第41話 社長室への階段
二月上旬の金曜日。午後5時45分。
外界から完全に遮断された丸の内商事ビル、地下4階に広がる巨大な洞窟。
大穴から無限に湧き出す悪霊の群れに対し、俺と、各部署から集結した仲間たちは、一歩も退かずに正面から押し返していた。
「下がれ、不浄の泥ども」
俺が右手のネクタイを振るい、編み出した清浄な神気の波紋が空間を震わせる。先陣を切って飛び出してきた怨霊たちは、その光を浴びて瞬時にチリチリと音を立てて塵へと還っていく。
その後方では、みゆきやソフィアが放つ強烈な「陽の気」と精霊の加護が、見えない盾となって他のメンバーを悪意の飛沫から守っていた。
俺は懐から数十枚の黄色い付箋を取り出し、それらを霊力で繋ぎ合わせて一枚の巨大な「網」を空中に構築した。そして、両手で複雑な印を結び、瘴気を噴き上げ続ける大穴の真上へとその網を放つ。
「結界展開。――封縛の陣!」
ズンッ! という重い衝撃音と共に、大穴から噴き出していた瘴気の間欠泉が、見えない強固な蓋によって物理的に押さえ込まれた。大穴の奥底で泥の化け物たちが苦悶の声を上げるのが聞こえるが、もはや網を突き破って這い出してくることはできない。
「……ふぅ。一時的な封印ですが、これで源泉は止めました」
俺が息を吐き出すと、背後で塔子が「や、やりましたね……!」とその場にへたり込んだ。
だが、油断はできない。
膝に置いた愛用のノートPCを凄まじい速度でタイピングしていた繭子が、顔を上げて険しい表情を作った。
「……ダメ。異界化の隔離バリア、まだ解けてない。私のジョセフィーヌの解析によると、この大穴はただ呪いを吸い上げる『ポンプ』に過ぎない。……吸い上げた呪いをコントロールして、ビル全体に循環させている『脳』がある」
「脳……?」
「最上階。……社長室のエリアに、尋常じゃないデータ量のバグが密集してる。新庄社長がさっきの通信で焦ってたのも、自分が安全だと思ってた場所に、元凶が実体化しつつあるから」
繭子の報告に、場が静まり返る。
つまり、このダンジョン化の元凶の根を完全に絶つためには、地下の底から一気に地上20階の最上階まで登りきらなければならないということだ。
「……なるほど。元凶の根は、一番高い場所にあるというわけか」
俺は小さく鼻を鳴らした。エレベーターのシステムは異界化の影響で使い物にならない。唯一のルートは、先ほど彼女たちが下りてきた非常階段だけだ。
「行きますよ、皆さん。俺たちの『日常』を取り戻すために」
暗く冷たい非常階段を、一行はひたすら上り続けた。
普段、社内を歩き回っている塔子や、郵便室のフロアを駆け巡っている透子はまだ体力が残っているようだが、ヒールを履いたみゆきや、インドア派の繭子には過酷な道のりだ。
それでも、誰一人として弱音を吐かずについてくる。
10階の中層エリアに差し掛かった時だった。
踊り場のコンクリートの壁がドロドロと溶け落ち、そこから『巨大なスーツの亡霊』が這い出してきた。
そいつは、かつて決算期に現れた過労怨霊が、ビルの濃密な瘴気を吸って再生・巨大化した中ボスだった。顔面には無数の「承認印」が押されており、両手から鋭利な刃物のような書類の束を、マシンガンのように乱射してくる。
「キャアッ! なにこれ!」
先頭を歩いていた透子が悲鳴を上げてしゃがみ込む。
だが、その前にみゆきが進み出た。
「うるさいわね! いつまでウジウジ引きずってんのよ!」
みゆきの堂々たる発声と揺るぎない自信が、見えない圧倒的な音圧となって書類の嵐を相殺し、空中で叩き落とす。さらにソフィアが植物の槍を振るって、残った紙の刃を物理的に弾き飛ばした。
俺はその見事な連携によって生じた隙を見逃さない。
「水行――水刃の型」
指先から放たれた極低温の水の刃が、亡霊の巨体を縦に両断する。水を吸って重くドロドロになった書類の束と共に、過労の怨霊は悲鳴を上げる間もなく泥のように崩れ去った。
さらに階段を上り、15階付近の高層エリア。
今度は、かつての株主総会の時に現れた『強欲な株主の生霊』が、複数の怨念と融合した黄金色の巨大なスライムとして階段の道を塞いでいた。
そいつは物理的な打撃をブヨブヨと吸収し、階段の鉄の手すりを溶かすほどの強酸の涎を垂らしながら迫ってくる。
「うわっ、近づいただけで肌がヒリヒリするわ!」
塔子が顔をしかめて後ずさる。
「……これでも食らいなさい」
