第37話 裏切り者は誰だ
冷え切ったコンクリートの非常階段を、一段また一段と下りていく。
地下深くへ進むにつれて、肺を刺すようなカビとヘドロの入り混じった腐敗臭が濃くなり、俺の意識を微かに現実から引き剥がそうとする。
足元のコンクリートには霜が降り、壁からはどす黒い水滴が不気味な脈動と共に滲み出していた。物理的な温度低下というよりも、周囲に充満する強大な怨念が、空間の熱――すなわち『陽の気』を根こそぎ奪い取っている霊的な冷気だ。
「……中川さん。すごく寒いです。息が白くなってきました……」
俺の背中を掴む総務部の竹内塔子と、郵便室の松田透子が、身を寄せ合いながらガタガタと震えている。
「もう少しの辛抱です。足元に気をつけて」
俺は右手に巻き付けたネクタイから微弱な青白い霊力を放ち、彼女たちを冷気から守るように進んだ。
このどんよりと淀んだ空気のせいだろうか。俺の脳裏には、数週間前の休日に、社内カフェのバリスタであるアリーナ・ヴィルカスと過ごした時間のことが不意に蘇ってきていた。
清澄白河にある、古い倉庫をリノベーションしたサードウェーブ系のロースタリーカフェで、彼女が淹れてくれたパナマ産のゲイシャ種を、口の中で静かに転がしていた時のことだ。ジャスミンのようなフローラルな香りと柑橘系の酸味を堪能する俺に対し、ロックテイストの私服を着こなした彼女は、不意に声を潜めて警告してきたのだ。
『私、毎日役員会議にコーヒーを運んでるでしょ。最近、新社長の地下倉庫改修案に異常に熱心な「旧体制側の役員」にラテアートを描いた時、ミルクの泡が勝手に歪んで「蛇」や「蜘蛛」みたいな不吉な模様に変わったのよ』
アリーナの描くラテアートには、飲む人間の数時間後の運命を暗示する力がある。
そのルールに則るならば、蛇や蜘蛛といった毒牙を持つ不吉な模様は、その役員自身が近いうちに強大な呪いや罠に見舞われる――あるいは、自らがその呪いの深淵に関わり、破滅に向かっていく明確なサインだったのだろう。
(……この会社の上層部には、ドス黒い何かを企んでいる人間がいる。アリーナの忠告は、完全に的中していたというわけだ)
非常階段に反響する、三つの足音。
俺は思考を現在に戻し、階段の踊り場で足を止めた。
ここは地下2階と地下3階の中間地点。
目の前には、天井から床までを完全に塞ぐ、巨大で重厚な鋼鉄製の「隔壁」が立ち塞がっていた。
丸の内商事のビルにおいて、一般の社員が立ち入れるのは、情報システム部のサーバー室や駐車場がある地下2階までだ。そこにある『開かずの第3倉庫』から先――この非常階段のさらに奥深くへと通じるルートは、特別な権限がなければ物理的に侵入できない構造になっている。
当然、この隔壁の横には、厳重なカードキーのリーダーと生体認証のパネルが設置されていた。核シェルター並みの防護扉だ。
「これじゃ、先に進めません……! 引き返して、石田さんに遠隔でロックを解除してもらいましょうか!?」
塔子が青ざめた顔で提案する。
「……いや。その必要はありません」
俺は隔壁に歩み寄り、カードリーダーのパネルを指差した。
リーダーのランプは、赤色ではなく『緑色』に点灯している。
分厚い鋼鉄の扉は、完全に閉まりきっておらず、人が一人通り抜けられる程度の不自然な隙間を開けて停止していたのだ。
「ロックは、すでに解除されています」
「えっ……? じゃあ、地下の改修工事に入った業者さんたちが、開けたまま逃げ出したんでしょうか?」
「それもあり得ません。見てください、これ」
俺は扉の隙間に手をかけ、その足元の床に散らばっている『痕跡』をスマートフォンで照らした。
そこには、太い注連縄がボロボロに千切れ落ち、和紙に朱墨で書かれた古い護符が、黒く焼け焦げた状態で無惨に散乱していた。
「この扉には、物理的な電子ロックだけでなく、過去の腕利きの陰陽師が施した強力な『霊的封印』が何重にもかけられていました。霊感のない解体業者が、ボルトカッターやバーナーで物理的に破壊しようとしても、結界の反発で機材が壊れるか、原因不明の事故が起きて絶対に開かない仕組みになっていたんです」
「で、でも、開いてるじゃないですか……」
透子が怯えた声で尋ねる。
