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第43話 それぞれの覚醒

 凍りつくような社長室の空間。窓の外を覆う漆黒の霧が、分厚いガラス越しにもその不気味な圧迫感を伝えてきている。

 俺が巨大な黒い靄に向かって掲げたスマートフォンの画面には、新庄社長の電子署名が入った『特例雇用契約書』と『業務委託覚書』が表示されている。


『……ケイヤク……ソンナ、カミキレ……』

『……イミハナイ……オ前ハ、歯車ダ……』


 靄の中から、脳髄を直接削り取るような悍ましい声が響く。それは一人や二人の声ではない。この会社で過去にすり潰されてきた無数の社員たちの怨嗟が、一つの概念となって俺の精神を押し潰そうとしてきているのだ。

 だが、その呪詛には先ほどの圧倒的な重圧が欠けていた。俺が突きつけたのは、ただの電子データではない。労働に対する正当な対価の証明であり、一個人の尊厳を守るための絶対的な線引きだ。


「意味がないかどうかは、俺が決める。俺はお前たちのように、会社というシステムに自分自身を明け渡すつもりはない」


 俺はスマホを持つ右手に、丹田から引き上げた清浄な霊力を一気に注ぎ込んだ。

 画面から放たれるバックライトの光が、青白いオーラと混ざり合い、強烈な閃光となって薄暗い社長室を照らし出す。

 光の波紋が、概念の放つ自己否定と過労の呪詛を真正面から押し返し、空間に渦巻いていた暴力的な重圧をわずかに中和していく。


 だが、相手は五十年分の業の塊だ。俺一人の霊力と契約書だけでは、完全に浄化し切るには至らない。ジリジリとした拮抗状態が続く中、背後から微かな音が聞こえた。


「……はぁ。まったく、いつまでこんな薄暗い所で這いつくばってるつもりよ、私」


 カツッ。

 冷え切った床を硬いヒールが叩く音が鳴った。

 振り返ると、膝をついていたみゆきが、タイトスカートの埃を払いながらゆっくりと立ち上がるところだった。

 彼女の大きな猫のような瞳には、先ほどの絶望や疲労の色は完全に消え去り、代わりにギラギラとした反逆の炎が灯っている。


「中川さん。貴方だけにいい格好はさせないわよ」


 みゆきは俺の隣に並び立ち、不敵な笑みを浮かべた。

 絶体絶命のこの魔窟の中心にあって、彼女はまるで新作発表会のステージに立つかのように堂々としている。


「……このお掃除が無事に終わったら、私とデートしなさい。もちろん、社長からたっぷり特別手当をもらうんだから、とびきり高いお店でね」

「……ええ。無事に生きて定時退社できたら、いくらでも」

「言ったわね」


 みゆきは自分のスマートフォンを取り出し、カメラのレンズを蠢く黒い靄に向けた。電波は圏外であり、どこにも通信は繋がらない。だが、彼女はそんなことは意に介さない。

 パシャッ! パシャッ!

 強烈なカメラのフラッシュが連続で焚かれ、社長室の闇を鋭く切り裂く。


『……ヤメロ……ミダイニ……スルナ……!』


 靄がフラッシュの光を嫌がるように蠢く。


「こんな狭くて息苦しい密室で、こそこそと社員をいじめるのが会社だって言うの? ふざけないで。そんな陰湿なやり方、世間が許すと思う?」


 みゆきは画面を操作する仕草を見せつけながら、高らかに宣言した。


「私が全部、光の下に引きずり出してやるわ。貴方たちのその古臭い業なんて、私の発信力一つで跡形もなく炎上させて、世間から消し去ってあげる!」


 みゆきの全身から、圧倒的な陽の気が爆発的に放射された。

 それは、情報を操り、大衆の目を引きつけ、共感を呼び起こす強力なエネルギーの波だ。彼女の放つ意志の光を浴びた靄が、『ギャッ……!?』と悲鳴のような音を立てて後退した。

 密室での陰湿な隠蔽と孤独の呪いが、彼女の持つ絶対的な拡散力によって物理的に引き剥がされていく。


「……小野先輩の言う通りです」


 みゆきの声に呼応するように、今度は塔子が床から立ち上がった。

 彼女は乱れた蜂蜜色の髪を手で梳き、俺とみゆきの背中を守るように一歩前へ出る。

 その顔に涙はなく、理不尽に対する静かな怒りが満ちていた。


『……オ前タチノ代ワリナド……』

『……イクラデモイル……! 黙ッテ働ケ……!』


 靄が再び呪詛を紡ごうと蠢き、泥のような触手を伸ばそうとする。だが、塔子は一歩も退かなかった。


「代わりなんていません。私たちは部品じゃありません」


 塔子の声は決して大きくはなかったが、凛として、驚くほど澄み切っていた。

 彼女は総務という立場で、毎日、社員たちの不満や理不尽な要求を受け止め、それでも会社を少しでも良くしようと奔走してきた。その彼女の信念を「無意味だ」と全否定するこの概念に対して、彼女の怒りは頂点に達していた。


