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第36話 医療班の死闘

 一月下旬の週末。

 丸の内商事のビルが外界から完全に隔離された「異界」へと変貌する、二週間前のことだ。


 俺は、秋葉原の喧騒から少し離れた裏路地――ジャンク屋が立ち並ぶマニアックな電子街を歩いていた。

 少し前を歩くのは、黒いオーバーサイズのパーカーにマスク、そして深くフードを被った不審者スタイルの女性。丸の内商事の社内SE、石田繭子だ。


「……中川さん、遅い。はぐれたら迷子になる」

「お前の歩くペースが速すぎるんだ。そんなに急いでどこへ向かっている」

「……あそこの地下の店。チェコ製の古い真空管が、ジャンク品で出てる。私のジョセフィーヌのオーディオインターフェースに組み込めば、ノイズキャンセリングの精度が飛躍的に上がる……」


 完全にオタクの早口だ。

 この日は、彼女からの「秋葉原での護衛任務」の依頼を受け、時給換算で後日エナジードリンクを奢ってもらう約束で同行していた。人混みが極端に苦手な彼女にとって、休日の秋葉原は戦場であり、俺のような「霊的・物理的防壁」が不可欠なのだという。端から見れば奇妙なデートのようなものかもしれないが、当人たちにその気は微塵もない。


 無事に目当ての真空管を手に入れた後、俺たちは大通りの喧騒を避け、地下にある薄暗く静かな純喫茶に逃げ込んだ。

 サイフォン式のコーヒーの香りが漂う店内。客はまばらで、静かにジャズが流れている。

 繭子はようやくフードを下ろし、マスクを外して深く息を吐き出した。


「……生き返った。秋葉原のメインストリートは、人間の欲と電磁波が渦巻いてて息が詰まる」

「お疲れ様。で、今日の買い出しの本当の目的は何だ? ただの真空管探しじゃないだろう」


 俺がストレートに尋ねると、繭子はストローでアイスコーヒーの氷をカラカラと鳴らし、青い瞳を少しだけ細めた。


「……最近、私の『繭』の床下から、嫌な音がする」

「音?」

「……物理的な工事の音。ドリルとか、ハンマーとか。……社長が変わってから、地下の開かずの区画を無理やり調べようとしてる業者が入ってるみたい。……嫌な予感がする。あそこは、開けちゃいけないパンドラの箱。何重ものロックがかかってるのに、それを物理で壊そうとしてる」


 繭子のカンは鋭い。彼女は霊感こそないが、ネットワークのノイズや物理的な異常から、ビルの深層で蠢く「何か」を感じ取っていたのだ。


「……新社長のコストカットの一環らしい。俺も総務部で少し噂を聞いた」

「……中川さん、気をつけて。あの地下の奥底にあるのは、ちょっとやそっとのバグじゃない。……システム全体をクラッシュさせる、致命的なエラーの塊だから」


 彼女の予言は、二週間後、最悪の形で現実のものとなった。


★★★★★★★★★★★


 現在。二月上旬。

 異界と化した丸の内商事ビル。


 1階エントランスの防衛を広報の小野みゆきと受付のソフィアに任せ、俺は総務部の竹内塔子、郵便室の松田透子と共に、再びエレベーターに乗り込んでいた。

 目指すは、すべての元凶が眠る地下最深部。


 だが、降下を始めたエレベーターの箱が、突如として激しく揺れた。


 ガガガガガンッ!!


「きゃあっ!」


 塔子と透子が悲鳴を上げ、手すりにしがみつく。

 照明が明滅し、電子パネルの階数表示が狂ったように回転した。


『B1』『1』『4』『8』……。


「……空間の歪みが酷くなっていますね。地下の怨念が、俺たちの侵入を拒んでいる」


 ガツン! という鈍い衝撃と共に、エレベーターが急停止した。

 扉が、ギギギ……と重々しい音を立てて開く。

 表示されている階数は『8階』。俺たちの本来の職場である総務部と、そしてヘルスケアセンターがあるフロアだ。


「8階……どうして上に?」


 塔子が青ざめた顔で開いた扉の先を見る。


 俺は見慣れたはずの自分のフロアを見て、息を呑んだ。

 数時間前まで俺が伝票整理をしていたデスクやキャビネットは、ブヨブヨとした赤黒い粘菌のようなものに覆われ、壁からはドス黒い瘴気が絶え間なく噴き出している。

 フロアを歩き回っているのは、社員ではない。首の折れ曲がったスーツ姿の怨霊や、四つん這いで這い回る醜悪なバケモノたちだ。


「中川さん、どうしますか……? 扉を閉めて、もう一度地下へ……」

「……いや、一度このフロアに出ます。走りますよ」

「えっ!?」

「この階には、ヘルスケアセンターがあります。異界化が始まった直後、地下で作業していた解体業者の男たちがパニックを起こして中山先生の元へ逃げ込んだと、直接連絡を受けています。無事かどうか確認しなければ」


