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第38話 契約更新の危機

 現在。二月上旬の金曜日。

 異界と化した丸の内商事本社ビル、地下4階。


 俺と、総務部の竹内塔子、そして郵便室の松田透子の三人は、分厚い鋼鉄の隔壁を抜け、ついにビルの最深部――完全な暗黒の空間へと足を踏み入れていた。


 一歩進むごとに、足元のコンクリートがぬかるんだ泥のような感触に変わっていく。

 空気は氷点下のように冷たく、吐く息が真っ白に染まる。だが、それ以上に恐ろしいのは、空間そのものが持つ霊的な「圧力」だった。

 全身の骨が軋むような重圧。霊感のない塔子や透子でさえ、息苦しさに肩で息をしている。


 この張り詰めた暗闇の中を進みながら、俺の脳裏には、先月中旬に透子と過ごした休日の出来事が不意に蘇ってきていた。

 俺は彼女の『買い出しに付き合ってくれたら、今度仕事を手伝う』という口約束に騙され、休日の原宿・竹下通りの凄まじい人混みの中で、荷物持ちという名のデートもどきに付き合わされていた。

 クレープやら綿あめやらを大量に平らげる彼女を呆れて眺めていた時、不意に透子が『中川さんって、いつまでウチの会社にいるんですか?』と尋ねてきたのだ。

 俺は『二月の第一週の金曜日までだ。その後については、総務部長の更新の決裁が下りていないから未定だ』と事実を答えた。

 それを聞いた透子は、ひどく真剣な顔をして俺の袖を掴み、『いなくならないでくださいよ。私、中川さんがいない会社なんて絶対につまんないですから』と言い放ったのだ。


 あの時の彼女の真っ直ぐな言葉が、こんな絶望的な魔窟の底で妙にリアルに思い出される。

 俺は、鼻をつく強烈な腐敗臭によって、透子との買い出しの記憶から現実に引き戻された。


「……中川さん、前の方で、何か……光ってます……」


 塔子が俺の背中を掴んだまま、震える声で前方を指差した。


 暗闇の奥。

 青白い、人魂のような光がいくつも揺らめいている。

 そして、その光に照らし出されるようにして、泥の沼の中からズブズブと「黒い人影」が這い上がってきた。


『……ヨクモ……ヨクモ……!』

『……俺タチノ、会社ヲォォォ……!』


 現れたのは、ボロボロの高級スーツを身に纏い、顔の部分が空洞になった亡霊たちだった。その数は十、二十ではない。

 胸元には、役員バッジが不気味に光っている。


「あれは……! 前の社長派だった、旧経営陣の役員たちです! なんで、あんな姿に……!?」


 塔子が悲鳴のような声を上げた。

 彼女の言う通り、彼らはこの秋の派閥争いで失脚し、会社を去っていった者たちだ。


「彼ら自身ではありません。彼らがこの場所に落としていった『権力への執着』と『新体制への怨み』が、地下に溜まっていた邪気を吸って実体化したんです。……まさに、腐った社内政治の成れの果てですね」


 俺は冷静に分析しながら、右手に巻き付けたネクタイに霊力を流し込んだ。

 役員の亡霊たちは、俺たちを侵入者と認識し、泥の沼を蹴立てて一斉に襲いかかってきた。

 腕が異様に伸び、鋭い爪となって俺たちを切り裂こうとする。


「下がって!」


 俺は前に飛び出し、ネクタイの鞭を一閃した。

 青白い霊力の軌跡が空気を切り裂き、先頭の亡霊の腕を両断する。


『ギィィィッ!』


 亡霊が後退するが、すぐに後ろから別の亡霊が飛びかかってくる。


「結界展開。――水行、土行の陣!」


 俺はポケットから青と黄色の付箋を撒き散らし、目前に不可視の防壁を形成した。亡霊たちの爪が防壁に激突し、火花を散らす。

 だが、敵の質量が多すぎる。防壁がミシミシと軋み始めた。


(……チッ、数で押し切る気か)


 俺が強力な浄化の術式を編み上げようと、左手で印を結ぼうとした、その瞬間だった。


 ――ピピピピッ、ピピピピッ。


 俺の胸ポケットに入っていたスマートフォンが、間の抜けた電子音のアラームを鳴らした。


「……ん?」


 俺は動きを止め、スマホを取り出して画面を見た。

 表示されている時刻は『17:30』。

 そして、カレンダーの日付は、二月の第一週の金曜日。


 俺は小さく息を吐き、結んでいた印をスッと解いた。

 そして、襲い来る亡霊たちの群れに背を向け、塔子と透子の方へ振り返った。


「……竹内さん」

「えっ? は、はい! なんですか中川さん! 早くあいつらをやっつけてください!」


 塔子がパニックになりながら叫ぶ。


「残念なお知らせがあります」


 俺はスマホの画面を塔子に向け、極めて事務的な、冷淡なトーンで告げた。


「本日の午後5時30分――つまりたった今をもって、私の丸の内商事との派遣契約は、期間満了となりました」

「……はい?」

「次回の更新手続きの書類、まだ部長の決裁が下りていませんでしたよね。つまり、今の私はこの会社の従業員ではありません。これ以上の業務の継続は、法的に不法就労となります」