「働いた分だけ報われる。理不尽な扱いには声を上げる。それが正しい会社のあり方です。あなたたちが過去にどれだけ苦しんだとしても、それを今の私たちに押し付ける権利なんてありません。……不当な扱いは、絶対に許しません」


 塔子の言葉が、見えない刃となって空間を切り裂く。

 狂ったシステムそのものを真っ向から否定する、揺るぎない現実のルール。その正論の力は、概念が放つ理不尽な圧力を根底から粉砕する最強の盾となった。

 靄が、塔子の放つ清廉なオーラに触れ、ジュワッと音を立てて削り取られていく。物理的な攻撃ではない、精神の強さがそのまま力となっているのだ。


「Yeah! その通りデス! タケウチさんの言う通りデース!」


 さらに、ソフィアが木の枝の槍を杖代わりにして立ち上がった。

 彼女のアイスブルーの瞳は、すっかりいつもの明るい光を取り戻している。


『……使エルダケ……使イ潰セ……』

『……ムノウナ奴ハ……』


「What? 代わりがいくらでもいる? 無能?」


 ソフィアは心底不思議そうな顔をして、首を傾げた。


「この私と同じくらいビューティフルで、毎日笑顔で働ける優秀な受付嬢なんて、世界中どこを探してもいマセンヨ? 貴方たち、本当に人を見る目がないデスネ!」


 俺は思わず、吹き出しそうになるのを必死に堪えた。

 彼女の圧倒的な自己肯定感。そして、日本のブラック企業特有の滅私奉公や自己否定の美徳を微塵も理解していない、異文化から来る強烈なメンタル。

 どんな陰湿な呪いの言葉も、彼女の心には一切突き刺さらない。のれんに腕押しどころか、鏡に反射するように呪詛が跳ね返っていく。


『ギィィィッ……!? ナゼ……ナゼ響カナイ……!?』


 黒い靄が激しく混乱し、その巨大な形が大きく崩れ始めた。

 絶対的なはずだった「労働環境の悪意」というシステムが、物理的な攻撃も受けないまま、ボロボロと剥がれ落ちていく。

 ただの言葉。ただの信念。ただの自己肯定感。

 理不尽に対して一歩も退かない彼女たちの姿勢そのものが、強力な陽の気となって社長室の空間を満たし、ドス黒い呪詛の濃度を急速に希釈させていた。


「……ふふっ。本当に、いいチームじゃない」


 杏子が壁から背中を離し、白衣の襟を正した。


「ここまで劇薬が効くなら、私の出番はなさそうね。……さあ、松田、アリーナ。私たちも負けていられないわよ」

「ええ。こんなカビ臭い空気、さっさと換気しちゃいましょう」とアリーナが立ち上がり、袖をまくる。

「はいっ! 私も、もう絶対に負けません!」と透子も両手で拳を握りしめ、力強く立ち上がった。


 繭子も、ノートPCを抱えたまま黙って俺の背中を見つめ、小さく、しかし力強く頷いた。


 仲間たちが、再び俺の背後に集結した。

 彼女たちが放つ、それぞれの異なる色のオーラが一つに混ざり合い、社長室を満たしていた暗黒の靄を部屋の隅へと完全に追いやる。

 これ以上の最高の触媒はない。


「皆さん、見事です」


 俺は右手のスマホをポケットにしまい、床に落ちていたネクタイを拾い上げた。

 そして、それにありったけの清浄な霊力を流し込み、鋼鉄の硬度を持つ封魔の剣へと変貌させる。


 相手は物理的な実体を持たない概念だった。

 だが、今の奴は違う。彼女たちの抗いによって、その強固なシステムに致命的な綻びが生じ、形を維持できなくなったただの醜悪な負の感情の塊へと成り下がっている。


「……そろそろ終わりにしましょう。俺の定時退社の時間は、とうに過ぎているんでね」


 俺は床を強く蹴り、崩れかけた黒い靄の中心――狂ったシステムの核めがけて、一直線に飛び込んだ。

 床を蹴る反動で、冷え切った空気が顔を打つ。

 仲間たちが切り開いた光の道を通り抜け、俺はただ一撃にすべての力を込めて、空中でネクタイの剣を大きく振りかぶる。


「結界展開。――破邪の陣!」


 俺の持つ最強の術理を叩き込む。

 振り下ろしたネクタイの剣が、青白い閃光と共に真っ黒な靄の核を正確に十字に両断した。

 断末魔の叫びを上げる隙すら与えず、概念の塊は光の粒子となって社長室の隅々まで散華し、完全に消滅した。


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