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第44話 ラスボス・創業者の霊

「……はぁ、はぁ……」


 俺は右手に持ったネクタイの剣をだらりと下げ、肩で大きく息をした。


「……消えた……?」


 みゆきが、スマートフォンの画面から顔を上げ、信じられないものを見るように呟く。


 圧倒的な冷気と重圧を放っていた黒い靄――ブラック企業という概念は、間違いなく俺の刃によって両断され、完全に散華した。

 部屋を満たしていた、あの肺を凍らせるような異常な寒さは和らぎ、静まり返った室内には元の室温が戻りつつある。軋んでいた窓ガラスの微かな振動も収まり、嵐が過ぎ去ったあとのような静寂が訪れていた。床に這いつくばっていた塔子や透子たちも、ようやく荒い呼吸を落ち着かせ、ゆっくりと顔を上げ始めている。


 だが。


「中川さん。……ダメ。まだ終わってない。まだよ」


 部屋の隅で、ノートPCを胸に強く抱え込んだ繭子が、血の気のない顔で声を震わせた。


「システムのエラーが止まらない。……さっきのは、ただの『殻』だったの。その内側に隠れていた本当の……致命的なバグが、今、来るわ」


 その言葉と同時だった。

 部屋の中央、ドロドロに溶け落ちていたマホガニーのデスクの残骸が、突如として激しく波打ち始めた。ブクブクと不気味な泡が立ち、そこから真っ黒なコールタールのような液体が間欠泉のように噴き出してくる。


「な、なにこれ……今度は、熱い……!」


 透子が顔をしかめ、手で口と鼻を覆った。


 冷気ではない。

 むせ返るような、息苦しいほどの『熱気』だ。

 それは、真夏のサウナのような物理的な熱さに加え、古臭いタバコのヤニの匂い、強烈な整髪料の匂い、そして、血の滲むような汗と脂が混じり合った、暴力的なまでの生々しさを持っていた。

 先ほどの概念が、システマチックで無機質な「冷たい悪意」だったのに対し、今この場に溢れ出そうとしているのは、剥き出しの人間臭さと、狂気じみた情熱の残滓だ。


 コールタールの海が渦を巻き、急速に一人の人間の形を成していく。

 ズブ……ズブズブ……。

 重厚な音を立てて現れたのは、肩幅の広い、ダボダボのダブルのスーツを着た初老の男だった。

 白髪交じりのオールバックを完璧に固め、太い眉の下には、ギラギラと異常な光を放つ落ち窪んだ双眸。その顔には、数え切れないほどの苦労と、それをねじ伏せてきた強引な意志が深く刻み込まれている。


「……あの顔、1階の応接室に飾ってある肖像画と……」


 塔子が震える声で呟いた。

 間違いない。丸の内商事を一代で築き上げた、創業者の姿だ。彼は数十年前、このビルの地下に自らの執念ごと封印されたと聞く。


『……ナゼ、休ム』


 男の口が動き、低く、腹の底に響くような声が放たれた。それは幻聴ではない。物理的な音波となって空気をビリビリと震わせ、俺たちの鼓膜を直接叩き潰すような重さを持っていた。


『……仕事ハ、終ワッタノカ。……マダ、太陽ハ沈ンデハオラン。ナゼ、机ニ向カワナイ』


 男が一歩、前へ踏み出す。

 その瞬間、俺の両肩に、目に見えない何十キロもの鉄の塊が乗しかかったような衝撃が走った。


「ぐっ……!」


 俺はたまらず片膝をついた。

 先ほどの概念との戦いで、霊力を限界まで振り絞っていた反動が、最悪のタイミングで襲ってくる。足に力が入らない。全身の筋肉が痙攣し、視界がチカチカと明滅する。


『……甘エルナ。……俺ノ時代ハ、寝ル間モ惜シンデ働イタ。……熱ガアッテモ、這ッテデモ出社シタ。……会社ノ成長ガ、俺タチノ喜び、国ノ誇リダッタ……!』


 男の背後から、ボワァァァッ! と赤黒い炎のようなオーラが噴き出した。

 熱風が顔を叩き、空気がひび割れるような音がする。周囲の空間が、男の放つ執念の重圧に耐えきれずに軋みを上げているのだ。俺は肺の空気が強制的に搾り出されるような感覚に陥り、呼吸のペースを見失いかけた。


「中川さん!」


 隣から、力強い手で俺の右腕が引かれた。

 バランスを崩しかけた俺の体を、いつの間にか横にいた中山杏子が、しっかりと肩を貸して支えてくれたのだ。


「……無茶しすぎよ。脈が飛び飛びじゃない。完全にオーバーヒートね」


 杏子の顔が、すぐ真横にある。

 彼女の吐息から漂うわずかなアルコールの香りと、密着した体から伝わる確かな体温が、俺の冷え切り、遠のきかけていた感覚を強引に現実へと引き戻してくれた。


「……少し、ガス欠ですね。相手の放つ熱量が、異常すぎます……」

「強がらないの。……ねえ、中川さん。聞きなさい」


 杏子は俺の腕をしっかりとホールドしたまま、漆黒の瞳で俺の目を真っ直ぐに見つめた。そこには、どんな怪異にも揺るがない、プロの医者としての、そして一人の大人の女としての冷徹で熱い意志が宿っていた。


「ここを生きて出たら、前に約束した通り、とびきりのバーに連れて行ってあげる。……朝まで付き合いなさい。今度は一杯や二杯じゃ逃がさないわよ。私の特別メニュー、全部試してもらうんだから」


