第58話 サーバー室の姫、クラウドの悪魔と戦う
9月上旬。
厳しい残暑の中に、ふとした瞬間に秋の涼やかな風が混じるようになった週末の午後。
俺は、銀座のメインストリートから一本路地に入った場所にある、落ち着いた雰囲気のティーサロンにいた。
アンティークの調度品に囲まれた店内には、静かにクラシックが流れ、平日のオフィス街の喧騒とは無縁の時間が流れている。
「……んんっ、美味しいです! このモンブラン、栗の味がすごく濃厚なのに、甘すぎなくて絶妙ですね」
テーブルの向かい側で、総務部の竹内塔子が、フォークの先に乗せたケーキを口に運びながら花が咲いたような笑顔を見せた。
今日の彼女は、オフィスの制服やカッチリとしたスーツではなく、秋らしいマスタードイエローのカーディガンに、柔らかな素材のプリーツスカートという私服姿だ。少し巻かれた髪が、動くたびにふわりと揺れる。
「それは良かった。予約が取りにくい店だと聞いていましたが、苦労した甲斐がありました」
俺は自分のカップに入ったダージリンティーを一口飲み、その香りの良さにわずかに息を吐いた。
「中川さんって、こういうお洒落なお店にも詳しいんですね。てっきり、休日はお家でクロちゃんと一緒に、ずっとゴロゴロしているのかと思ってました」
「否定はしません。ただ、たまには外の空気を吸わないと、本当に社会から切り離されそうになるので。それに、竹内さんにはいつも無茶な伝票処理で迷惑をかけていますから」
俺がそう答えると、塔子はわずかに目を伏せ、カップの縁を指でなぞった。
「迷惑だなんて、一度も思ったことありません。……むしろ、中川さんがいてくれなかったら、私、とっくに心が折れていたと思います。九条取締役がいらっしゃってから、会社の空気が……なんていうか、すごく冷たくて、重いんです」
彼女の直感は正しい。
九条が社内に張り巡らせている探知の術式は、霊感のない一般の社員にも、無意識下のストレスとして確実に負荷をかけている。
「……あまり一人で抱え込まないでください。総務の仕事は大切ですが、自分の健康を削ってまで会社に尽くす義務はありませんよ」
「はい。……ありがとうございます」
塔子が顔を上げ、柔らかく、けれど芯の強い光を宿した瞳でこちらを見つめてきた。
その真っ直ぐな視線を受け止めようと、俺も姿勢を正す。ちょうどその時、俺のジャケットの内ポケットにあるスマートフォンが短い振動を繰り返した。
表の連絡網ではなく、限られた人間しか知らない裏回線の通知。
「失礼」
断って画面を開くと、社内SEの石田繭子からのチャットだった。文字の羅列から、彼女の切羽詰まった様子が伝わってくる。
『……緊急。クラウドストレージ。……同期ポートから不正パケット大量侵入。……先週より狡猾。……でも、データの核が同じ。……あの監査の主の息がかかってる。間違いない』
『……ジョセフィーヌとナポレオン。こいつらが落ちたら、会社の全データ、消える。……防壁が突破されそう。このままだと、物理サーバーが焼き切れる。……助けて』
俺は即座に画面を閉じ、カップをソーサーに置いた。
「申し訳ありません、竹内さん。システムトラブルで、至急オフィスに向かわなければならなくなりました」
「えっ? 今日は休日ですよ……? それに、中川さんは備品管理のはずじゃ……」
「大掛かりな配線の引き直しが必要になるかもしれないそうです。……本当に申し訳ない。ケーキのお代は置いていきますから、ゆっくりしていってください」
俺が立ち上がると、塔子も慌てて席を立った。
「わ、私も行きます! 総務の責任者として、トラブルを見過ごすわけにはいきません!」
「ダメです」
俺は声を落とし、彼女の目を真っ直ぐに見据えた。
「これは、俺の仕事です。竹内さんは、ここでしっかりと休んで、月曜日からの激務に備えてください。それが、上司としての立派な仕事ですよ」
俺の静かな言葉に、塔子は一瞬口ごもり、やがて小さく頷いた。
「……わかりました。気をつけてくださいね。何かあったら、すぐに連絡してください」
「ええ。行ってきます」
俺はティーサロンを後にし、足早に丸の内行きの地下鉄が通る駅へと向かった。
★★★★★★★★★★★
丸の内商事本社ビル、地下2階。
厳重なセキュリティゲートを抜け、分厚い防音扉を開けると、そこは巨大な冷却ファンの轟音が鳴り響く、無機質なサーバー室だ。
だが、今日の室温は異常だった。
肌を刺すような熱気が充満し、空気そのものが微かに赤黒く淀んでいる。
「石田、状況は!」
部屋の最奥。何台もの巨大な曲面モニターに囲まれたコンソールデスクで、繭子が凄まじい速度でキーボードを叩いていた。パーカーのフードを目深に被り、ブルーライトカット眼鏡の奥の瞳は血走っている。
「……来たわね。……見て、これ」
