第40話 反撃の狼煙
暗黒の階段を下りる足音が、冷え切ったコンクリートの壁に反響している。
俺と竹内塔子、松田透子の三人は、長いダンジョン潜行の末に、ついにビルの最深部である巨大な地下洞窟へと辿り着いた。
圧倒的な瘴気の濃度。息をするだけで肺の奥が凍りつくような冷気。
目の前に広がっていたのは、もはや近代的なオフィスビルの地下とは思えない、広大で不気味な空間だった。
むき出しの岩肌は赤黒く変色し、まるで巨大な生物の内臓に迷い込んだかのような錯覚を覚える。
そして、その中央には、直径数十メートルにも及ぶ巨大な『大穴』がポッカリと口を開けていた。
大穴の底からは、どす黒い瘴気が間欠泉のように勢いよく噴き出している。
これが、創業以来五十年間にわたって蓄積された会社の負の念と、この丸の内という土地が古くから抱える業が結びついて生まれた、呪いの源泉だ。
「な、なんですか……あの穴……。見ているだけで、頭がおかしくなりそうです……」
塔子が顔面を蒼白にし、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えている。
「中川さん……あそこから、やばいのがいっぱい出てきます……!」
透子が悲鳴のような声を上げた。
彼女の言う通り、大穴の縁から、ズブズブと音を立てて無数の悪霊たちが這い上がってきていた。
顔のない泥の人形、歪んだスーツ姿の怨霊、そして獣のような形をした怨念の塊。それらの中には、かつて俺がこのビルで祓ってきた「マウントを取る霊」の巨大な顔や、「お局の生霊」の無数の腕、さらには「コピー機の付喪神」の鋭い装甲をまとったような、キメラのように融合した悪意の結晶も混じっている。
その数は、数十、数百。
俺たち三人は、あっという間に広大な洞窟の中で、悪霊の軍勢に完全に取り囲まれてしまった。
『……ココハ……ワレワレノ、領域ダ……』
『……イケニエ……新シイ、生贄……!!』
全方位から押し寄せる殺気。
さすがにこの数を、塔子と透子を守りながら俺一人でさばき切るには、少々骨が折れる。
俺が右手に巻き付けたネクタイに強力な神気を練り込み、広範囲の殲滅術式を展開しようとした、その時だった。
「――そこまでよ! 陰湿な泥人形ども!」
洞窟の反対側の岩壁から、凛とした怒号が響き渡った。
同時に、眩いばかりの強烈な「陽の気」が爆発し、密集していた悪霊の群れの一部が、まるで強い光を浴びた虫のようにジリジリと後退していく。
「ああっ! 小野先輩! それにソフィアさんも!」
塔子が歓喜の声を上げた。
暗がりの中から現れたのは、広報部の小野みゆきと、受付嬢のソフィア・イェゲルだった。
みゆきは汚れ一つないヒールを鳴らし、堂々たる足取りで瘴気を弾き飛ばしながら歩いてくる。その横では、ソフィアが巨大な観葉植物の枝を槍のように構え、金色の髪をなびかせていた。
「非常階段の裏ルートを下りてきたら、見事に合流できたわね。……まったく、エントランスのバケモノを全部片付けてやったのに、次から次へと湧いてきてキリがないわ!」
みゆきは忌々しそうに周囲の悪霊たちを睨みつける。
「Masterナカガワ! お待たせしマシタ! 先月、冬の休日に銀座で回転スシ・デートをした時、私が地下から嫌な匂いがすると言った通りになりマシタネ!」
ソフィアがウインクを飛ばす。
「ああ。あなたの直感の鋭さには恐れ入るよ」
霊感のない彼女が、なぜかこの魔窟で生き残り、迷うことなく俺たちの元へ辿り着けた理由。それは、彼女が無意識に自然の精霊と繋がり、危険を回避する天性の力を持っているからに他ならない。彼女の持つ植物の槍からは清浄な空気が放たれ、周囲の瘴気を確実に押し返していた。
「無事で何よりです。ですが、危険な最下層にわざわざ降りてくるとは……」
俺が言いかけた言葉を遮るように、今度は別の方向から、聞き慣れた気だるげなアルトボイスが響いた。
「あら、私たちもいるわよ」
洞窟の奥の岩陰から、白衣姿の中山杏子と、黒い私服姿のアリーナ・ヴィルカスが姿を現した。
「中山先生! アリーナまで!」
透子が飛び跳ねて喜ぶ。
「8階の保健室にいた解体業者たちは、全員の意識が回復したから、結界を張って安全な場所に閉じ込めておいたわ。……で、私とアリーナで下の様子を見に来たら、この惨状ってわけ。医学的に見ても、最悪の病原菌の巣窟ね」
