第48話 中川武を探して
二月中旬。
丸の内商事の本社ビルを飲み込んでいたあの狂気の嵐が完全に過ぎ去り、季節は少しずつだが春の足音を感じさせる時期へと差し掛かっていた。
その週末。
俺は、東京の冷たいビル風から遠く離れた、伊豆半島の山奥にひっそりと佇む隠れ家的な温泉宿の客室にいた。
窓の外には、静かに雪が舞い散る冬の渓谷の風景が広がっている。部屋には檜の香りが漂う専用の露天風呂が備え付けられており、湯船からは白い湯気が途切れることなく立ち上っていた。
そして俺の肩には、この至福の時間を共有する最高の同居人が陣取っている。
愛猫のクロだ。
ここは、ペットと一緒に宿泊できる数少ない高級温泉宿だった。
いつもは適度な距離感を保つクールな若猫に成長したクロだが、見知らぬ宿の環境に少し不安を覚えたのか、あるいは俺がずっと傍にいるという安心感からか、今日は朝から異常なほどの甘えん坊モードに突入していた。
俺が座布団の上でくつろいでいると、クロは背後からトコトコとよじ登り、俺の首元にぐるりと体を巻きつけるようにしてマフラー状に落ち着いたのだ。
そして、ザラザラとした温かい舌で俺の耳たぶを執拗に舐め、自分の額を俺の頬にガンガンと力強くぶつけてくる。猫特有の、強烈な愛情表現とマーキングの儀式だ。俺が少しでも顔を背けようものなら、短い鳴き声を上げて抗議し、さらに顔を押し付けてくる。
俺の首筋には、クロの喉の奥から発せられる微かな振動が、心地よいマッサージのように直接伝わってきていた。
俺はクロの艶やかな黒曜石のような背中をゆっくりと撫でながら、全身の力が完全に抜けていくのを感じていた。
あの地下の最深部で強大な元凶と命懸けの死闘を繰り広げ、俺の精神と肉体は限界をとうに超えて擦り減っていたのだ。
スマートフォンの電波すら届かない山奥の宿で、ただひたすらに猫の体温を感じ、雪景色を眺める時間は、傷ついた魂を修復するための絶対に必要な治療だった。
やがて、部屋の襖が静かに開き、仲居さんが夕食の膳を運んできた。
山の幸と海の幸がふんだんに使われた、極上の懐石料理だ。
目の前に並べられたのは、伊豆の海で獲れたばかりの伊勢海老の活け造り。透き通った身は砕いた氷の上に美しく盛り付けられ、かすかに動いているほどの鮮度だ。
箸でつまんで特製の刺身醤油に少しだけつけ、口に運ぶ。
プリプリとした力強い弾力を噛み締めた瞬間、ねっとりとした濃厚で上品な甘みが舌の上に広がる。
そこに、よく冷えた地元の純米大吟醸を流し込む。
冷酒の持つ鋭いミネラル感と澄み切った辛口の味わいが、伊勢海老の輪郭を鮮やかに際立たせ、余計なものをすべて洗い流して極上の旨味の余韻だけを残していった。
続いて、メインディッシュである金目鯛の煮付けだ。
大皿に乗った立派な金目鯛は、照りのある濃い飴色のタレをたっぷりと纏っている。箸を入れると、真っ白でふっくらとした身がホロリとほぐれた。
口に入れると、脂の乗った白身の柔らかな食感と、醤油とみりんの甘辛く深いコクが交じり合う。付け合わせの白髪ネギの辛味が、濃厚なタレの味をキリッと引き締めていた。
炊きたての白いご飯が、とめどなく進む。
隣で、クロも宿が特別に用意してくれた猫用の真鯛とホタテの無塩蒸しを、ヒゲを汚しながら夢中で食べている。
俺とクロの、誰にも邪魔されない静かで完璧なディナーだった。
★★★★★★★★★★★
そして、週明けの月曜日の朝。
長い休暇を終えた俺は、東京行きの特急列車の座席で、久しぶりにスマートフォンの電源を入れた。
山奥の秘湯に滞在していた数日間、俺は完全にオフラインの環境に身を置いていたのだ。
電波を掴んだ、その瞬間だった。
――ブルルルルルルッ!! ブルルッ!!