繭子が顎でしゃくったメインモニターには、無数のエラーログと共に、真っ赤な警告表示が点滅していた。
「……クラウド経由。外部のデータセンターから、仮想ネットワークのトンネル。直接うちのジョセフィーヌにアクセス」
繭子の指が休むことなく踊る。彼女はサイバー空間で、侵入しようとする悪意のプログラムに対して、リアルタイムで防壁を構築し、書き換えているのだ。
「……シグネチャ解析完了。……再帰処理ループ、脆弱性あり。……呪文を組んだせいで、例外処理の記述、ガバガバ。……サイバー空間の入り口は私が塞ぐ。でも……!」
「物理的な発熱と、呪力の逆流までは止められない、か」
俺は部屋の中央に鎮座する巨大なサーバーラック――繭子がジョセフィーヌと呼ぶ中枢機器を見上げた。
排気口からは、触れれば火傷しそうなほどの熱風が吹き出し、金属の筐体が異常な振動を起こしている。霊視を通せば、ラック全体に赤黒い大蛇のような瘴気が絡みつき、今にも内部の基盤を焼きショートさせようと締め上げているのが見えた。
「回線を物理的に遮断することは可能か?」
「……ダメ。……今切断したら、データが中途半端に呪詛に書き換えられる。システム、完全に死ぬ。……繋いだまま、押し返す」
「分かった。ハード側は俺が引き受ける」
俺はスーツの内ポケットから、青色と黄色の付箋を取り出した。
「システムには触れない。外殻から熱と呪力だけを抜く。お前のタイミングで、一気に防壁を押し上げろ」
「……了解。……5秒後に行く。5、4……」
繭子のカウントダウンに合わせ、俺はサーバーラックの四隅に青と黄色の付箋を滑り込ませた。
「3、2……」
「――水剋火。熱を奪い、土で塞げ」
俺は両手を筐体の金属部分に直接押し当て、丹田から引き上げた霊力を、付箋を起点にして一気に流し込んだ。
「1、0! ……リビルド!!」
繭子がエンターキーを激しく叩き込んだ瞬間。
俺の放った青白い浄化の霊力が、サーバーを締め上げていた赤黒い大蛇の瘴気を真正面から打ち据えた。
『ギシャァァァァッ……!!』
耳障りなノイズのような悲鳴が、霊的な次元で響き渡る。
水行の冷気が異常な発熱を急速に冷却し、土行の結界が外部からの呪力の流入を物理的にシャットアウトする。
「……出力最大。……はじき出せッ!」
繭子の叫びと共に、モニターを埋め尽くしていた赤い警告表示が、次々と緑色の『SAFE』へと書き換わっていく。
サイバー空間での繭子の防壁構築と、現実空間での俺の霊的冷却が完全にシンクロし、クラウドの彼方から迫っていた呪詛を、完璧にネットワークの外へと弾き飛ばした。
プシュー……。
排気口から最後に抜け出た熱い空気が天井へと昇り、ファンの異常な回転音が、いつもの静かで規則正しい駆動音へと落ち着いていく。
室内に立ち込めていた赤黒い淀みも、完全に消え去っていた。
「……終わったか」
俺が付箋を回収し、額の汗を拭うと、コンソールデスクの椅子に深く沈み込んだ繭子が、限界を迎えたように目を閉じた。
「……撃退完了。……侵入経路のIP、海外経由で偽装。……でも、コードの癖がこの間の監査と同じ。……本職。間違いない」
「やはり、九条の息がかかった外部の連中か。……会社の外からも揺さぶりをかけてくるとは、随分と焦っているようだな」
俺は近くの冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し、繭子の頬に冷たいペットボトルを軽く当てた。
「冷たっ……」
「よく持ちこたえた。見事な防衛戦だった」
俺がペットボトルを渡すと、繭子はわずかに口角を上げ、両手でそれを受け取った。
「……当然。私のサーバー。あんな汚いコードで汚させない。……でも、中川さんがいなかったら物理的に燃えてた。……助かった」
「気にするな。休日出勤の特別手当は、週明けにきっちり総務部長の決裁をもらうからな。会社を守るのも、俺の契約の範囲内だ」
「……ふふっ。相変わらず、可愛げのない男」
繭子はスポーツドリンクを口に含み、モニターの正常な緑色の光を満足そうに見つめた。
俺もネクタイを少し緩め、薄暗い部屋の中で肩の力を抜く。
スマートフォンの画面を点灯させると、塔子からのメッセージが一件届いていた。
『今日はありがとうございました。ケーキ、すごく美味しかったです。お仕事、無事に終わることを祈ってます。また今度、続きに行きましょうね』
画面越しの彼女の気遣いに、張り詰めていた神経が和らぐのを感じる。
「さて、帰るか。家でクロが夕飯を待っている」
「……お疲れ様。私も、寝る」
俺はサーバー室の重い扉を開け、薄暗い廊下から地上へと続くエレベーターのボタンを押した。
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