 それは、死の間際にある患者にかける気休めなどではなかった。

 生死の境を彷徨うようなこの極限状態において、確固たる未来の「予定」を提示することで、俺の精神を現世に、この場所に強く繋ぎ止めようとする、彼女なりの荒療治だった。


「……それは、ただの飲み会じゃなくて、デートの誘いとして受け取っていいんですか」


 俺が掠れた声で、少しだけ口角を上げて返すと、杏子はフッと妖艶に笑った。


「ええ。最高のドレスアップをして待ってるわ。だから、ここで終わるなんて絶対に許さない。私のエスコート役が、メインイベントの途中で倒れるなんて、最低の男のすることよ。わかるわね?」

「……了解しました。……高くつきますよ、俺の時給は」


 俺は杏子に支えられながら、ゆっくりと、しかし確実に立ち上がった。

 足の震えは収まっていた。彼女の言葉が、枯渇しかけていた俺の芯の部分に、再び青白い火を灯してくれたのだ。


『……企業戦士タルモノ、会社ニ命ヲ捧ゲヨ!! 欲シナラバ働ケ! 倒レルマデ走レ!!』


 創業者の霊が、両腕を大きく天に向かって振り上げた。その咆哮と共に、部屋の壁がベリベリと剥がれ、異様な光景が広がっていく。


『――24時間戦エマスカ!!!』


 その狂気の問いかけが響いた瞬間、空間が激しく歪み、創業者の周囲の虚空から「昭和の遺物」が無数に実体化した。

 黒いダイヤル式の重厚な電話機、古いインクの匂いが染み付いたガリ版刷りの分厚い決算書、重いスチール製の穴あけパンチ、そして吸い殻が山盛りになった角張ったガラスの灰皿。

 それらが旋風のように渦を巻き、機関銃の掃射のような勢いで、俺たちに向かって飛来してきた。


「危ない! 全員伏せて!」


 俺はとっさに前に出て、右手のネクタイの剣を横薙ぎに一閃した。

 鋼の硬度を持った布地が空気を裂き、飛来してきた分厚いバインダーを真っ二つに斬り捨てる。そのまま手首を返し、迫る重厚なガラスの灰皿を剣の平で弾き飛ばした。


 ガシャンッ! バリンッ!


 砕け散ったガラスの鋭い破片が頬を掠め、一筋の血がにじむ。古いインクとタバコのヤニの匂いが染み付いた紙の束が吹雪のように舞い、視界を極端に遮ってきた。だが、敵の弾幕は一向に弱まる気配がない。次から次へと虚空から湧き出し、容赦なく俺たちを押し潰そうとしてくる。


「ふざけないで! あなたの時代はもう終わってるのよ! 私たちの時間は、私たちのものなんだから!」


 背後でみゆきが叫び、必死にスマートフォンのフラッシュを連続で焚いた。その閃光が飛来物の影を乱し、わずかに軌道を狂わせる。


「今は、休まないと働けないんです! 誰かに命じられて死ぬまで働くなんて、そんなの仕事じゃありません!」


 塔子も、その場にあったひしゃげたパイプ椅子を盾にし、飛んでくる電話機や書類の束を必死に弾き返した。


「ナンセンス! 人生は楽しむためにあるんデス! 森の精霊も、休まない人間には微笑みマセンヨ!」


 ソフィアが太い木の枝を野球のバットのように渾身の力で振り抜き、飛んできた重い受話器を粉々に粉砕した。


「24時間なんて絶対無理! 寝かせてよ! 労働基準法、最高ー!」


 透子も叫びながら、這いつくばって書類の嵐を避けている。


 彼女たちの懸命な抵抗が、空気を震わせる。

 放たれた彼女たちの声は、ただの悲鳴や怒号ではない。自分たちの日常と権利を守り抜くという強固な意志の壁となり、飛来する昭和の遺物と激しく衝突していた。

 分厚い稟議書の束が塔子の構えたパイプ椅子に当たり、彼女の放つ生真面目なオーラに触れてボロボロと紙くずのように崩れ落ちる。ソフィアの槍に砕かれた黒電話は、二度と鳴ることのないガラクタとなって床に散らばった。

 彼女たちが一歩も引かずに放つ声と気迫が、見えない防壁となって俺たちを守り、創業者の霊の動きをわずかに鈍らせていたのだ。


「……石田。相手の攻撃、隙を見つけられるか」


 俺は荒い息を整え、ネクタイの剣を構えたまま背後の繭子に声をかけた。


「……解析、継続中。……飛来物の軌道、完全にランダムじゃない。……創業者の『怒りの周期』に連動してる。……右から左への波状攻撃が途切れる瞬間に、中核へのパスが開く。……次、10秒後。来るわよ」


 繭子の冷徹なサポートが、俺の視界に予測の光のラインを引いてくれる。


「あなたの情熱が、戦後のこの会社を、そしてこの国を作ったことは否定しない。……だが、その熱はもう、今の時代にはただの毒にしかならないんだ」


 俺は左手でスーツのポケットを探り、最後にとっておいた二枚の呪符を取り出した。

 一枚は『青い付箋』、もう一枚は『赤い付箋』。

 この相反する二つの力を重ね合わせ、俺自身の限界を超えた霊力と――そして、杏子からもらった『未来への約束』という、強烈なまでの「生への執着」を、その紙片にすべて流し込む。


 指先の付箋が、蒸気を上げながら青白く、そして激しく発光し始めた。

 熱風が俺の頬を焼き、飛来する書類の破片がスーツをかすめる。だが、足の震えは完全に止まっていた。


「俺たちは、休むために働いているんだ。……昭和の亡霊は、その熱い夢と一緒に、大人しく眠っていろ」


 俺は、重圧をネクタイの剣で切り払いながら、創業者の霊が放つ異常な熱の渦に向かって、一歩、また一歩と、静かに歩みを進めた。


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