第50話 明日も定時で帰ります
5月の下旬。
吹き抜ける風にはすでに初夏の瑞々しい青葉の匂いが混じり始め、窓から差し込む朝の光は、部屋の隅々まで柔らかく、そして明るく照らし出している。
アパートのリビングで出勤の準備を整えていた俺は、ふと手を止めて足元を見下ろした。
革靴を履こうとしたのだが、右足用の靴の中に、見慣れない異物がすっぽりと収まっていたからだ。
俺が手を伸ばしてそれを摘み出すと、それは麻紐で編まれた小さなネズミのおもちゃだった。
「……おい、クロ」
俺が声をかけると、下駄箱の横にちょこんと座っていた黒い影が、短く『ミャ』と鳴いた。
我が家の同居人である黒猫のクロだ。
この春先から、どういうわけか俺が出かけようとする直前に、ちょっとした悪戯を仕掛けて気を引こうとする一面を見せるようになっていた。
靴の中におもちゃを隠すのは序の口で、俺が脱ぎ捨てた部屋着の上にドカッと香箱を組んで退こうとしなかったり、ネクタイの先を前足で器用にちょいちょいと引っ張って結ぶのを邪魔したりする。
「これを靴の中に入れておけば、俺が出かけられないとでも思ったか」
俺がネズミのおもちゃを揺らして見せると、クロは金色の瞳を丸くし、短いしっぽの先をパタパタと小刻みに振った。
俺は靴を履くのを一旦やめ、床にしゃがみ込んでクロの顎の下を優しく指先で掻いてやった。
細くしなやかな毛並みが指の間をすり抜ける。クロは目を細め、心地よさそうに喉の奥を微かに震わせた。その温かい振動が、俺の手のひらから伝わってくる。
「……帰ったら、今日はとびきり美味い飯を作ってやるからな。それまで大人しく留守番してろ」
俺がそう告げて立ち上がると、クロは短い鳴き声を一つ残して、リビングの窓際に設置されたキャットタワーへと軽い身のこなしで飛び乗っていった。
俺はネズミのおもちゃを棚の上に置き、しっかりと靴紐を締めて、爽やかな初夏の空気が広がる外の世界へと足を踏み出した。
★★★★★★★★★★★
午前8時45分。
丸の内のオフィス街は、初夏の眩しい陽光に包まれていた。
重厚なガラス扉を抜け、丸の内商事の本社ビルに足を踏み入れる。
かつてこのビル全体を覆い尽くし、外界から隔離していたあの忌まわしい泥流と呪いの名残は、もはやどこにもない。
1階のエントランスホールでは、受付カウンターの中でソフィア・イェゲルが来客の対応にあたっていた。
「おはようございます。株式会社〇〇の皆様ですね。お待ちしておりました。どうぞこちらの入館証をお持ちください」
流暢な日本語と、洗練された所作。彼女の周囲には清浄な自然の加護が満ちており、訪れる客たちの顔には自然と笑みがこぼれている。以前のような、不審な影や淀んだ空気を纏った者が入り込む余地は全くない。
俺が軽く会釈をして通り過ぎようとすると、彼女は来客から見えない角度でパチンとウインクを飛ばしてきた。相変わらずの調子だ。
エレベーターで8階に上がり、総務部フロアに足を踏み入れる。
「はい、そのレイアウト変更の件は、明日の午後一番で業者と打ち合わせが入っています。図面の最終確認をお願いします」
隣のデスクから、凛とした明るい声が聞こえてきた。
総務部の主任へと昇進した竹内塔子だ。
彼女のデスクの上には相変わらず決裁を待つ書類の山ができているが、その仕分けの手つきには迷いがなく、以前のようにトラブルに直面してパニックを起こし、半泣きになるような姿はもう見られない。
「おはようございます、竹内さん。朝からフル回転ですね」
「あ、おはようございます中川さん! はいっ、各部署からのレイアウト変更の要望が重なっちゃって。でも、すごくやりがいがありますよ」
塔子は柔らかく微笑み、再び手元の書類へと視線を戻した。
俺は自席のPCを立ち上げ、各部署から送られてくる備品補充の請求データを黙々と処理していく。
赤ボールペンの異常な消費も、コピー用紙の無駄遣いもない。適正な量の消費と、適正な補充。非正規の身として契約された業務範囲を、ただ正確にこなしていく。
そこには、怪異と戦うような劇的な展開もなければ、命をすり減らすような絶望もない。ただ、退屈で、平和で、そして何より尊い『普通の仕事』が存在している。
午前11時。
「お疲れ様。これ、各フロアの掲示板と給湯室に貼っておいてちょうだいね。来月の社内報の特大ポスターだから」
広報部の小野みゆきが、丸めたポスターを数本抱えて俺のデスクにやってきた。
今日の彼女は、鮮やかなエメラルドグリーンのタイトスカートに白いブラウスという出立ちで、相変わらずその圧倒的なオーラでフロアを明るくしている。
「了解しました。……随分と気合が入ったポスターですね」
「当然よ。この春から新しく立ち上がったプロジェクトの特集なんだから。広報の命運がかかってるの。絶対に目立つところに貼ってよね」
みゆきは自信に満ちた笑みを浮かべ、颯爽と自分のフロアへと戻っていった。
午後1時30分。
フロアの入り口から、聞き慣れた軽快な足音が近づいてきた。
「お疲れ様ですー! 午後の社内便、お届けに上がりました!」
