第42話 VS ブラック企業概念
地上20階。丸の内商事・社長室。
重厚なマホガニーの扉を力強く蹴り開けた瞬間、想像を絶する冷気と圧迫感が、物理的な突風となって俺たちを襲った。
「くっ……!」
俺の背後に続く竹内さんや松田、そして小野さんたちが、たまらず顔を腕で覆って身を屈める。肺を凍らせるような冷気が、鼓膜を圧迫する重低音と共に吹き抜けていく。
扉の向こうに広がっていたのは、見慣れた豪華な執務室ではなかった。
壁も、天井も、床も、すべてが脈打つようなドス黒い靄で覆われ、部屋の境界線すら曖昧になっている。中央にあったはずの巨大なデスクや革張りのソファは原形を留めず、泥のようなコールタールの塊となってドロドロと溶け落ちていた。
そして、その暗黒の空間のド真ん中に、「それ」は浮遊していた。
特定の形はない。
巨大な靄の塊が、人の顔のように歪んだかと思えば、次の瞬間には無数の腕が絡み合ったようなおぞましい形に変わり、絶え間なくその輪郭を蠢かせている。
これまでのどんな悪霊とも違う、根源的な悪意の質量。
「……中川さん。息が、できない……」
竹内さんが俺の背中のコートを強く握りしめ、苦しそうに肩で息をしている。霊感のない彼女たちですら、この場に立っているだけで生命力を根こそぎ削り取られるような異常な重圧を感じているのだ。
「下がっていてください」
俺は短く指示を出し、右手に巻き付けたネクタイを強く握り直した。
相手がどんな姿をしていようと、やるべきことは変わらない。俺は全身から青白い霊力の炎を立ち昇らせ、靄の塊の中核と思われる部分へ向かって地を蹴った。
「消えろ」
鋼鉄の硬度を持たせたネクタイの鞭が空気を切り裂き、黒い靄の中心を横一文字に両断する。
確かな手応えはあった。
だが。
シュゥゥゥ……。
切り裂かれた靄は、何の音も立てずに二つに分かれ、そして瞬く間に融合して元の巨大な塊へと戻ってしまった。反撃の素振りすら見せず、ダメージを受けた痕跡が微塵もない。
「……物理的な切断が効かないか」
俺は即座に後方へ飛び退き、左手で数枚の赤い付箋を抜き出した。
呪力を極限まで込め、靄の塊めがけて連続で投げつける。
「燃えろ!」
カッ! と付箋が発火し、青白い浄化の爆炎が社長室全体を包み込んだ。
通常なら、どんな強大な怨霊であろうとこの炎に焼かれれば、その核となる未練や恨みを焼却され、悲鳴を上げて消滅する。
だが、炎が晴れた後。
「……嘘でしょ」
背後で、小野さんが絶句した。
黒い靄は、傷一つ負うことなく、悠然とそこに漂っていた。
付箋の炎は靄をすり抜け、背後の壁を焦がしただけで終わってしまったのだ。
「……効いてない……?」
中山先生が呻くように言った。
「どんなバグだって、中川さんのあの火力ならデリートできるはずなのに……!」
ノートPCの画面を見つめる石田の指が、カタカタと震えている。
俺は舌打ちをした。
術が失敗したわけではない。標的の前提が間違っていたのだ。
「……こいつは『悪霊』じゃない。だから、浄化の炎が効かないんだ」
俺は油断なく靄を睨みつけたまま、背後の仲間たちに告げた。
「悪霊じゃないって、じゃあ何なのよ!」
小野さんが叫ぶ。
「ただの『概念』です。個人の恨みや未練から生まれた霊ではない。この会社が五十年かけて積み上げてきた、不条理なシステムそのもの。……『過労』『パワハラ』『サービス残業』。そういったブラック企業の業そのものが、意思を持った集合体だ」
だから、切断も、燃焼も通用しない。
実体のない「労働環境の悪意」という概念を、物理的な暴力や霊的な浄化で消し去ることは不可能なのだ。
『……ナゼ……休ム……』
突然、黒い靄から、複数の人間の声が重なり合ったような、低く不気味な声が響いた。
耳からではなく、脳髄を直接鷲掴みにされるように響き渡る声。
『……オ前ノ、代ワリハ、イクラデモイル……』
『……休ムナ……働ケ……』
『……結果ヲ、出セ……!!』
「ぐっ……!」
その声を聞いた瞬間。
俺の全身に、何十キロもの鉛の重りを背負わされたような、強烈な疲労感がのしかかってきた。
霊力で弾き返そうとするが、無意味だ。これは霊的な攻撃ではない。「言葉」によって、人間の心と体から強制的に気力を奪い取り、自身の存在価値を根底から否定してくる精神へのダイレクトな干渉だ。