「ええ。だからこそ、最悪なんです」
俺は床に落ちている焼け焦げた護符の欠片を拾い上げた。
ただ強引に燃やされたのではない。呪符の霊的な結び目を、精密な外科手術のようにピンポイントで切断し、呪力を『逆流』させて内側から焼き切った痕跡だ。
「結界は、物理的に破壊されたわけじゃない。水で火を消すように、陰陽五行の相生相剋を完全に理解している人間が、意図的に『解呪』したんです」
「解呪……?」
「つまり、この扉を開けたのは事故じゃない。同業のプロ――それも相当な腕を持つ呪術師の仕業です。しかも……」
俺は緑色に光るカードリーダーを見上げた。
「この強固な物理ロックを解除するには、役員クラスが持つ最上位のマスター権限のIDカードが必要です。業者の出入り用のテンポラリ・カードじゃ、この最深部の隔壁は開きません」
その言葉の意味を理解した瞬間、塔子がハッと息を呑み、口元を両手で覆った。
「そ、そんな……! じゃあ、このビルの異界化は、事故じゃなくて……」
「内部の犯行です。役員の中に、会社の封印を解くためのマスターキーを持ち、かつ外部から呪術のプロを雇い入れて手引きした『裏切り者』がいる」
点と点が繋がり、一つの醜悪な黒い線となった。
「どうして……会社を良くするために、経営を立て直すために改修工事をしてたんじゃないんですか……! 自分の会社を、こんなバケモノだらけの巣窟にするなんて……狂ってます!」
塔子が怒りと絶望で声を震わせる。
彼女は総務部として、誰よりも真面目に、この丸の内商事という会社を支えようと努力してきた。その上層部が自らの手で会社に引導を渡そうとしている事実は、彼女の真っ直ぐな心を深く抉っただろう。
「会社を良くするためじゃありません。『復讐』、あるいは『破壊』のためでしょうね」
俺は冷徹に状況を分析した。
「新社長の強引なコストカットと改革に、旧経営陣の残党は激しく反発していた。この会社には、派閥争いや出世競争に敗れ、現体制に強烈な恨みを抱いている幹部がごまんといる。自分を冷遇した現体制を転覆させるためなら、会社ごと呪いの海に沈めても構わないと考える狂人がいても、不思議じゃありません」
社内政治のドロドロとした闇。
地位や名誉にしがみつく老いた権力者たちの醜悪なエゴが、外部の呪術師の力と結びつき、最悪の霊的パンデミックを引き起こした。
俺たち末端の社員は、その権力闘争の巻き添えを食らい、この異界の捨て駒にされたというわけだ。
「……ふざけないでくださいよ!」
透子が、ギリッと歯を食いしばって叫んだ。
「偉いおじさんたちの喧嘩のせいで、なんで私たちがこんな目に遭わなきゃいけないんですか! 冗談じゃないですよ!」
「同感だ。俺の時給1200円の平穏な日常と定時退社を、上の連中のくだらない派閥争いで潰されてたまるか」
俺は焼け焦げた護符の欠片を床に捨て、革靴の踵で踏み躙った。
黒幕が誰であろうと、どんな強大な外部の呪術師が手引きしていようと関係ない。
俺の職場を荒らし、愛猫のクロが待つアパートへの帰還を阻み、俺に無給のサービス残業を強いる者は、すべて等しく『掃除』の対象だ。
「行きますよ。裏切り者の役員だろうと、巨大な怨念だろうと、根源を叩き潰してこのふざけた残業を強制終了させます」
俺は隔壁のわずかな隙間に手をかけ、力を込めてこじ開けた。
ギギギギギ……ッ! という重い金属音が響き、俺たちが通れるだけの道ができる。
その先は、完全な暗闇だった。
非常用照明の光すら届かない、底なしの深淵。
だが、その奥底から、ドクン、ドクンと、巨大な心臓が拍動するような生々しい邪気が這い上がってくるのが肌で感じられる。
「中川さん。私、もう怖くありません。……最後まで、一緒に行きます」
塔子が俺の隣に並び、決意に満ちた声で言った。
「私も行きます! 文句の一つでも言ってやらないと気が済みません!」
透子も両手で拳を握りしめている。
「頼もしい限りです。ですが、前衛は俺に任せてください」
俺は右手に巻き付けたネクタイを構え直した。普段は極力抑え込んでいる青白い霊力のオーラを全身に纏わせ、暗闇の奥底を見据える。
冷たいコンクリートの感触を足の裏で確かめながら。
俺たちは暗黒の地下4階へと足を踏み入れた。




