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第52話 新入社員とリモートワークの幽霊

 6月中旬。

 厚い雲が空を覆い、窓ガラスには絶え間なく雨粒が打ち付けている。


 ベッドの中で目を覚ますと、俺の左腕は完全にホールドされ、身動きが取れなくなっていた。

 クロだ。

 雨の日の気圧のせいか、今日は朝から機嫌が悪いらしく、俺の腕を抱え込んだまま、不満げに尻尾の先をパタパタと揺らしている。俺が腕を抜こうと微かに力を入れると、目を閉じたまま短い抗議の声を上げ、ザラザラとした舌で俺の手首を舐め始めた。

 かつての弱々しい面影はない。完全にこの部屋の主として、自らのテリトリーを主張している。


 ここで二度寝の誘惑に屈するのは簡単だ。現在の契約の報酬を考えれば、数日仕事を休んだところで生活が傾くようなことはない。だが、一度この心地よい雨音と布団の温もりに負けてしまえば、生活のリズムが崩れるのは明白だった。

 俺はクロの気を逸らすため、枕元に常備している猫用おやつの袋に手を伸ばした。カサリ、という音にクロの耳がピクッと動き、ホールドが緩んだ一瞬を突いて、俺はベッドから抜け出した。


 出勤準備を済ませ、雨の降るオフィス街へと歩き出す。


★★★★★★★★★★★


 丸の内商事、8階の総務部フロア。

 室内は空調が稼働しているが、梅雨特有の湿気を完全に排除することはできず、どこか重い空気が漂っていた。

 自席のPCで、各部署から送られてくるデータの確認作業を進めていると、隣のデスクから深い溜め息が聞こえてきた。

 総務部主任の竹内塔子だ。彼女はモニターを見つめたまま、眉間を揉みほぐしている。


「どうしました、竹内さん。朝から難しい顔をして」


 俺が声をかけると、彼女は少しだけ肩を落としてこちらを向いた。


「実は、今年入社した営業推進部の新人のことで、少し相談を受けていまして」

「新人ですか。5月病の時期は越えたはずですが」

「ええ。その部署は週の半分が在宅勤務推奨なんですけど、彼、ここ最近のレスポンスが異常に遅くて。チャットを送っても何時間も既読にならないし、オンラインの打ち合わせでもずっとカメラをオフにしたままで、声もすごく暗いらしいんです」


 塔子は手元の資料に視線を落とす。


「指導担当の先輩は『家でサボっているだけだ』って怒っているんですけど……提出されてくる日報の文字の羅列が、なんだかすごく、どんよりしているというか……気になってしまって」


 ただのサボりか、メンタルの不調か。

 俺は少し考える素振りを見せた。通常なら、人事やヘルスケアセンターの管轄だ。だが、人間の負の感情が絡むトラブルの裏には、「別の要因」が潜んでいることがある。


「……少し、ログを調べてみましょうか。通信の遅延という可能性もありますから」


 俺は立ち上がり、彼女に短く告げた。


★★★★★★★★★★★


 地下2階。サーバー室。

 冷ややかな空気が流れる無機質な空間の奥で、石田繭子は複数のモニターに囲まれてキーボードを叩いていた。


「……営業推進部の新人、斉藤。ネットワークの接続履歴、出した」


 俺の依頼を受け、彼女は即座に対象者の社内ネットワークへのVPN接続ログを画面に呼び出した。


「どうだ。何かおかしな点はあるか」

「……通信パケットの欠損はない。物理的な回線は正常。……でも」


 繭子はモニターの一つを指差した。


「……データの応答速度が異常。テキスト数キロバイトの送信に、不自然なタイムラグが生じてる。……それに、このデータに付随する暗号化の波形。泥水の中を通ってきたみたいなノイズが混ざってる」


 彼女の言葉に、俺は目を細めた。

 物理的な通信回線が正常であるにもかかわらず、データにノイズが乗る。それは、発信元の端末、あるいはその周囲の空間自体が、強烈な霊的磁場によって歪められている証拠だ。