俺のスマートフォンが、まるで発作を起こしたかのように激しく震え、通知音を連呼し始めた。
画面には、社内チャットツールと着信履歴のポップアップが、雪崩のように次から次へと表示されていく。
『着信:竹内塔子(42件)』
『着信:小野みゆき(15件)』
『着信:松田透子(28件)』
俺は目を丸くし、画面をスクロールした。
会社でまた何か大規模なシステム障害でも起きたのかと思ったが、チャットのログを開いてみて、事態が全く別の方向で大炎上していることに気づいた。
ログの日付は、俺が休暇に入った直後から昨日の夜まで続いている。
塔子『中川さん!? 連絡が取れませんけど、どこにいるんですか!?』
塔子『もしかして、あの莫大な特別報酬を受け取って、もう会社には来ないつもりなんですか!? 嘘ですよね!? 私たちを見捨てて、海外へ逃げちゃったんですか!?』
透子『中川さぁぁぁん! 高飛びするなら私も連れてってくださいよぉ! 今日のお昼ご飯はどうするんですか! 餓死しちゃいますよぉ!』
みゆき『ちょっと、どこに雲隠れしたのよ。広報部の情報網で空港の出入国記録を洗わせてるわ。逃げ切れると思わないことね』
さらに、ひときわ不穏なメッセージが、情報システム部の石田繭子から届いていた。
繭子『……GPSロスト。……交通系ICカードの履歴、数日前の東京駅で途絶えてる。……絶対に探し出す。地の果てまで追う』
杏子『まったく、人騒がせな男ね。無断で消えるなんていい度胸だわ。月曜に出社したら、覚悟しておきなさい』
アリーナ『休み明けの朝、最高のエスプレッソ淹れて待ってるって約束したわよね? ブッチしたら許さないわよ』
俺は画面を見つめたまま、深い、深いため息をついた。
どうやら、俺が誰にも何も言わずに、莫大な報酬を手にして突然この会社から消え去ったと勘違いされ、週末の間に彼女たちが血眼になって大捜索網を敷いていたらしい。
だが、これは完全な誤解だ。
俺はあの地下での死闘の直後、社長との契約更新を正式に結んだ。そしてその日のうちに、これまで一度も使っていなかった長期休暇の申請書を、正規のルートで提出し、確かに受理印をもらっていたのだ。
単に、俺が行き先を誰にも告げず、電波の届かない場所で完全に音信不通になっていたため、「姿を消した」という最悪のストーリーが彼女たちの間で勝手に出来上がってしまったのだろう。
「……本当に、騒がしい連中だ」
俺は呆れながら、チャットのグループ画面に短く文字を打ち込んだ。
『ご心配をおかけしました。正規の手続きで、長期の休みを消化していただけです。山奥の温泉にいたため電波が通じませんでした。……高飛びなどしていません。間もなく出社します』
送信ボタンを押し、俺は車窓を流れる都会の景色に目を向けた。
★★★★★★★★★★★
午前8時50分。
丸の内商事の1階エントランスの自動ドアを抜けた瞬間だった。
「遅いわよ、中川さん」
カフェスタンドのカウンターから、アリーナが腕を組んでこちらを睨みつけていた。その手元には、約束通り抽出されたばかりの漆黒のエスプレッソが入った小さなカップが置かれている。
「始業は9時だ。遅刻はしていない」
俺がコートを脱ぎながら答えると、エントランスの奥から、ヒールを鳴らして小野みゆきが歩いてきた。
「まったく、本当に温泉に行ってただけなんて、人騒がせな男ね。私たちがどれだけ奔走したと思ってるのよ。……お土産くらい、ちゃんと買ってきたんでしょうね?」
「温泉饅頭なら、後で配りますよ」
俺は苦笑しつつ、アリーナから受け取ったエスプレッソを一口で飲み干した。強烈な苦味と香りが、休みボケの脳を鋭く覚醒させる。
エレベーターで8階の総務部フロアへと向かう。
フロアに足を踏み入れた瞬間だ。
「中川さぁぁぁん!!」
自席に座っていた塔子が、まるで弾かれたように立ち上がり、デスクの上の書類を散らかす勢いで走ってきて、俺の胸元に飛び込んできた。
「うわぁぁぁん……! よかったぁぁ……! 本当に辞めて、どこか遠くへ行っちゃったのかと思って、私、私……っ!」
塔子は俺のスーツの胸ぐらを両手で強く握りしめ、ボロボロと大粒の涙をこぼして泣きじゃくっている。
周囲の社員たちが驚いてこちらを見ているが、彼女はそんなことは一切気にせず、ただ子供のように泣き続けていた。
「だから、チャットで説明したでしょう。俺はちゃんと、契約通りに戻ってきましたよ」
俺は塔子の肩を軽く叩いてなだめる。
「お腹ペコペコですよぉ!!」
そこへ、郵便室から駆けつけてきた透子までが、俺の背中側にしがみついてきた。
「中川さんがいない間、私、ずっとコンビニのパンしか食べてなかったんですからね! 責任取って、今日のお昼は豪華なやつ作ってください!」
さらに、俺の胸ポケットのスマートフォンがブルッと震えた。
取り出して画面を見ると、繭子からのチャットだ。
『……無事の帰還、確認した。……心配で、夜も三時間しか眠れなかった。……お土産の温泉饅頭、一番に要求する』
俺は、俺に泣きつく塔子の頭と、背中で騒ぐ透子の気配を感じながら、大きく息を吐き出した。
静かな温泉宿での休息も最高だったが、この騒がしくて、面倒で、それでいて少しだけ温かいオフィスの喧騒も、今の俺にとっては悪くない。
「……わかりました。とりあえず、皆さんに温泉饅頭を配りますから、少し離れてください。仕事が始められません」
俺は小さく微笑み、俺の帰還を心底喜んでくれている仲間たちと共に、再び動き出した日常の業務へと向かっていった。




