第39話 再契約交渉
二月上旬の金曜日。午後5時32分。
丸の内商事の本社ビル地下4階に広がる、氷点下の暗黒空間。
俺の全身から爆発的に噴き出した青白い霊力の炎は、洞窟のような地下空間を真昼のように照らし出していた。
その神聖な光と圧倒的な熱量に当てられ、泥の沼から這い出してきた数十体の『旧経営陣の亡霊』たちが、一斉に腕で顔を覆って後ずさる。
「さて。残業代の分、きっちり働かせてもらうぞ」
俺は右手に巻き付けたネクタイを低く構え、眼鏡の奥の目を鋭く見開いた。
亡霊たちは、自分たちが生前手放した『権力』や『地位』に対する猛烈な執着から生まれたバケモノだ。彼らの空洞になった顔の奥には、どす黒いルサンチマンの炎が渦巻いている。
『……コザカシイ……! ハケンゼイガ、我々ニ、サカラウカァァァッ!』
『……消セ! コノ会社ハ、俺タチノモノダァァァ!』
数体の亡霊が咆哮を上げ、鋭い爪を持つ泥の触手を鞭のように振るって四方八方から襲いかかってきた。
俺は一歩も退かず、右手のネクタイを一閃する。
パァァァンッ!
青白い軌跡を描いた一撃が、迫り来る三本の触手をまとめて切断した。切断面からは黒い瘴気が噴き出すが、俺の霊力の炎に触れた瞬間に「ジュワッ」と蒸発していく。
「お前らの時代は、とっくに終わっている。過去の栄光にしがみついて、今の社員たちの足を引っ張るな」
俺は左手でポケットから、数枚の『白い付箋』を取り出した。
そして、それらを扇状に広げ、空中に向かって放り投げる。
「結界展開。――白刃の陣」
宙に舞った白い付箋が、俺の呪力を受けて鋭利な光の刃へと変貌する。
俺が指先を振り下ろすと同時、光の刃は嵐のように亡霊たちの群れへと降り注いだ。
ズシャァァァッ! という生々しい切断音が地下空間に響き渡る。
『グギャアアアアッ!?』
『イタイッ……! ハズサレル……俺ノ、ヤクインバッジガァァァッ!』
光の刃は、亡霊たちの霊体を物理的に切り刻むのではなく、彼らが胸元にすがりつくようにして光らせていた『役員バッジ』を的確に破壊していった。
権力の象徴を失った亡霊たちは、風船がしぼむように次々とその巨体を崩壊させ、ただの黒い泥の塊となって沼の底へと溶けていく。
「……信じられない。あんなにたくさんいたバケモノが、たった数秒で……」
背後で、総務部の竹内塔子が呆然と呟く声が聞こえた。
「中川さん、強すぎですよぉ……! まるでアクション映画みたい!」
郵便室のアルバイト、松田透子も目を丸くして歓声を上げている。
俺は残った最後の数体をネクタイの連撃で沈め、深く息を吐いてから、全身のオーラを内側へと収めた。
周囲は再び薄暗い空間に戻ったが、先ほどまで空気を重くしていた吐き気のするような瘴気は、すっかり浄化されて消え去っていた。
「……終わりましたよ。お怪我はありませんか」
俺が振り返って声をかけると、塔子は弾かれたように立ち上がり、そして、ハッとして顔を真っ赤に染めた。
先ほど、帰ろうとした俺の腰に後ろからしがみついて、泣いて引き止めたことを思い出したのだろう。
「は、はいっ! 私は大丈夫です……! あ、あの、さっきは取り乱して抱きついたりして、本当にごめんなさい……!」
塔子は両手で顔を覆い、身をよじらせて恥ずかしがっている。
「構いませんよ。ですが、あなたが俺を引き止めたことで、俺の契約更新の責任は、あなた個人の負債にもなりましたからね」
「うっ……! はい、責任は取ります! 私の貯金、全部崩してでも……」
「現金は必要ありません」
俺は歩み寄り、顔を赤くしている塔子の目を見据えた。