台車を押して現れたのは、松田透子だ。
この春、過酷な受験戦争を見事に突破し、晴れて第一志望の大学へと進学した彼女は、少しだけ大人びたベージュのカーディガンを羽織っていた。大学の講義の合間を縫って、今まで通り郵便室のアルバイトを続けているのだ。
「お疲れ。大学の授業はいいのか」
俺が受け取った封筒を分類しながら尋ねると、透子はニシシと笑った。
「今日は午後が全休なんです! だから早めにシフトに入りました。それより中川さん、聞いてくださいよ。大学の学食、すっごく安くて美味しいんですけど、量が全然足りなくて! 毎日お弁当二つ追加で買ってるんです!」
「お前のその異常な燃費の悪さは、大学生になっても健在らしいな」
「成長期ですから! あ、そうだ。次の休みに、大学の合格祝いで約束してた『特上カルビ食べ放題』、絶対連れて行ってくださいね! 予約しといてくださいよ!」
透子は念を押すように俺のデスクを軽く叩き、元気よく次の部署へと台車を押していった。
午後3時。
俺のスマートフォンがブルッと短く震えた。
地下のサーバー室にいる石田繭子からのチャットだ。
『……システムログ、全項目オールグリーン。ネットワークのトラフィックも極めて正常。……私のジョセフィーヌは、今日もご機嫌』
『それは何よりだ。そっちの備品で足りないものはないか』
俺が返信すると、すぐにメッセージが返ってきた。
『……カカオ70パーセント以上のビターチョコレート。あと、炭酸水。……糖分と刺激が切れた。後でドアの前に置いておいて』
『了解した』
相変わらずの引きこもりぶりだが、彼女が監視するデジタル結界が安定している証拠だ。
午後4時30分。
俺は、フロアの隅にある給湯室で、一人静かに湯を沸かしていた。
手元にあるのは、社内カフェのアリーナから「試作品の余りだから」と理由をつけて分けてもらった、中煎りのコロンビア産コーヒー豆だ。
ペーパーフィルターをセットしたドリッパーに挽きたての粉を入れ、細口のケトルから少しずつ、円を描くように慎重にお湯を落とす。
香ばしい香りが、狭い給湯室の空気を満たしていく。
「……あ、やっぱり中川さんでしたか。すっごくいい匂いがフロアまで漂ってきましたよ」
背後でドアが開き、マイカップを手にした塔子が顔を出した。
「ちょうど一区切りついたので、少し休もうかと思いまして。……竹内さんも、一杯いかがですか」
「いいんですか? 嬉しいです。最近、色々任される仕事が増えて、少し頭が回らなくなってきてたところなんです」
塔子は少し疲れたように微笑みながら、カップを差し出した。俺はサーバーのコーヒーを彼女のカップに注ぐ。
「ありがとうございます。……美味しい」
塔子はコーヒーを一口飲み、ホゥッと幸せそうな息を吐いた。
「……最近、本当に平和ですね」
塔子がカップを両手で包み込みながら、静かに呟いた。
「ええ。備品の異常な消耗もありませんし、フロアの空気も澄んでいます」
「この前の春のレイアウト変更も、大きなトラブルなく終わりましたし。……なんだか、あの地下での出来事が、ずっと昔の夢だったみたいに思える時があるんです」
「夢ではありませんよ。あなたが自らの足で立ち、責任を持ってこのフロアの環境を整え続けているからこそ、この平和が維持されているんです」
俺がそう言うと、塔子は少しだけ目を丸くし、それから照れくさそうに俯いた。
「……中川さんにそう言ってもらえると、なんだかすごく自信になります。……これからも、私、頑張りますから」
「ええ。期待していますよ、竹内主任」
俺たちは静かに笑い合い、残りのコーヒーを飲み干した。
★★★★★★★★★★★
午後5時30分。
フロアの壁に設置されたスピーカーから、終業を告げる電子チャイムが鳴り響いた。
俺は迷うことなくPCをシャットダウンし、デスクの引き出しを閉めた。
立ち上がり、ジャケットを羽織る。
「お疲れ様でした、中川さん」
隣の席から、塔子がにっこりと笑って声をかけてきた。彼女のデスクにはまだ少し書類が残っているが、その表情には充実感が溢れている。
「お疲れ様です、竹内さん。無理はしないように」
「はい! 明日もよろしくお願いします!」
俺はタイムカードを切り、エレベーターで1階へと降りた。
自動ドアを抜けて外に出ると、初夏の夕暮れはまだ日が長く、西の空がオレンジ色から薄い紫色へと美しいグラデーションを描いていた。
風が心地よく吹き抜ける。
俺は深く息を吸い込み、駅へと向かう大通りを歩き出した。
駅前のスーパーに立ち寄り、夕食の買い出しをする。今日は新鮮なカツオが手に入った。ニンニクと生姜をたっぷりと効かせたタタキにしよう。クロには、無添加のササミを少しだけお裾分けしてやるつもりだ。
自分の手の届く範囲で、自分に課せられた契約の分だけを正確にこなし、そして帰るべき場所へ帰る。
アパートのドアを開ければ、あの小さな黒い家族が、玄関まで出迎えてくれるはずだ。
一緒に過ごす静かな夜の時間を想像し、俺は自然と足取りを速めながら、初夏の柔らかな風の中に身を委ねた。