産業医の杏子が、躊躇なく高濃度の消毒用エタノールのボトルを取り出し、スライムの顔面めがけて中身をぶちまけた。同時に、アリーナが抽出を失敗した激苦のコーヒー粉末を力いっぱい投げつける。
強烈なアルコールと刺激臭、そして塩の浄化作用に、スライムが苦悶に身をよじって致命的な隙を見せる。
俺はその瞬間、赤い付箋を放った。
「燃え散れ。――極上フランベ」
エタノールに引火した真紅の爆炎が、階段の踊り場を凄まじい熱風で包み込み、強欲な黄金のスライムを一瞬にして完全に蒸発させた。
息つく暇もない。
ついに最上階の手前、19階の廊下に出た瞬間だった。
空間が異様に歪み、重力が倍になったかのような凄まじい圧迫感が俺たちを襲った。
現れたのは、かつて最上階の役員会議室でシャンデリアを落下させようとした『権力闘争の敗残霊』の変異体だった。
左遷された者たちの怨念が、ドス黒い重力場を伴った巨大な顔のない影となって、俺たちを床に押し潰そうと睨み下ろしてくる。
強烈な重力異常で、透子やアリーナが床に手をついて咳き込み始めた。
「……空間座標、固定。演算リソース、全振り」
繭子が重圧に耐えながらキーボードを限界まで叩き、敗残霊の周囲にノイズのようなデジタル結界を展開する。電子の防壁が怨霊の放つ重力場をハッキングし、その動きをまるでスローモーションのように遅延させた。
「見事だ、石田」
俺は首元のネクタイを外し、そこに金行の術理を極限まで流し込む。柔らかい布地が、瞬時に鋼鉄の強度を持つ鋭利な断層へと変化した。
「過去の栄光にしがみつく老害に、いつまでも付き合っている暇はない」
俺は重力場を強引に蹴り破り、影の懐へと一気に潜り込む。
鋼のネクタイが一閃し、空間の歪みごと敗残霊の巨体を完璧に十字に斬り裂いた。怨霊は絶望の叫びを上げる間もなく、光の粒子となって霧散していく。
「……はぁ、はぁ……中川さん、やりましたね」
塔子が壁に手をつきながら、肩で息をしている。
全員、疲労困憊だ。だが、その瞳に宿る熱い光は誰一人として消えていなかった。
俺たちはついに、地上20階。最上階の社長室へと続く、重厚なマホガニーの扉の前に到達した。
扉の隙間からは、今までの中ボスたちとは比較にならない、創業者の狂気にも似た底知れぬプレッシャーが、絶対零度の冷気となって漏れ出している。
ドアノブには霜が張り付き、この部屋の奥に座する元凶の強大さを物語っていた。
「……皆さん」
俺は振り返り、満身創痍の仲間たちを見渡した。
「ここから先が、この異界の『脳』――すべての元凶です」
俺がそう告げると、塔子が一歩前へ進み出た。
「行きます。私たちも一緒に」
彼女の大きな瞳には、一欠片の迷いもなかった。
「あの時、私が中川さんを守るって約束しましたから。総務の責任者として、この会社のバグを最後まで見届けます」
「当然よ。特ダネを見逃す広報なんていないわ」とみゆきが笑う。
「Masterナカガワ! 最後までお供しマス!」とソフィアが続く。
透子、杏子、繭子、アリーナも、力強く頷いた。
俺の言葉に従って後ろで待機するような、大人しい女たちではないことはとうに分かっていた。彼女たちが放つ圧倒的な生命力と陽の気こそが、俺の陰陽術を最大出力へと引き上げる最強の触媒なのだ。
「……わかりました。皆さんの背中は、俺が守ります」
俺は小さく微笑み、社長室の氷のように冷たいドアノブに手をかけた。
深呼吸をする。
極寒の空気を肺に吸い込みながら、俺の脳裏に、ある温かい光景が鮮明に浮かび上がった。
今頃、アパートの部屋で、クロは腹を空かせて俺の帰りを待っているだろうか。
無事に帰還して玄関のドアを開ければ、待ちきれない様子でトコトコと駆け寄り、『ミャァン』と甘えた声で鳴きながら、俺の足首にすりすりと頭をこすりつけてくるはずだ。
俺がしゃがみ込めば、迷うことなく胸元に飛び込んで、あの温かく柔らかな肉球で、交互にリズミカルな『ふみふみ』をしてくれる。
喉の奥で鳴らす、安心しきったゴロゴロというモーター音。
あんなにも愛おしく、温かい小さな家族が、俺の帰りを待っているのだ。
(……絶対に定時退社して、あの温もりの元へ帰る)
その強烈な帰還への執念が、俺の丹田から底知れぬ霊力を引き出した。
凍りついたドアノブが、俺の放つ熱量でジュワッと音を立てて溶ける。
「行こう。この理不尽な残業を、終わらせに」
俺たちは一つに重なった足音と共に、元凶の待つ社長室の扉を力強く蹴り開けた。




