第51話 梅雨めく、時給五万円の初夏
春の狂騒が完全に過ぎ去り、季節はすでに6月の上旬を迎えていた。
丸の内のオフィス街を歩く人々の装いも軽くなり、街路樹の根元には色づき始めた紫陽花が、これから訪れる長雨の季節を静かに待っている。
空は薄い雲に覆われ、強烈に照りつけるような日差しはないものの、アスファルトから立ち上る熱気と、梅雨入り前のじっとりとした湿気が混じり合い、行き交うビジネスパーソンたちの体力をじわじわと奪っていた。
午前10時。
丸の内商事の8階、総務部フロア。
室内は空調が効いており、温度と湿度は快適な水準に保たれているはずだが、どこか落ち着かない空気が漂っていた。月末に控えた定時株主総会の準備や、それに伴う膨大な資料の作成、各部署からのレイアウト変更や備品追加の要望などで、フロア全体がピリピリとした緊張感に包まれている。
俺は自席のPCモニターを見つめ、各部署から送られてくる伝票の入力作業を黙々と進めていた。
隣のデスクでは、竹内塔子が電話の受話器を肩と耳に挟みながら、両手で猛烈な勢いでキーボードを叩いている。
「はい、総務部です。……ええ、第2会議室のプロジェクターの件ですね。業者の手配は完了しておりますので、明日の午前中には設置が完了する予定です。……はい、お電話ありがとうございました」
電話を切った塔子は、小さく息を吐いてから目元を指で軽く揉んだ。その表情には明らかな疲労の色が滲んでいるが、仕事に対する集中力は途切れていない。
「お疲れ様です、竹内さん。少しペースを落としてはどうですか」
俺が声をかけると、塔子は顔を上げて苦笑した。
「ありがとうございます。でも、今週中に終わらせておきたい書類が山積みで……それに、なんだかフロアの空気がソワソワしてて、落ち着かないんですよね」
彼女の言う通りだ。
今日、この丸の内商事に新たな役員が着任することになっている。
「例の新しい外部取締役の方……社内でちょっと変な噂になってるんです」
塔子が声を潜め、周囲を気にしながら身を乗り出してきた。
「噂、ですか」
「はい。株主総会を前にして急に決まった人事みたいで……どこかのお堅い省庁からの出向らしいんですけど、前の会社でものすごく厳しいリストラを断行した人だとか、逆にただの天下りのお飾りだとか……部署によって言ってる事がバラバラなんです。よくわからないんですけど、とにかく冷酷で隙のない人らしいです」
俺は伝票から視線を外し、小さく目を細めた。
お堅い省庁からの出向。
その言葉から連想される組織は一つしかない。数ヶ月前、監査官の東条が探りを入れてきたものの、小野さんの情報工作によって一時的に手を引いたはずの、国の裏機関。
彼らが、とうとう中枢に直接の監視役を送り込んできたということだろう。
午後2時。
フロアの入り口から、冷たく研ぎ澄まされた空気が流れ込んできた。
談笑していた社員たちが、その異質な気配に当てられたように次々と口を閉ざし、自席へと戻っていく。
現れたのは、グレーのダブルスーツを完璧に着こなした、五十代半ばと思われる男だった。
白髪交じりの髪をオールバックに撫でつけ、彫りの深い顔立ちには一切の感情が浮かんでいない。その後ろには、数人の取り巻きの役員たちが緊張した面持ちで従っている。
「あれが、新しくいらした九条取締役です」
塔子が息を潜めて教えてくれた。
九条はフロアをゆっくりと歩きながら、社員たちの働きぶりやデスクの配置に鋭い視線を巡らせていた。
俺の眼には、彼の足元から周囲に向かって、蜘蛛の巣のように細く透明な『気』の糸が張り巡らされているのがはっきりと見えた。
極めて精緻に編み込まれた探知の術式だ。
彼はオフィスの物理的な状況だけでなく、この空間に残された霊的な痕跡や、不自然な力の気配を読み取ろうとしている。
やがて、九条の足取りが俺のデスクの前でピタリと止まった。
「……君が、中川武くんだね」
低く、腹の底に響く声だった。
俺はキーボードから手を離し、静かに立ち上がって会釈をした。
「はい。備品管理を担当しております」
「書類は見させてもらったよ。……実に、興味深い契約内容だ」
九条は俺の顔を真っ直ぐに見据えた。その瞳の奥には、氷のような冷徹な計算が渦巻いている。
「一介の外部スタッフに対して、異例の厚遇がなされている。前社長の特例措置とはいえ、合理的な経営の観点からは少々理解に苦しむ。……君には、それだけの対価に見合う『特別な価値』があるということだろうか」
周囲の社員たちが、何事かと息を呑む気配がした。塔子が心配そうに俺の袖を軽く引く。
俺は表情を変えず、淡々と答えた。
「私は与えられた契約の範囲内で、会社が円滑に回るよう環境を維持しているだけです。その価値をどう判断するかは、経営陣の皆様の領域かと存じます」
「環境の維持、か」
九条の口元が、わずかに歪んだ。
「なるほど。だが、目に見えない不透明なコストは、徹底的に洗い直す必要がある。……君の業務の実態について、今後、詳細なヒアリングを行わせていただく。その時は、よろしく頼むよ」
九条はそれだけ言い残し、再びフロアの奥へと歩き去っていった。
張り詰めていた空気が緩み、塔子が「はぁっ」と大きなため息をついた。