 他者の目が届かない閉鎖空間。仕事に向かうプレッシャーと、休みたいという誘惑が混ざり合う環境。


「……『怠惰の霊』だな」

「……なにそれ」

「密室に溜まった無気力感が霊化したものだ。取り憑かれると、身体が重くなって画面の前に座る気力すら奪われる」

「……最悪。私の管理するネットワークに、そんな汚いノイズを流し込まないでほしい」


 繭子は不快そうに顔をしかめた。


「相手は自宅だ。俺が直接行くわけにはいかない。……ここから、奴の端末に干渉できるか?」


 俺の問いに、彼女はモニターを見つめたまま、淡々と答えた。


「……社用PCの保守用ポート、開いてる。……裏口からWMIでプロセスを叩けば、カメラのウェイクアップは可能。……でも、規定違反。倫理的にブラック」

「数秒でいい。相手のカメラとスピーカーを繋いでくれ。そこから浄化の気を送り込む」


 俺はスーツの内ポケットから、青い色の紙片を一枚取り出した。

 水行の気を持つ、浄化の呪符だ。

 それに指先でなぞるようにして、強い清浄な気を練り込んでいく。


「……対象のIPに接続。カメラ起動まで、3、2、1……」


 繭子の合図と共に、サブモニターの一つに、薄暗い部屋の映像が映し出された。


 カーテンが閉め切られた部屋。

 机の上に置かれたノートPCのカメラが捉えていたのは、ベッドの上に力なく横たわる若い男の背中だった。

 そして、その背中には――巨大なナメクジのような、ぶよぶよとした灰色の塊が、べったりとへばりついていた。

 男の頭部から、キラキラとした光の粒子が吸い上げられ、化け物の体の中へと消えていく。


 俺はモニターに右手を向け、指の間に挟んだ青い紙片に極限まで気を集中させた。

 物理的な距離は関係ない。霊的な繋がりは、ネットワークの回線を通じて相手の空間へと直結している。


「システムアップデートを実行する」


 俺はモニター越しの男に向かって、低く、はっきりとした声で言った。

 マイクを通じて、俺の声が相手の部屋のスピーカーから響き渡る。


 その音声に驚いたのか、ナメクジの化け物がモニターの方へとのっぺりとした体を向けた。


「――悪霊退散。不浄を洗い流せ」


 俺が指を弾いた瞬間。

 青い紙片が手の中で発光し、その光の波紋がモニターの画面を通じ、ネットワークの海を光速で駆け抜けた。

 繭子の緻密な回線制御が、俺の放った気を一切のロスなく対象のスピーカーと画面へと叩きつける。


 モニターの向こう側で、PCの画面が青白い閃光を放った。


『ギギャァァァァッ!?』


 スピーカーから、耳障りなノイズのような悲鳴が響く。

 浄化の光の波を真正面から浴びた怠惰の霊は、灰色の身体を急速に乾燥させ、ボロボロと崩れ落ちながら光の粒子となって消滅した。


 ベッドに倒れていた男が、ビクッと体を震わせて跳ね起きたのが見えた。


「えっ……? あ、あれ……?」


 彼が寝ぼけたような顔で周囲を見回すのを確認し、俺は繭子に目配せをした。


「……接続切断。ログの消去、完了」


 繭子が素早くキーを叩き、モニターの映像が元の黒い画面に戻った。

 これで、遠隔での処置は完了だ。


「助かった。見事な回線制御だった」

「……別に。……でも、次からはもっと綺麗なデータを流して。私のネットワークをオカルトのパイプラインにしないで」


 繭子は画面から目を離さずにボソボソと言ったが、キーボードを叩く指先はどこか軽やかだった。


 俺はサーバー室を後にし、8階のフロアへと戻った。

 自席に着くとほぼ同時に、隣の塔子が「あっ!」と明るい声を上げた。


「中川さん! さっきの営業推進部の新人くんから、急に連絡が来ました! 『すみません、少し体調を崩していましたが、今急に目が覚めました。遅れていた資料、すぐに提出します!』って。……文章の勢いも、すごく元気みたいです」

「それは良かったですね。ただの寝不足か、部屋の換気不足だったんでしょう」


 俺が平然と答えると、塔子は安堵の笑みを浮かべた。


「はい。やっぱり、心配しすぎだったみたいです。ありがとうございます、中川さん」


 何事もなかったかのように、オフィスは再び静かなタイピング音に包まれる。

 俺はPCの画面に向き直り、残りの伝票処理を淡々とこなし始めた。


★★★★★★★★★★★


 午後6時。

 空を覆っていた厚い雲は少し薄くなり、雨は小降りになっていた。

 アパートのドアを開け、玄関の明かりをつける。

 部屋の中は静まり返っていた。

 靴を脱いでリビングに入ると、クロはキャットタワーの最上段で丸くなり、俺の足音に気付いて片目を開けただけだった。


 『ミャ』と短く鳴き、再び目を閉じて眠りの世界へと戻っていく。


 雨の日の猫は、ひたすらに眠る生き物だ。そのマイペースで無防備な姿が、この空間が安全である何よりの証拠だった。


 俺はスーツを脱ぎ、キッチンへ向かった。

 今夜は、梅雨の湿気を吹き飛ばすような、さっぱりとした夕食にしよう。


 『豚しゃぶと梅肉おろしの冷やしうどん』だ。


 鍋に湯を沸かし、酒を少々加える。薄切りの豚バラ肉を一枚ずつ丁寧に泳がせ、色が変わった瞬間に引き上げて冷水に取る。肉の旨味を閉じ込め、余分な脂を落とすことで、驚くほど柔らかくさっぱりとした仕上がりになる。

 大根をおろし、種を取って包丁で叩いた大粒の梅干しと混ぜ合わせる。

 氷水でしっかりと締めたうどんを深めの器に盛り、豚しゃぶ、梅肉おろし、千切りにした大葉とミョウガをたっぷりと乗せた。

 最後によく冷やした出汁を回しかけ、白いりごまを散らせば完成だ。


 冷蔵庫から、キリッと冷えた純米吟醸酒を取り出し、江戸切子のグラスに注ぐ。


 ダイニングテーブルに座り、まずは冷やしうどんを箸で大きくすくい、口に運んだ。

 豚バラ肉のしっとりとした甘みと、大根おろしの瑞々しさが絶妙に絡み合う。そこに梅肉の鮮烈な酸味と大葉の爽やかな香りが加わり、梅雨の重苦しい空気を胃袋から一掃してくれる。コシのあるうどんの食感が小気味良い。


 グラスを手に取り、冷酒を流し込む。

 フルーティーな吟醸香が鼻腔を抜け、すっきりとした辛口の味わいが、豚の脂と梅の酸味を綺麗にまとめ上げ、静かな余韻を残していった。


 窓ガラスを叩く雨音を聞きながら、俺はグラスを傾ける。

 遠くで、雷が微かに鳴った。

 冷たい酒と、さっぱりとした料理。そして、キャットタワーで安らかな寝息を立てる小さな家族。

 俺はグラスに残った酒を飲み干し、静かな雨の夜に深く息を吐いた。



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