「あぁっ……!」
背後から、重いものが床に崩れ落ちる音がした。
振り返ると、松田と竹内さんが、床に這いつくばるようにして倒れ込んでいた。
「竹内さん!」
小野さんが駆け寄ろうとするが、彼女自身も膝に手をつき、顔を苦痛に歪めている。あの圧倒的な陽の気を持つ彼女ですら、この概念の前では立つことすら困難になっているのだ。
「……ダメ、体が……動かない……。私、もっとやらなきゃ……仕事、終わってないのに……」
竹内さんが、うつろな目で虚空を見つめながら、床を這うようにして手を伸ばしている。その瞳には、絶望的な焦燥感が浮かんでいた。
「……苦しい……息が……」
松田も頭を抱え、涙を流している。
「竹内さん、松田! 聞く耳を持つな!」
俺は叫び、青い付箋を展開して彼女たちの周囲に防御の結界を張った。
だが、概念の言葉は結界を易々とすり抜け、容赦なく彼女たちの精神を削り取っていく。
「中川さん……結界、意味がないわよ……! 心が、直接削られていく……っ」
中山先生が壁に背中を預け、必死に立っていようと耐えながら喘ぐ。
ソフィアも木の枝の槍を支えにして立っているが、彼女のアイスブルーの瞳からも、いつもの明るい光が失われつつあった。
「Master……。とっても、重いデス……」
『……オ前タチハ……無能ダ……』
『……会社ノタメニ……ツクセ……!!』
靄がさらに膨張し、部屋全体を埋め尽くそうと迫ってくる。
俺の足も、震え始めていた。
安倍晴明の血筋だろうと、強力な霊力を持っていようと関係ない。俺もまた、この現代社会で働く一人の人間だ。
過去に同僚を過労で失ったトラウマが、この「概念」の言葉に共鳴し、俺の心の奥底に封じ込めた傷を容赦なく抉ってくる。
『お前の代わりはいくらでもいる』
その呪詛が、冷たい刃となって俺の意志を削ぎ落とそうとする。息が荒くなる。視界が歪む。
物理が効かず、浄化も通じず、精神防壁もすり抜ける敵。
今まで築き上げてきた自尊心がボロボロと崩れ落ちそうになる極限の絶望の中で、俺の脳裏に、不意に鮮明な感触が蘇った。
それは、休日の朝、俺のアパートのソファで過ごす、あの黒い毛玉の重みだった。
愛猫のクロ。
あいつは、暖房が十分に効いている部屋でも、どういうわけか俺の体温に異常な執着を見せる。
俺が本を読もうとあぐらをかくと、その足の隙間、ちょうど腹のあたりにすっぽりと収まってくるのだ。俺がページをめくろうと少しでも身じろぎすると、『ミャン』と不満げに鳴き、俺のセーターの隙間にさらに頭をぐいぐいと押し込んでくる。
「重いぞ」と声をかけても、目を閉じたままゴロゴロと喉を鳴らし、前足で俺の太ももをギュッと抱え込む。俺がトイレに行こうと立ち上がれば、不満そうにソファに落ちるが、俺が歩き出した瞬間に足元にまとわりついてくる。そして再び座るや否や、当たり前のように元の定位置――俺の腹の上へとよじ登り、再び香箱を組んで目を閉じるのだ。
片時も離れようとしない、小さな温もりと柔らかな体重。
黒曜石のように滑らかな毛並み。俺の体に預けられた、確かな命の重み。
(……代わりなど、いるはずがない)
あのふてぶてしくも愛おしい黒い毛玉の飯代を稼ぎ、あの絶対的な定位置を提供してやれるのは、世界中で俺だけだ。
俺がここでこの狂ったシステムに押し潰されれば、あの平穏な日常は永遠に失われてしまう。
ギリッ、と奥歯を噛み締める。
俺はフラフラとする両足に無理やり力を込め、靄の前に立ち塞がった。
「中川さん……!? 何をする気……」
小野さんが、掠れた声で尋ねる。
「小野さん。……俺の、この理不尽なシステムへの抗い方を、少しだけお見せします」
俺は、右手に巻いていたネクタイをほどき、床に投げ捨てた。
そして、スーツの内ポケットからスマートフォンを取り出した。
画面をタップし、パスコードを解除する。呼び出したのは、先日新庄社長と交渉の末に受信した『特例雇用契約書』と『業務委託覚書』のPDFデータだ。
相手が幽霊ではなく、労働環境の悪意という概念ならば。
物理的な暴力や霊的な浄化で消し去れない狂ったシステムならば。
俺は、光るスマートフォンの画面を、巨大な黒い靄に向かって高く掲げた。