「びっくりしました……。あんな風に直接嫌味を言われるなんて。中川さん、大丈夫ですか?」
「気にする必要はありませんよ。あれは、ただの牽制です」
俺は椅子に座り直し、九条の後ろ姿を見送った。
単なるコストカットの査定ではない。俺の身辺を洗い出し、組織にとって都合の良い口実で俺を排除するための調査だ。
★★★★★★★★★★★
午後6時。
俺は誰よりも早くタイムカードを切ってオフィスを後にした。
6月の生ぬるい風が、ネクタイを緩めた首元をすり抜けていく。
会社の上層部に不穏な空気が渦巻こうとも、俺のプライベートな時間を奪う権利は誰にもない。
馴染みの輸入食材店とリカーショップに立ち寄り、俺は足早にアパートへと帰還した。
ドアを開けると、玄関は静まり返っていた。
靴を脱いでリビングに入ると、クロはキャットタワーではなく、俺が脱ぎ捨てておいたシャツの上で丸くなっていた。
俺の足音に気付くと、クロは大きなあくびをしてからゆっくりと立ち上がり、前足をグーッと前に出して背中を反らせる。それから、のっそりとした足取りで近づいてきて、俺のふくらはぎにドンと寄りかかり、全体重を預けてきた。
「ただいま、クロ。今日は少し、面倒な相手に目をつけられてな」
俺が頭を撫でてやると、クロは目を細めて喉をゴロゴロと鳴らした。
その温かい感触に触れ、張り詰めていた神経が少しずつ解けていくのを感じる。
スーツを脱ぎ捨て、ラフな部屋着に着替える。
今夜は、理不尽な探りを入れてきたお偉いさんのことなど忘れて、自分自身を極限まで労わるための晩酌と決めていた。
キッチンに立ち、まずはスターターの準備に取り掛かる。
完熟のトマトを湯むきして種を取り除き、細かなダイス状にカットする。紫玉ねぎはみじん切りにして水にさらし、辛味を抜く。フレッシュなハラペーニョは種を抜いて微塵切りにし、パクチーも細かく刻む。
これらをボウルで合わせ、搾りたてのライム果汁と天然塩だけで味を調える。自家製のサルサソースだ。
大きなガラスのボウルに、トウモロコシの香りが豊かなトルティーヤチップスをたっぷりと盛り付け、サルサソースを添える。
冷蔵庫からよく冷えたピルスナータイプのビールを取り出し、薄張りのグラスに勢いよく注ぎ込んだ。黄金色の液体の上に、きめ細かい純白の泡がふわりと乗る。
ダイニングテーブルに座り、まずはビールを喉に流し込む。
キレのある苦味と炭酸が食道を通って胃に落ち、一日の疲労を洗い流していく。
チップスにサルサソースをたっぷりと乗せてかじる。ザクッとした香ばしい食感に続き、トマトの酸味とハラペーニョのピリッとした刺激が口の中で弾けた。そこにビールを合わせれば、無限に繰り返せる快楽のループが完成する。
第一陣の渇きが癒えたところで、俺は本番の準備に移った。
木製のカッティングボードの上に、熟成されたイベリコ豚の粗挽きサラミを薄くスライスして並べる。さらに、肉厚で艶やかなブラックオリーヴと、種抜きのグリーンオリーヴを小鉢に盛った。
これに合わせるのは、フランス・ボルドー産の重厚な赤ワインだ。
カベルネ・ソーヴィニヨン主体の、深く濃いルビー色の液体をグラスに注ぐ。カシスやブラックベリーのような果実の香りに、微かに樽由来のバニラとスパイスのニュアンスが混じり合っている。
サラミを一枚つまみ、噛み締める。
体温で脂が溶け出し、凝縮された肉の旨味が口いっぱいに広がる。
そこにボルドーの赤を口に含む。ワインの持つ力強いタンニンが口内に残る脂の膜を心地よく拭い去り、代わりに黒系の果実の香りと樽のニュアンスを深く刻み込んでいく。重厚な味わいが、冷えた体にじわじわと熱をもたらす。
『ミャーウ』
足元で、クロがサラミの匂いに反応して俺の膝に前足をかけてきた。
「お前にはこっちだ」
俺はクロ用の小皿に、無添加のフリーズドライささみをほぐしてやった。クロはすぐにそれに夢中になり、カリカリと良い音を立てて食べ始める。
赤ワインを半分ほど楽しんだ後は、気分を変える。
次に冷蔵庫から取り出したのは、イタリアのエミリア・ロマーニャ州で作られる微発泡の甘口赤ワイン――ランブルスコ・アマービレだ。
グラスに注ぐと、鮮やかなルビー色の中に、シュワシュワと細かい赤い泡が弾ける。
口に含むと、チェリーのようなフレッシュな果実の甘みと微炭酸の爽やかさが、重くなった口内を軽快にリフレッシュさせてくれる。
「……さて。締めといくか」
夜が更け、部屋の中が静寂に包まれた頃。
俺は戸棚の奥から、ニッカのモルトウイスキー、『余市』を取り出した。
重厚なロックグラスに大きくて透明な丸氷を一つ落とし、琥珀色の液体を静かに注ぐ。カラン、と氷が鳴る音が、静かな部屋に響いた。
グラスを鼻に近づけると、北の海風を思わせる力強いピート香と、オーク樽の甘く豊かな香りが立ち上る。
口に含むと、スモーキーな力強さの中に麦芽のふくよかな甘みとコクが広がり、長く深い余韻となって喉の奥へと落ちていった。
俺はグラスの氷をカランと鳴らし、琥珀色の液体越しに、窓の外の暗闇を静かに見つめた。
グラスについた冷たい水滴が、ゆっくりとコースターに滑り落ちていった。