「この異界化が完全に収束して、無事に外へ出られたら。……以前、あの幻覚のレストランであなたが約束した通り、銀座で一番高いお肉の店で、ディナーデートに付き合ってもらいます。もちろん、竹内さんの奢りでね」
その言葉に、塔子はピクリと肩を震わせ、覆っていた手の隙間から大きな瞳を覗かせた。
「……デート……。それって……」
「俺は高い肉を食べる。竹内さんはその支払いをする。完璧なデートでしょう?」
「もう! そういう言い方すると、ただのたかりみたいじゃないですか!」
塔子は涙目で抗議しながらも、その口元は嬉しそうにほころんでいた。
「……でも、はいっ。約束します。最高のディナーをご馳走しますから、絶対に生きて帰りましょうね!」
「えーっ!? ちょっと塔子さんだけズルいですよ! 私も! 私も特上カルビの約束まだ生きてますからね! 三人で焼肉デートにしましょうよ!」
空気を読まない透子が、俺と塔子の間に割り込んでピーチクパーチクと騒ぎ始めた。
先ほどの絶望的な空気が、彼女たちの明るさによって少しだけ和らいだ。
これなら、最深部へ向かう精神力は十分に残っているだろう。
俺がネクタイを首に巻き直し、歩き出そうとした、その時だった。
――ピリリリリリリッ!
俺の胸ポケットに入っていたスマートフォンが、けたたましい着信音を鳴らした。
アラームではない。内線通話の着信だ。
こんな異界化して外部から隔離されたダンジョンの地下4階で、通信が繋がるはずがない。繋がるとすれば、このビルのネットワークを完全に掌握し、独自の『デジタル結界』の中からルートを繋ぐことができる、あの引きこもりの社内SEしかいない。
「はい、中川です」
俺が電話に出ると、予想通り、石田繭子のボソボソとした声が聞こえてきた。
『……中川さん。無事?』
「ああ。旧経営陣の残党は片付けた。……で? どうして直接電話なんかかけてきた。チャットで済む話だろう」
『……私じゃない。……この人が、どうしても直接話したいって言って、私のサーバー室に強引に割り込んできたの』
繭子の声が少し苛立っている。
次の瞬間、電話の向こうの音声が切り替わり、低く、威圧感のある壮年の男の声が響いた。
『……中川くんか。新庄だ』
俺は僅かに目を細めた。
新庄。丸の内商事の新社長であり、「コストカッター」の異名を持つ合理主義の権化。そして、このビルを異界化させた『地下の封印解除』を業者に指示した張本人だ。
「……新庄社長。ご無事だったのですね。最上階の社長室から、どうやってこの通信を?」
『石田君の構築した独自のイントラネット回線を使わせてもらった。……私は最上階の監視ルームで、石田君が繋いだ君たちのスマートフォンのカメラ越しに、その活躍を見ていたよ。君がただの備品管理の派遣社員ではないことは、よく分かった』
社長の声には、焦りと、それを必死に取り繕おうとする経営者特有の傲慢さが混じっていた。
『単刀直入に言う。このビルの異常事態……バケモノが徘徊し、外に出られないこの状況を、君のその不思議な力で解決してくれ。元凶は、あの地下の最深部にあるのだろう?』
「……ええ、おっしゃる通りです。ですが、社長。このまま無条件で引き受けるわけにはいきません」
『なっ……!?』
俺の冷酷な返答に、電話の向こうで社長が息を呑む音が聞こえた。
「先ほど竹内さんとは『総務の権限での大幅な待遇改善』を条件に、一時的な契約延長に合意しました。ですが、まだ社長の正式な決裁が下りていませんよね。つまり、法的には非常にグレーな状態です。このまま私が命懸けで事態を収拾しても、後で『そんな契約は無効だ』と反故にされては困るんです」
『ま、待て! 金なら出す! この事態を収拾してくれたら、君を即座に正社員として役員待遇で迎えてやる! 給料も今の何倍も払おう!』