「え……? ええええっ!?」


 塔子が目をまん丸にして、間の抜けた声を上げた。

 透子も「ちょっと中川さん、何言ってんですか!?」と叫ぶ。


「そういうわけです。契約は終了しましたので、帰ります」


 俺はネクタイを首に戻し、乱れたワイシャツの襟を正して、出口の方へと歩き出そうとした。


『……ニガス……カァァァッ!!』


 亡霊の一体が、俺の背後から鋭い爪を振り下ろしてくる。

 俺は首をわずかに傾けてそれを躱した。爪は俺の肩の横を掠め、コンクリートの床を深くえぐった。


「おい、やめろ。今の俺は一般人だ。契約外のダメージは労災が下りない」


 俺は忌々しそうに亡霊を睨みつけ、あくまで「回避」のアクションしか取らない。

 防壁の付箋も霊力供給を絶たれて剥がれ落ち、亡霊たちが塔子たちの数メートル手前まで迫ってきている。


「ま、待ってください中川さん! こんな所で帰るなんて無理です! 死んじゃいます!」


 塔子が半泣きで俺の腕にすがりついてきた。


「無理ではありません。俺には自前の強力な隠密結界があります。大穴を塞がなければこのビルから完全に脱出できないのは事実ですが、俺一人なら、この地下の片隅で気配を絶ち、誰かが事態を収束させるまで安全にやり過ごすことは可能です。竹内さんは正社員ですから、自己責任で会社を守ってください。アルバイトの松田は……まあ、自力で逃げ延びることですね」


 俺は塔子の手を優しく、だが冷酷に引き剥がした。

 契約は終わったのだ。これ以上、無給で命を懸ける義理はない。

 俺が歩みを進めようとした、その時。


「行かないでくださいっ!!」


 塔子が、俺の腰のあたりに両腕を回し、後ろから力強く抱きついてきた。

 彼女の体がガタガタと震え、背中に熱い涙が押し付けられるのがわかった。


「……竹内さん、離れてください。服が汚れます」

「嫌です! 離しません! ……私、中川さんがいないと……この会社を、みんなを守れません!」


 塔子の悲痛な叫び声が、地下の暗黒空間に響き渡った。

 亡霊たちのうめき声を打ち消すような、必死の懇願。


「私、ずっと強がってました……。総務の責任者として、私がみんなを守らなきゃって。でも、本当は怖くて、怖くて仕方なかったんです! 中川さんが隣にいてくれたから、今まで立っていられたんです!」


 彼女の涙声は、限界を超えていた。


「契約なんて関係ありません! 中川さんは私の大切な部下で……私にとって、一番頼りになる人なんです! だから、お願いです、行かないで……私を置いていかないでください……っ!」


 俺は足を止めた。

 腰にしがみつく塔子の細い腕には、彼女の全存在を懸けたような強い力がこもっていた。

 霊感のない一般人の女性が、こんなバケモノの巣窟のド真ん中で、なりふり構わず泣いて引き止めている。

 こんなブラック企業のために、そして俺のような態度の悪い派遣社員のために、ここまで必死になれるなんて。


(……本当にお人好しで、馬鹿な女だ)


 俺は小さく、深く、ため息をついた。

 このまま一人で隠れ潜み、事態の好転を待つのは簡単だ。だが、この泣きじゃくる上司と、背後で怯えている透子を見捨てて得られる安全に、何の価値があるのだろうか。


「……竹内さん」


 俺は静かに口を開いた。


「ひぐっ、はい……」

「俺をここで雇い続けるなら、それ相応の条件が必要です。……この異常な労働環境を浄化するための『特別危険手当』と『大幅な待遇改善』。総務の権限で、今ここで確約できますか?」


 俺の言葉に、塔子はハッと顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、力強く頷いた。


「払います! 会社が払わなくても、私が一生かけて払いますから! だから……っ!」


「一生は重すぎます。せいぜい次の契約更新までのボーナスで結構です」


 俺は塔子の腕をそっと外し、振り返った。

 そして、首元で緩めていたネクタイを、再び右手にきつく巻き直す。


「――契約更新、承りました」


 ゴオオオオオオオオッ!!


 俺の全身から、先ほどとは比べ物にならない、純度の高い青白い霊力の炎が爆発的に立ち昇った。

 その神聖な光と熱量に当てられ、目前まで迫っていた亡霊たちが『ギィィィッ!?』と恐怖の声を上げて後ずさる。


「残業代の分、きっちり働かせてもらいますよ」


 俺は眼鏡の奥の目を鋭く見開き、亡霊の群れを見据えた。


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