第46話 崩壊するビル、脱出
すべての元凶であったブラック企業という概念が俺の剣によって両断され、光の粒子となって社長室の隅々まで散華した直後だった。
ズゴゴゴゴゴォォォ……ッ!
足元の床が、唐突に激しい地鳴りを上げて大きく波打った。
「きゃあっ!」
塔子がバランスを崩してよろめき、透子がたまらずその場にしゃがみ込んで頭を抱える。みゆきや杏子たちも、壁や柱に手をついて必死に体勢を維持していた。
「中川さん! これ、地震ですか!?」
塔子が蒼白な顔で叫ぶ。
「違います。空間の反発作用です」
俺は床に手を当て、そこから伝わってくる不規則で暴力的な震動を読み取った。
五十年分の呪いと怨念が消失したことで、これまでこのビルを異界として成り立たせていた強大な霊的な圧力のバランスが一気に崩壊しているのだ。限界まで膨れ上がっていた風船が弾け、周囲の空気が一気に中心に向かって収縮するような現象。それが、現実の物理的なビルの構造に凄まじい負荷をかけている。
「……急いでください。このままでは、残存した微量の瘴気が圧縮され、物理的な崩落を引き起こしかねません。一階の出口まで、一気に駆け下りますよ!」
俺の言葉に、仲間たちは弾かれたように立ち上がった。
俺は右手にネクタイの鞭を巻き直したまま先頭に立ち、社長室を飛び出して非常階段の重い鉄扉を蹴り開けた。
20階から1階への、決死のダウンヒルが始まる。
階段のコンクリート壁の表面からパラパラとモルタルの粉が剥がれ落ち、天井の非常用照明がジジジッと不快なノイズを立てて明滅を繰り返している。空間のきしむ音が、まるで巨大な獣の断末魔のように耳の奥を突き刺してくる。
「ちょっと、ヒールで20階分も走らせる気!? 労災申請じゃ済まないわよ!」
みゆきが文句を言いながらも、その見事な体幹バランスで一段飛ばしに駆け下りてくる。彼女の放つ陽の気が、暗い階段の空気をわずかに軽くしていた。
「皆さん、転ばないように足元に気をつけてクダサイ! 森の精霊もこの揺れにはびっくりしてマス!」
ソフィアが観葉植物の槍を杖代わりにして巧みにバランスを取りながら、後続の透子をサポートしている。
「ペース配分を間違えないで。呼吸が浅くなると過呼吸を起こすわよ。……まったく、医者にこんなハードワークを強いるなんて最悪の環境ね」
杏子が白衣を翻し、冷静なトーンで指示を飛ばしながら淡々と下っていく。
「エスプレッソメーカーの入ったバッグが重いわ……! コーヒー豆のストックより重いものは持たない主義なのに!」
アリーナが悪態をつきながらも、その長い脚を活かして軽快に階段を飛び降りる。
「お腹空いたぁぁっ! 早く帰ってご飯食べたいぃぃっ!」
透子は自らの食欲を無限のガソリンに変換し、すさまじいスピードで俺のすぐ後ろを追走してきていた。塔子も必死の形相でそれに続いている。
だが、最後尾を走る一人だけが、明らかにペースを落としていた。
「……はぁ、はぁ……無理。……私の体力、もうレッドゾーン……」
オーバーサイズのパーカーを汗で濡らした繭子が、階段の踊り場で手すりにもたれかかり、激しく肩で息をしている。極度のインドア派でサーバー室から出ない彼女の身体能力は、とっくに限界を迎えていたのだ。
「石田、止まるな! 置いていくぞ!」
俺は階段を数段駆け戻り、繭子の細い腕を強引に俺の肩に回した。
「……無理、足が動かない……。私を置いて、ジョセフィーヌのバックアップデータを……」
「馬鹿なことを言うな。お前の代わりになる社内SEなんてこの世にいない」
俺は彼女の腰に腕を回し、半ば抱え上げるようにして強引に階段を駆け下り始めた。彼女の体重は驚くほど軽く、まるで細いワイヤーと回路だけで構成されているかのようだった。
「……鬼。ブラック上司……」
繭子はボソボソと文句を言いながらも、俺のシャツの胸元をギュッと強く握りしめた。
バキバキバキッ!!
