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第47話 宴のあと

 冬の透き通るような青空が広がる、平日の午後一時。

 俺は、丸の内の喧騒から少し離れた、清澄白河の静かな通りを一人歩いていた。


 かつて木材倉庫や町工場が立ち並んでいたこのエリアは、今や個性的なカフェや雑貨店が点在する落ち着いた街並みへと姿を変えている。冷たいビル風が吹き荒れる殺伐としたオフィス街とは違い、すれ違う人々の歩調もどこかゆったりとしており、穏やかな時間が流れていた。

 ウールコートの襟を立て、吐く息が白く濁るのを見つめる。肺に吸い込む空気はただ冷たく乾燥しているだけで、あの地下最下層に充満していたヘドロとカビの腐敗臭は一切混じっていない。純粋な冬の空気だ。


 今頃、丸の内商事の8階フロアは、いつも通りの慌ただしい日常を取り戻していることだろう。

 鳴り止まない電話のコール音、修復された最新型複合機の規則正しい稼働音、そして決裁書類を抱えてフロアを小走りで駆け回る塔子の足音。地下の魔宮化という未曾有のパンデミックを乗り越えた社員たちは、その恐怖の記憶を「原因不明の大規模システム障害とガス漏れ騒ぎ」として曖昧に脳内で処理し、再び日々の業務という現実に向き合っているはずだ。

 だが、その忙しない日常の風景の中に、俺の姿はない。

 あの激闘の末に新庄社長から勝ち取った特例雇用契約に基づき、俺は長らく無縁だった長期休暇を、堂々と消化している真っ最中だからだ。


「……平和なものだ」


 ポケットに両手を突っ込みながら、俺は目的地である一軒のカフェの前に立ち止まった。

 古い木材倉庫の骨組みをそのまま生かしてリノベーションされた、天井の高いサードウェーブ系のロースタリーカフェだ。

 重厚なガラスとアイアンの扉を押し開けて中に入ると、心地よい暖房の熱気と共に、焙煎されたばかりのコーヒー豆の豊潤で香ばしい香りが全身を包み込んだ。


 広々とした店内の奥、巨大な焙煎機が鎮座するカウンター席に、見慣れたプラチナブロンドの髪を見つけた。

 社内カフェのバリスタ、アリーナ・ヴィルカスだ。

 彼女はスマートフォンを見つめているわけではなく、カウンターの内側にいる顔馴染みらしいバリスタと、豆の産地か抽出温度の話でもしているのか、身振り手振りを交えて熱心に言葉を交わしていた。

 今日の彼女は、いつもの黒いエプロン姿ではない。ざっくりとした編み目のオフホワイトのタートルネックセーターに、キャメル色のオーバーサイズのチェスターコートをゆったりと羽織っている。足元はダークブラウンのショートブーツだ。冷たい印象を与えがちな彼女の鋭い美貌が、冬の柔らかな装いによって少しだけマイルドに中和され、洗練された大人の休日といった雰囲気を醸し出していた。


 俺が近づいていく足音に気づいたのか、アリーナは会話を止め、こちらを振り返った。


「Hey, Mate! こっちよ。待ち合わせの10分前よ? 珍しいじゃない」


 彼女は片手を軽く挙げて、隣の空いているスツールを指し示した。


「天気が良かったんでな。少し歩こうと思って早く家を出たんだ。それに、お前の淹れる本物のコーヒーとやらを、少しでも早く味わってみたかっただけだ」

 

 俺はスツールに腰掛け、コートのボタンを外しながら答えた。


「ふふっ、素直じゃないわね。でも、期待値が高いのはいいことだわ」


 アリーナは悪戯っぽく笑い、バリスタに向かって人差し指を立てた。


「マスター、彼にも同じものを。エチオピアのイルガチェフェ、浅煎りのハンドドリップで」

「かしこまりました」


 今日は、彼女から「本物のコーヒーの味を教えてあげる」と呼び出されてここに来ている。

 異界化事件が完全に収束した後、俺がしばらく会社を休むと知った彼女が、自分のシフトの休みに合わせて強引に予定を組んできたのだ。


 ほどなくして、薄いガラスのサーバーと、ワイングラスのように口がすぼまり香りを溜め込む形状のカップが、俺たちの目の前に運ばれてきた。琥珀色の透き通った液体から、繊細な湯気が立ち上っている。