杏子はそう言って、白衣のポケットに手を入れたまま、大穴を見据えた。彼女がまとう医学的リアリズムのオーラは、不浄な怨念を近づけさせない強固な理性の結界として機能している。
「特製のコーヒー粉を燻らせて、浄化の香りを漂わせながら進んできたから、道中の雑魚は近寄ってこなかったわよ。バリスタの必需品が役に立ったわ」
アリーナが手元の小瓶を揺らしながら不敵に笑う。なるほど、彼女らしいスマートで物理的な防衛策だ。
さらに。
「……遅い」
俺の足元の岩の陰から、ボソボソとした声がした。
見下ろすと、オーバーサイズのパーカーのフードを深く被った石田繭子が、愛用のノートPCを抱えながらうずくまっていた。
「石田、お前まで地下1階のMDF室から出てきたのか」
「……当たり前。私の構築したデジタル結界を使えば、空間の歪みなんてハッキングしてショートカットできる。……それに、ここがネットワーク異常の『震源地』。私のジョセフィーヌを汚す元凶は、この目で破壊を見届けないと気が済まない」
繭子は青い瞳をギラギラと光らせている。
広報、総務、受付、郵便室、社内SE、保健室、社内カフェ。
丸の内商事の各部署で、それぞれの得意分野と強烈な個性を武器に戦ってきた彼女たちが、この暗黒の最下層に全員集結したのだ。
「……まったく。無給の業務に、よくもまあこれだけ首を突っ込んでくるものだ」
俺は呆れたように息を吐き出したが、内心では彼女たちの到着に深く安堵していた。
この圧倒的な悪霊の数と、底知れぬ呪いの源泉。俺一人なら突破口を開くことはできても、背後の人間を守り切れる保証はなかった。だが、これだけ強烈な個性が集まり、それぞれの「陽の気」が結びつけば、巨大な相乗効果を生み出すことができる。
「中川さん! これでみんな揃いました! 私たち、どうすればいいですか!?」
塔子が、すっかり生気を取り戻した声で俺に指示を求めてきた。
俺は周囲をぐるりと囲む悪霊の軍勢を一瞥し、それから大穴の底を見据えた。
「皆さんに、お伝えしておかなければならない事があります」
俺は懐からスマートフォンを取り出し、その画面を彼女たちに向けた。
そこには、先ほど新庄社長と交わしたばかりの電子契約書のPDFが表示されている。
「先ほど、最上階の社長と交渉し、俺の契約内容を大幅に更新しました。……現在の俺の時給は、皆さんが知っている額の四十倍強――五万円です。そして、このビルを異界化から救った暁には、破格の特別危険手当が支払われる約束になっています」
「「「ご、五万円!?」」」
事情を知らなかった杏子やみゆきたちが、驚愕の声を上げる。
「ええ。つまり、ここから先の俺の労働は、ただの自己犠牲でもボランティアでもない。完全に『会社公認の、正規の報酬を伴う業務』だということです」
俺はスマホをポケットにしまい、右手のネクタイを強く握り直した。
「陰陽五行において、人間の持つ前向きな欲望や希望は最大の『陽』となります。俺は、俺の受けた仕事を完璧に遂行する。そのためには、皆さんのそのモチベーションと行動力が必要です」
俺の言葉に、彼女たちは一瞬の沈黙の後、それぞれに不敵な笑みを浮かべた。
「ふふっ。高い報酬に見合った働き、期待してるわよ、中川さん」と杏子が言う。
「広報部としても、会社を救うエースの活躍は見逃せないわね!」とみゆきが腕を組む。
「Masterの指示なら、どこまでもついて行きマスヨ!」とソフィアが槍を構える。
「私も、特上カルビのために頑張ります!」と透子が拳を握る。
「……サーバーの復旧が最優先。邪魔なバグは全部デリートして」と繭子がタイピングの構えをとる。
「熱々のエスプレッソ、いつでもお見舞いしてあげるわ」とアリーナが言う。
「総務部として、全力でサポートします!」と塔子が頷く。
彼女たちの声が重なり合い、その場に凄まじい「陽の気」の渦が生み出された。
それは、大穴から噴き出す悪意の瘴気をも押し返すほどの、強力な人間の生命力と意志の結界だった。
『……コザカシイ……ニンゲンドモメェェェッ!!』
悪霊の群れが、俺たちの放つ光に恐れをなし、同時に怒り狂って一斉に襲いかかってきた。
「さあ、反撃の時間です」
俺は左手でポケットから数枚の赤い付箋を取り出し、空中に向かって勢いよく投げ放った。
付箋は俺の術理と、背後の彼女たちから供給される莫大な陽の気を受けて爆発的に燃え上がり、暗黒の洞窟を真紅の炎で照らし出す。
丸の内商事・最終防衛戦。
最高の条件に見合った結果を叩き出すため、俺たちは悪霊の渦巻く深淵へと一斉に駆け出した。