10階付近を通過した瞬間、頭上の天井に大きな亀裂が走り、巨大なコンクリートの破片が俺たちめがけて崩落してきた。
「きゃああっ!」
塔子が悲鳴を上げる。
「止まるな、走れ!」
俺は繭子を抱えたまま、空いた右手でネクタイの鞭を猛烈な速度で頭上に振り抜いた。
青白い霊力の軌跡が空気を裂き、落下してきた数百キロはあるコンクリートの塊を空中で粉砕する。砕け散った小石と粉塵がパラパラと降り注ぐ中、俺たちはむせ返りながらもひたすらに下を目指した。
5階、3階、2階。
膝が笑い、肺が焼け付くように痛む。
そして、ついに『1F』の表示がある鉄扉を蹴り開けた。
エントランスホールは、元の無機質な大理石のロビーに戻っていた。ジャングル化していた巨大な植物も、窓を覆っていた黒い霧も消え去っている。
だが、ビルの歪みのせいで、正面玄関の分厚い自動ドアはひしゃげて斜めに傾き、ピクリとも動かなくなっていた。
「開かないわ! 閉じ込められた!?」
みゆきが扉を叩く。
「下がってください」
俺は茧子をそっと床に下ろし、大きく息を吸い込んだ。
右足にありったけの清浄な霊力を練り込み、限界まで圧縮する。
「悪霊退散。――退勤だ」
俺は分厚い強化ガラスの扉めがけて、全力の前蹴りを叩き込んだ。
ガッシャァァァァァンッ!!!
雷鳴のような破壊音と共に、分厚いガラスが粉々に砕け散り、蜘蛛の巣のように弾け飛んだ。
開かれた視界の先。
凍てつくような、しかしどこまでも澄み切った東京の冬の夜風が、俺たちの熱くなった頬を容赦なく叩きつけた。
「……出た……」
塔子が、歩道の冷たいアスファルトに膝をつき、安堵の涙をぽろぽろとこぼした。
「死ぬかと思いました……本当にお腹ペコペコです……」
透子は力尽きたようにアスファルトに大の字に寝転がり、星一つない冬の夜空を見上げている。
「お疲れ様。見事な連携だったわよ、みんな」
みゆきが乱れた髪を優雅にかき上げ、ソフィアも「Mission accomplished デスネ!」と疲労の中に満面の笑みを浮かべた。
「全員、怪我はないわね。……全く、最悪の残業だったわ」
杏子が白衣の埃を払いながら息を整え、アリーナも「本当ね。当分、このビルのコーヒーメーカーは使いたくないわ」と肩をすくめた。
俺に肩を貸されていた繭子は、無言で俺から離れ、冷たい縁石に座り込んでノートPCを開いていた。
「……ネットワーク環境、完全クリーン。……異常なトラフィック、ゼロ。……私のジョセフィーヌも、無事」
彼女のボソボソとした報告が、このパンデミックの完全な終結を宣言していた。
背後で、ビル全体が「ギシッ」と大きな呻き声を上げた。
だが、完全に倒壊することはなく、やがて地鳴りも収まり、周囲にはただ静寂だけが残った。見上げれば、丸の内商事の本社ビルは何事もなかったかのように、冷たい東京の夜景の中にそびえ立っている。異界の崩壊に伴う物理的な損傷は、あくまで内部の一部にとどまったようだ。
「さあ、解散しましょう。俺の定時退社の時間は、もうとっくに過ぎていますから」
俺は乱れたワイシャツの襟を直し、深く冷たい冬の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
ポケットの中には、時給五万円の特例契約書のデータが入っている。
これ以上の残業は御免だ。俺は仲間たちに軽く手を挙げ、背を向けて東京駅の方角へと歩き出した。
★★★★★★★★★★★
それから数日後のことだ。
有給休暇を消化し、あの夜の極限の疲労を完全に抜いた俺は、平日の昼下がりという贅沢な時間帯に、秋葉原の裏路地を歩いていた。
平日とはいえ、メインストリートは相変わらず多国籍な観光客や買い物客でごった返している。だが、一本路地を入ったジャンクパーツ屋がひしめくエリアは、独特の静けさとカビ臭い空気に包まれていた。
「……遅い」
電子部品の山が積まれた店の軒先で、黒いオーバーサイズのパーカーにマスク姿の人物が、不満げな声を出した。
丸の内商事の社内SE、石田繭子だ。
「待ち合わせの五分前だぞ。お前が早すぎるんだ」
「……五分前行動は社会人の基本。……中川さん、有休で気が緩んでる」
繭子はボソボソと文句を言いながらも、どこか足取り軽く歩き出した。
今日は、あの異界化事件でのシステム復旧の慰労、そして彼女のネットワーク監視網を利用させてもらったことへの「報酬」として、秋葉原での買い物に付き合う約束をしていたのだ。