社長が必死に食い下がる。
だが、俺は鼻で笑った。
「正社員の責任や、役員としての重圧など御免です。私は、自分の生活と平穏な日常を守るために働いている。会社に縛られる生き方は、もうごめんなんですよ」
『なら、どうすればいい! このまま会社が呪いの海に沈むのを見過ごすというのか!』
怒鳴る社長に対し、俺は氷のように冷たい声で条件を提示した。
「要求は二つです。一つは、私の『派遣社員としての時給』を、現在の金額から大幅に引き上げ――時給五万円とし、永続的な契約更新を会社として確約すること」
『時給、五万だと!?』
俺の横で聞き耳を立てていた塔子と透子が、「ごまんえん!?」と素頓狂な声を上げた。
『馬鹿な! 非正規の社員にそんな額を払えるわけがないだろう! 株主になんて説明する気だ!』
「コストカッターのあなたなら、無駄な役員報酬を一つ二つ削れば捻出できる額でしょう。……そして、もう一つの要求」
俺は言葉を切らずに畳み掛ける。
「この異界化を完全に解決し、ビルを元通りにした際の『特別危険手当』として、金一封――五千万円を一括で支払うこと。これが、私がこの世界を救うための、正式な契約条件です」
『ふざけるな! 足元を見おって! そんな無茶苦茶な金額の稟議が通るわけがないだろう!』
「なら、交渉は決裂です。私は自前の隠密結界で身を隠し、誰かが助けに来るまで安全にやり過ごすか、自力で脱出しますので。……会社と一緒に、呪いの底へ沈んでください」
俺が通話を切ろうとした瞬間。
『ま、待てぇっ!!』
受話器の向こうから、悲鳴のような声が飛んできた。
『……分かった。……払おう。その破格の時給でも、五千万の手当でも払う! だから、頼む……この会社を、私のキャリアを終わらせないでくれ……!』
エリート社長が、完全にプライドを捨てて降伏した瞬間だった。
俺は口角をわずかに上げ、言葉を紡ぐ。
「口頭では証拠が残りません。石田、聞いていますね?」
『……聞いてる。録音もバッチリ』
「今すぐ、今の条件を明記した『特例雇用契約書』および『業務委託覚書』の電子データを作成し、社長の電子署名を入れて私の端末に送信してください」
数秒後。
ピロリン、という間の抜けた通知音と共に、俺のスマホの画面にPDFファイルの受信通知が表示された。
ファイルを開くと、そこには新庄社長の正式な電子署名と社印が入った、俺の要求通りの完璧な契約書が表示されていた。
「確認しました。……再契約、確かに結びましたよ、社長」
『……頼んだぞ、中川くん。……必ず、元凶を絶ってくれ』
「ええ。これからは、名実ともに『会社公認の残業』ですからね。新しい契約の分、キッチリ働かせてもらいますよ」
俺は通話を切り、スマートフォンをポケットにしまった。
塔子と透子が、ポカンと口を開けたまま俺を見つめている。
「な、中川さん……本当に、そんな信じられない金額になっちゃったんですか……?」
「五千万って……それ、一生遊んで暮らせるじゃないですか……!」
「言ったでしょう。俺は自分の労働の安売りはしないと。これだけの危険を冒すんです。これでも安い方ですよ」
俺は首のネクタイを緩め、大きく息を吸い込んだ。
莫大な報酬の確約。そして、この魔窟に取り残された仲間たちの命。
やるべき理由は、完全に揃った。
「さあ、行きましょうか、お二人とも。ここから先が、本当の『底』です」
俺は振り返り、すべての元凶が待ち受ける、最下層の扉を見据えた。
アパートで待つクロの元へ帰るため。そして、塔子とのディナーの約束を果たすため。
俺たちは並んで、暗黒の最下層へと続く、見えない階段を静かに下りていった。