 俺の言葉に、塔子と透子がハッとした顔になった。


「そうです! 中山先生が残ってます! 助けに行かないと!」

「静かに。見つからないように、壁際を走ります」


 俺はポケットから青い付箋を取り出し、俺たちの気配を一時的に周囲の瘴気に同化させる結界を展開した。

 息を潜め、這い回る怨霊たちの視線を躱しながら、フロアの最奥にあるヘルスケアセンターへと向かう。


 すりガラスの扉の前に辿り着くと、そこには異様な防衛線が敷かれていた。


「……コーヒーの粉と、消毒用エタノール?」


 扉の隙間という隙間に、深煎りのコーヒー粉末がびっしりと詰め込まれ、その上からアルコールが撒かれている。

 強烈なカフェインとアルコールの匂い、そして微かな「聖塩」の気配。

 これに拒絶反応を示し、扉の周りには怨霊たちが近寄れていなかった。


「開けますよ」


 俺がノックの合図をしてから素早く扉を開け、中へ滑り込むと、そこは文字通りの『野戦病院』と化していた。


「……脈拍120、呼吸浅い! 完全に過換気症候群ね。紙袋はないから、両手で口を覆ってゆっくり息を吐きなさい!」

「先生、こっちの男、腕から血が出てるわよ!」

「かすり傷よ。そこの消毒液取って!」


 白衣を血と泥で汚した産業医・中山杏子が、ストレッチャーに横たわる数人の作業着姿の男たちの処置に追われていた。

 彼らは地下で直に「呪い」を浴びたせいで、極度の幻覚と恐怖に苛まれ、暴れたり泣き叫んだりしている。


 そして、そのカオスな保健室の片隅で、カセットコンロの青い炎を見つめている人物がいた。

 社内カフェのバリスタ、アリーナだ。


「アリーナ! なんでここに!」


 透子が驚いて声を上げる。


「1階のエントランスが急にジャングルみたいになったから、非常階段を駆け上がってきたのよ。途中の気味が悪い幻覚は、手持ちのコーヒーの粉を撒き散らしながら突っ切ったわ。そしたらこの惨状じゃない。……ほら、できたわよ、特製『回復ポーション』!」


 アリーナは、手動式のポータブル・エスプレッソメーカーのポンプを力強く押し込み、小さな紙コップに漆黒の液体を抽出していった。

 極細挽きにした豆に、高い圧力をかけて一気に抽出した本格的なエスプレッソ。表面には美しいクレマが浮かんでいる。

 彼女はそこに、躊躇なくスプーン一杯の『清めの塩』を投入した。


「中山先生! 処置が終わった患者から、これ飲ませて!」

「ええ、助かるわ。……ほら、あんたたち。薬だと思って一気に飲み込みなさい。これを飲まないと、幻覚に脳を喰われるわよ」


 杏子が解体業者の男の顎を掴み、無理やりエスプレッソを流し込む。


「ぶふっ!? に、苦っ! しょっぱ! なんだこれ!」

「文句言わない。医学的にはただのカフェインのオーバードーズだけど、気休めにはなるでしょ」


 男たちはむせ返りながらも、その強烈な苦味と塩気に目を白黒させた。

 だが、その直後。

 彼らの体から、薄黒い瘴気がフワッと抜け出て、空中で霧散した。

 強烈なカフェインによる覚醒作用と、アリーナの聖塩による体内からの「熱消毒」。それが、呪いによる精神汚染を内側から強制的にリセットしたのだ。


「……はぁ、はぁ。俺、なんでこんなとこで震えて……」

「落ち着いた? ならそこでおとなしくしてなさい」


 杏子は手際よく次の患者へ移る。

 リアリストである彼女の「これはただのパニック発作だ」という強烈な自己暗示と、アリーナの物理的除霊アイテムが見事なコンビネーションを発揮し、この保健室の安全を維持していたのだ。


「……中川さん。無事だったのね」


 杏子が血のついたゴム手袋を外し、額の汗を拭いながら俺を見た。


「ええ。先生たちこそ。見事なトリアージです」


「嫌になるわ。時給も出ないのに、こんな修羅場。……外の状況は?」

「最悪です。ビル全体が異界化しています。元凶は地下4階です」


 俺がそう答えると、杏子は鋭い視線で保健室の窓を睨みつけた。


「やっぱりね。あの解体業者たちが、パンドラの箱を開けちゃったのよ。……中川さん、ここは私とアリーナで持たせるわ。この愚か者たちを見捨てるわけにはいかないから」

「No worries! 私のカフェインと塩のストックが尽きるまでは、バケモノどもには指一本触れさせないわよ」


 アリーナも、エスプレッソメーカーに新しい豆を詰めながら不敵に笑った。


「……わかりました。ですが、少しだけ防壁を補強しておきます」


 俺はポケットから赤い付箋と黄色い付箋を取り出し、保健室のドアと壁の四隅に素早く貼り付けた。

 そして、印を結ぶ。


「結界展開。――絶対隔離の陣」


 付箋がカッと光り、保健室の壁全体が青白いオーラでコーティングされる。

 これで、カテゴリーBクラスの怨霊が束になってこようが、数時間は物理的に破られることはない。


「すごい……部屋が明るくなりました!」


 塔子が感嘆の声を上げる。


「竹内さん、松田。行きますよ。地下へ向かう非常階段のルートを探します」

「はい!」


 俺が扉に手をかけると、背後から杏子の声がした。


「中川さん」

「はい」

「……ちゃんと、生きて帰りなさいよ。あなたのカルテ、まだ未完成なんだから」

「……ええ。俺には、家に帰って可愛い家族に飯を食わせる使命がありますから」


 俺は小さく口角を上げ、ヘルスケアセンターの扉を開けて、再び瘴気の渦巻くフロアへと飛び出した。


 俺はヘルスケアセンターの扉を背にし、深淵へと続く非常階段の暗闇を見下ろした。

 ここから先は、俺の定時退社と平穏な日常を取り戻すための、最後の戦いとなる。

 ネクタイを右手に巻き直し、俺は冷たいコンクリートの階段へと足を踏み出した。



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