「まずは香りを嗅いでみて。……あのジメジメした地下の空気とは、無縁の香りだから」


 俺はカップを手に取り、鼻を近づけた。

 コーヒー特有の重苦しい苦い香りよりも先に、熟したベリーやストロベリーを思わせる甘く華やかな香りが鼻腔をくすぐる。

 一口含む。

 熱い液体が舌の上を転がると、心地よい果実のような酸味が口いっぱいに広がり、苦味は驚くほど少ない。まるで上質なフルーツティーを丁寧に抽出したかのようなクリアな口当たりで、喉の奥へと落ちた後には、ほんのりとカカオのような甘い余韻が残った。


「……美味いな。コーヒーの概念が変わる味だ」

「Excellent! 苦味だけで誤魔化す安物の豆とは違うのよ。豆が本来持っている果実味を最大限に引き出すのが、浅煎りのハンドドリップの醍醐味なの」


 アリーナは満足そうに目を細め、自分のカップを優雅に傾けた。


 洗練されたコーヒーの香りに包まれていると、先週まで命懸けで大穴の怨霊を薙ぎ払っていた日々が、遠い別の世界の出来事のように思えてくる。


「……それにしても、あんたがいないオフィス、今頃ちょっとしたパニックになってるわよ」


 不意に、アリーナがカップをソーサーに置きながらクスッと笑い声を漏らした。


「パニック? 怨霊の残党でも出たか?」

「No, no. そっちのオカルトな話じゃないわ。……あんたという『便利すぎる備品管理』が急にいなくなったせいで、みんなの業務が回ってないのよ」


 アリーナは面白そうに肩を揺らす。


「総務の塔子さんなんて、『中川さんがいないと、誰に書類の抜け漏れを指摘してもらえばいいんですか!』って、朝から泣きそうな顔でフロアを走り回ってたわ。広報のみゆきさんも、『私の荷物持ちが長期休暇なんて生意気ね!』ってプリプリ怒ってたし」

「……」

「極めつけは透子よ。あの子、『中川さんの手作りご飯が食べられないと、栄養失調で倒れちゃいますぅ!』って、郵便室のカートを押しながら亡霊みたいにフラフラしてたわよ。……おかげで、私のカフェのフラペチーノの売上が少し上がったけどね」


 俺は深くため息をついた。


「俺はあいつらのベビーシッターじゃない。新しい契約に見合った働きは、あの地下できっちり果たした。休みの間は会社のことなど一切考えたくないんだ」


「ふふっ、本当にドライな男ね。でも、そういうブレないところが、あんたらしいわ」


 アリーナは頬杖をつき、長い睫毛に縁取られたアイスブルーの瞳で俺をじっと見つめた。

 普段の彼女の刺すような鋭さは鳴りを潜め、どこか穏やかで、柔らかな光が宿っている。


「……ラテアートの占いは、どうだったんだ。俺が地下へ降りた後、何か不吉なものは出たか?」


 俺が尋ねると、アリーナはゆっくりと首を横に振った。


「Nothing. 全然出なかったわよ。というか、あれ以来、私のラテアートはただの『リーフ』や『ハート』ばかりで、ドクロも蜘蛛もサッパリ。占いの腕が鈍ったのかしらね。平和すぎてちょっと退屈なくらいよ」