繭子は迷うことなく、雑居ビルの急な階段を下り、地下にあるマニアックなパーツショップへと入っていった。
薄暗い店内には、古い真空管や剥き出しの基板、年代物のサーバー用パーツが所狭しと並んでおり、特有のハンダと機械油の匂いが漂っている。蛍光灯がジリジリと瞬く空間で、彼女は埃をかぶった棚の奥から、無骨な黒いヒートシンクがついたパーツを引っ張り出し、青い瞳を輝かせた。
「……これ。探してたやつ。……冷却効率が段違い。これでナポレオンのクロックを限界まで引き上げられる」
彼女の専門的な独り言に、俺は適当に相槌を打ちながら背後を警戒する。
対人恐怖症の彼女がこうしてマニアックな客層がひしめく地下店舗を歩けるのは、俺が周囲に微弱な「人除けの結界」を張って、他人の視線や不要な接触を弾いているからだ。彼女にとって、俺は高性能なファイアウォールのようなものらしい。
目当てのパーツをいくつか購入した後、俺たちは秋葉原の外れにある、地下のレトロな純喫茶に落ち着いた。
薄暗い店内は客も少なく、サイフォン式のコーヒーの香ばしい香りが心地よく漂っている。
繭子はようやくパーカーのフードを下ろし、マスクを外して深く息を吐き出した。
「……生き返った。秋葉原の空気、電磁波が濃すぎて息が詰まる」
「お疲れ。で、今日の買い出しは満足したか」
「……うん。完璧なルート構築だった。……中川さんの護衛スキル、Aランク認定してあげる」
運ばれてきたアイスコーヒーのグラスに水滴がつく。ストローを咥えながら、繭子は少しだけ口角を上げた。
俺もホットのブラックコーヒーを口に運び、静かに流れるジャズのBGMに耳を傾ける。
あの戦いの後日談を語るには、悪くない隠れ家だ。
「……社長が承認した、時給五万円の契約。……あれ、本当だったのね」
不意に、繭子がストローから口を離して言った。
「ああ。PDFのデータはお前が作ったんだろう。今月分の給与明細を見るのが楽しみだよ」
「……納得いかない。私の給料の何倍もある。……システムの全復旧をやったのは私なのに。……理不尽」
彼女は唇を尖らせて不満を口にする。
「危険手当込みだ。あの魔窟のド真ん中で矢面に立つリスクを考えれば、これでも安い方だ」
「……知ってる。中川さんが一番危ない橋を渡ってたこと。……監視カメラの映像、全部見てたから」
繭子はアイスコーヒーのグラスの結露を指でなぞりながら、少しだけ視線を落とした。
「……あの時。私がMDF室から出られなかったら、みんな死んでた」
「そうだな」
「……怖かった。外の空気に触れるのも、誰かと話すのも、すごく怖い。……でも、中川さんが『合流するまで死ぬな』ってチャットで言ってくれたから。……だから、動けた」
それは、いつも無機質で合理的な彼女の口から出た、ひどく人間らしい、不器用な本音だった。
彼女の透き通るような青い瞳が、グラス越しに俺を真っ直ぐに見つめている。
「……ありがとう。助けてくれて」
「俺は自分の定時退社を守るために動いただけだ。感謝される筋合いはない」
「……素直じゃない。……中川さんのそういうところ、エラー吐いてるポンコツのプログラムみたいで、嫌いじゃない」
繭子はふふっと小さく笑い、再びストローを咥えた。
俺はコーヒーカップを置き、静かに息を吐いた。
「石田。お前こそ、よくやったよ。お前のハッキングがなければ、あの地下から脱出することは不可能だった。……俺の方こそ、感謝している」
「……録音した。次からお願いを聞いてもらう時の強力なアクセス・キーにする」
「おい。勝手にログに残すな」
俺が苦笑すると、繭子は満足げに目を細めた。
窓のない純喫茶の地下空間だが、ここにはあの息苦しい瘴気も、理不尽な上司の怨念もない。あるのは、ただの平穏なコーヒーの香りと、少しだけ距離の縮まった同僚との静かな時間だけだ。
「……中川さん」
「なんだ」
「……帰りに、限定の海外製エナジードリンク、箱買いして。……奢りで」
「お前の胃袋はどうなってるんだ。カフェイン中毒で倒れても労災は下りないぞ」
俺の呆れた言葉に、繭子は「……自己責任だから平気」と短く返し、購入したパーツの箱を愛おしそうに撫でた。
俺はカップに残った琥珀色の液体を飲み干し、カウンターの奥でサイフォンが立てるコポコポという静かな音に、ただじっと耳を傾けていた。




