早にフロアを去っていった。
俺は結んだゴミ袋を持ち上げ、小さく息を吐いた。
★★★★★★★★★★★
午後6時。
定時のチャイムが鳴ると同時に、俺は誰よりも早くタイムカードを切ってオフィスを後にした。
現在の俺が会社と結んでいる特例契約における報酬額を考えれば、この街の高級店で夕食を取ることも、もはや特別なイベントではない。
俺は裏通りにある、レンガ造りの重厚な外観が特徴的なステーキハウスのドアを開けた。
案内されたカウンター席に座り、まずは前菜として『牛刺し』を注文する。
ほどなくして運ばれてきたのは、美しい霜降りのサシが入った薄切りの牛肉が、冷えたガラスの皿に花びらのように並べられた一品だった。
少量の生醤油と本山葵を乗せ、箸でつまんで口に運ぶ。
舌に触れた冷たい肉は、歯を立てるまでもなく、舌と上顎で挟み込むだけで繊維がしっとりとほどけていく。赤身の持つ野性味のある鉄分と、繊細なサシの甘さが生醤油の塩気と混ざり合い、静かな旨味が口腔内に満ちていった。本山葵のツンとした香りが、後味を極めて綺麗に引き締めている。
新鮮なリーフと自家製のオニオンドレッシングがかけられたグリーンサラダで口の中をリフレッシュさせると、いよいよメインディッシュが運ばれてきた。
熱々に熱せられた分厚い鉄板の上で、ジュージューと荒々しい音を立てるフィレステーキだ。
ナイフを入れると、表面の香ばしい炭火の焼き目の下から、美しいルビー色のレアの断面が姿を現した。
肉の繊維がナイフの刃を優しく受け入れ、驚くほど抵抗なくスッと切れる。
一口頬張ると、炭火で燻された香ばしさと共に、閉じ込められていた熱い肉汁が一気に溢れ出した。弾力がありながらも歯切れが良く、噛み締めるごとに肉そのものの強烈な旨味が押し寄せてくる。
俺はグラスに注がれたフランス・ブルゴーニュ産のピノ・ノワールを静かに口に運ぶ。
グラスの底から立ち上る湿った腐葉土とラズベリーの香りが、炭火で焼かれた牛肉の香ばしさと同調していく。ワインの繊細な酸味と穏やかな渋みが、赤身の強い旨味の輪郭をさらに深く際立たせ、複雑な余韻となって長く喉の奥に残った。
カリッと焼かれたバゲットをちぎり、鉄板に残った肉汁とソースを拭って最後まで味わい尽くす。
店を出た俺は、そこから少し歩いて、銀座のさらに奥深くにある細い路地へと向かった。
地下へと続く狭い階段を降り、重い木製のドアを開ける。
そこは、かつて多くの作家や文化人が夜な夜な酒を酌み交わしたと言われる、歴史ある文壇バーだ。
セピア色の照明が落とされた店内には、壁一面の書棚に古書がびっしりと並んでおり、古い紙の匂いと葉巻の香りが微かに漂っている。
静寂に包まれた重厚な一枚板のカウンターの隅に座り、俺はマスターにシングルモルトのウイスキーをロックで注文した。
銘柄は、アイラモルトの王と呼ばれる『ラフロイグ10年』。
マスターが氷ばさみで丸く削り出した透明な氷をグラスに落とし、琥珀色の液体を静かに注ぐ。
グラスを鼻に近づけると、強烈なヨード香と、海風を含んだピートの煙の匂いが真っ直ぐに立ち昇ってきた。
グラスを傾け、冷たいウイスキーを口に含む。
薬品のような鮮烈な香りの奥底から、麦芽のふくよかな甘みがゆっくりと顔を出し、じんわりと喉を温めていく。
氷が少しずつ溶け、ウイスキーの香りが時間と共に変化していくのを楽しみながら、俺は今日の出来事を反芻していた。
九条の監視は、あの程度の物理的な破壊で諦めるようなものではない。手を変え品を変え、俺の日常に踏み込んでくるだろう。
だが、俺のテリトリーを荒らすつもりなら、徹底的に排除し続けるだけだ。
静かなバーの空気の中で、俺は次の一手を思考しながら、グラスの底に残る琥珀色を飲み干した。
*
午後9時を回った頃、アパートに帰宅する。
リビングのドアを開けると、クロがキャットタワーの中段から身を乗り出し、俺の顔を見て短く鳴いた。
俺がコートを脱いでソファに腰を下ろすと、クロはタワーからトコトコと降りてきて、俺の隣にぴたりと座り込んだ。
そして、俺の足に寄りかかったまま、自分の前足を熱心に毛繕いし始めた。
ウイスキーの微かな酔いを感じながら、俺はクロの背中をそっと撫でた。
柔らかな毛並みの感触と規則正しい呼吸の律動が、手のひらを通じて伝わってくる。
俺は天井の照明を一段階落とし、ソファに深く背を預けた。
グラスに残っていた水滴が、ゆっくりとコースターに滑り落ちていった。