「それは良かった。不吉な占い師よりも、腕の良いバリスタの方が、お前には似合っている」

「あら、言うじゃない」


 俺たちは静かに微笑み合い、残りのコーヒーを味わった。

 店内のBGMが、アップテンポなジャズから、落ち着いたボサノバへと変わる。

 窓の外の通りは、いつの間にか冬の短い夕暮れを迎え、オレンジ色の西日がレンガ造りの建物を赤く染め上げていた。


「……さて。極上のコーヒーも飲んだし、そろそろ河岸を変えましょうか」


 アリーナがスマートに伝票を手に取り、スツールから立ち上がった。


「河岸を変える?」

「ディナーよ。たっぷり休みを満喫しているセレブな男なら、美味しいワインと食事くらい付き合ってくれるでしょ? もちろん、お店は私がセレクトしてあげる」


 彼女は振り返り、チェスターコートのポケットに手を入れたまま、挑戦的な笑みを浮かべた。


「俺は自炊派なんだがな……。まあいい、付き合おう。その代わり、店選びのハードルは高いぞ」

「No worries! 私の舌を満足させる隠れ家的なビストロが、この近くにあるの。オーストラリア産の極上のラム肉を焼いてくれるわ」


 俺たちはカフェを出て、冷たい夕風が吹き抜ける清澄白河の川沿いを並んで歩き始めた。


 アリーナの案内で辿り着いたのは、路地裏にひっそりと佇む、看板もない小さなフレンチビストロだった。

 薄暗い店内は、木とレンガの温かみのある内装で統一され、各テーブルにはキャンドルの火が揺れている。

 奥のテーブル席に案内されると、アリーナは迷うことなく、重口のシラーズのボトルと、ラム肉のロースト、そして季節の温野菜のテリーヌを注文した。


「乾杯。……無事に日常を取り戻せたことに」


 アリーナがワイングラスを持ち上げる。


「ああ。平穏な日々に」


 俺はグラスを合わせ、深く赤紫色に輝くワインを口に含んだ。

 濃厚なダークチェリーやプラムのような果実味に、シラーズ特有の黒胡椒のようなスパイシーな香りが鼻腔を抜ける。冷えた体が、アルコールとスパイスの力で芯から温められていく。


「……このワイン、しっかりとした骨格があって美味しいですね」

「でしょ? ラム肉の野性味には、これくらいパンチのあるワインじゃないと負けちゃうのよ」


 やがて運ばれてきたラム肉のローストは、完璧なミディアムレアに仕上げられていた。

 外側は香ばしくカリッと焼かれ、内側は美しいロゼ色に輝いている。ローズマリーとニンニクの香りが、食欲を強烈に刺激する。


 ナイフを入れると、驚くほど柔らかく肉が切断された。

 一口噛み締めると、ラム肉特有の力強い旨味と、癖のない上質な脂の甘みが口いっぱいに広がる。そこにシラーズの赤ワインを流し込むと、ベリー系の果実味と黒胡椒のようなスパイシーな香りがラムの野性味をがっちりと受け止め、飲み込んだ後も口の中に心地よい熱と複雑な風味が長く留まっていた。


「……美味い。文句のつけようがない」

「ふふっ、自炊派の陰陽師さんを唸らせたなら、私の店選びも大成功ね」


 アリーナは満足そうに微笑み、ラム肉を口に運んだ。

 静かなビストロの空間で、美味しい食事とワインを楽しみながら、俺たちは他愛もない会話を交わした。

 コーヒーの焙煎技術の違い、オーストラリアの気候、そして、いつか彼女が自分の店を持つという夢の話。

 そこには、怨霊の影も、理不尽な労働環境のストレスもない。ただ、一人の大人の女性と過ごす、豊かで穏やかな時間だけが存在していた。


「……ねえ、中川さん」


 ワインボトルが空になりかけた頃、アリーナがふと、グラスを見つめたまま静かに口を開いた。


「休みが終わったら……ちゃんと、丸の内に戻ってくるわよね?」


 彼女の言葉には、いつもの強気な態度の裏に隠された、ほんのわずかな不安が滲んでいた。

 俺がこのまま、莫大な報酬を手にして会社から姿を消してしまうのではないか。そんな懸念を抱いているのだろう。


「当然だ。俺の契約はまだ続いているし、何より……」


 俺は残りのワインを飲み干し、静かに微笑んだ。


「あの騒がしい連中を放っておいたら、またどんなトラブルを引き寄せるかわからないからな。俺の平穏な日常を守るためには、俺自身が目を光らせておくしかない」


 俺の答えを聞いて、アリーナはパッと顔を輝かせ、それから安心したように深く息を吐いた。


「……Haha! そう。なら、いいわ。休み明けの朝には、特別に目を覚ます最高のエスプレッソを淹れて待っててあげる」

「期待しているよ」


 ビストロを出ると、冬の夜の冷たい風が街路樹を揺らしていた。

 コートの襟を合わせながら歩き出す。

 腹の中には温かいラム肉と赤ワインの熱が残り、隣を歩くアリーナのブーツの音が、静かな裏通りにリズミカルに響いていた。


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