第35話 受付防衛戦
一月下旬。
丸の内商事のビルが外界から完全に隔離された「異界」へと変貌してしまう、一週間前の金曜日の夜だ。
俺は、銀座の裏路地にあるオーセンティック・バーのカウンターで、氷の浮かんだグラスを傾けていた。
隣に座っているのは、丸の内商事の産業医である中山杏子だ。
彼女は白衣を脱ぎ、深いネイビーのカシュクールワンピースを身に纏っていた。薄暗い間接照明の下でも、そのエキゾチックな美貌と、成熟した大人の色気は隠しきれない。
「……それにしても、最近の社内の空気、少し異常ね」
杏子は琥珀色のウイスキーを口に含み、小さくため息をついた。グラスの中でカランと氷が鳴る音が、静かなバーの空間に心地よく響く。
「新社長の徹底した合理化のせいですか」
俺はジン・トニックのグラスを揺らし、ライムの爽やかな香りと共に答えた。
「ええ。ストレス値の上がり方が、医学的な許容範囲を超えているわ。……でも、それだけじゃない気がするのよ」
彼女はリアリストであり、非科学的な事象を真っ向から否定する。だが、その優れた観察眼は、オカルト以上の精度で「オフィスの病理」を嗅ぎ取っていた。
「地下の古い倉庫を改修するって話、中川さんも知ってるわよね。あそこを開けてから、保健室に来る社員の症状が……なんていうか、『重い』のよ」
「重い、ですか」
「ええ。単なる疲労じゃない。何かに『当てられている』ような……。中川さん、あなた、また裏で何か『お掃除』してるんじゃないでしょうね?」
杏子の漆黒の瞳が、俺を鋭く射抜く。
俺はわざとらしく肩をすくめた。
「俺は時給1200円の派遣社員です。指示された備品の管理以外のことはしませんよ」
「嘘ばっかり。……まあいいわ。でも、もし手に負えない事態になったら、ちゃんと逃げなさいよ。あなたのその自己犠牲的な働き方、私はカルテに『不健康』って書き込んでるんだからね」
彼女の言葉には、皮肉の裏に確かな気遣いが込められていた。
「……ご心配なく。俺には、家に帰って可愛い家族に飯を食わせるという重大な任務がありますから。定時は死守しますよ」
「ふふっ、猫ちゃんね。……今度、写真見せてちょうだい」
杏子は妖艶に微笑み、グラスを俺のグラスに軽く当てた。
この時の彼女の警告が、まさかビル全体が異界化するパンデミックの予兆だったとは。
俺はその夜、少しだけ酒の回りが早いことを感じながら、夜の街を後にした。
★★★★★★★★★★★
現在。二月上旬。
異界と化した丸の内商事ビル。
B1階のエレベーターホール。
地下のサーバー室から出てきた石田繭子が無事にネットワークを復旧させ、俺たちはすべての元凶が眠る地下最深部へ向かうべく、エレベーターに乗り込んだ。
俺の背後には、総務部の竹内塔子、郵便室の松田透子、そして受付嬢のソフィア・イェゲルが息を潜めている。繭子はMDF室に残り、システムのバックアップと監視を続けている。
「……ここから先は、これまでの浮遊霊や地縛霊とは次元が違います。皆さんは絶対に俺の背中から離れないでください」
俺が警告し、地下の階層ボタンを押そうとした、その時だった。
胸ポケットのスマートフォンが、けたたましく振動した。
繭子からの緊急チャットだ。
『……中川さん。マズイ。1階のエントランス、外部からの侵入を検知』
『どういうことだ。ビルは外界から隔離されているはずだろ』
『……異界の瘴気が濃すぎて、1階の物理ドアが境界線を維持できてない。……外の「黒い霧」の中にいる無数のバグが、エントランスを突き破って中になだれ込んでくる!』
俺は舌打ちをした。
ビルの外を覆っている真っ黒な霧。あれは単なる結界ではなく、丸の内の地下から溢れ出した「怨念の海」そのものだ。それが1階の正面玄関を突き破り、ビル内に侵入してきているというのか。
このままでは、上階に取り残されている社員たちが魔物の群れに蹂躙されてしまう。地下の元凶を叩く前に、背後から全滅だ。
「……予定変更です。一度、1階へ上がります」
俺は「1階」のボタンを押し、上昇するエレベーターの中でネクタイを右手に固く巻き直した。
チンッ、という無機質な電子音と共に、1階の扉が開く。
そこには、絶望的な光景が広がっていた。
「……Oh, my god...」
ソフィアが口元を覆い、絶句する。
かつて清潔で広々としていたエントランスホールは、今や鬱蒼と茂る熱帯樹や巨大なシダ植物に覆い尽くされた『ジャングル』と化していた。先日、ソフィアが言っていた通り、飾られていた観葉植物がオフィスの邪気を吸って暴走した結果だ。
そして、そのジャングルと化したエントランスの正面玄関――分厚いガラス扉は無残にひび割れ、そこからどす黒い霧が滝のように流れ込んでいる。
その霧の中から、ボロボロのスーツを着た骸骨のような怨霊や、四つん這いで這い回る巨大な黒い獣の霊が、次々と湧き出してきていた。
『……クルシイ……』
『……ナゼ俺ダケガ……』
『……ミナゴロシダ……』
数え切れないほどの低級・中級霊の群れだ。
奴らはジャングル化したエントランスの木々をへし折りながら、奥にあるエレベーターホールや階段を目指して這い進んでくる。腐乱臭と泥の匂いが混じり合い、呼吸をするだけで肺が汚染されそうだった。
「ひぃぃっ! なんですかあいつら! ゾンビ映画!?」
透子が塔子の背中に隠れながら悲鳴を上げた。
「……突破されましたか。これを俺一人で全部祓うのは、物理的に時間が足りない」
俺はポケットの付箋の束を握りしめ、最悪の事態を想定した。
俺がここで魔物の群れを抑え込んでいる間に、別の階から突破されれば終わりだ。
「――ちょっと! なんなのよこの汚い泥の塊は! 私のお気に入りのパンプスが汚れちゃうじゃない!!」
不意に、ホールに繋がる階段の方から、凛とした怒声が響き渡った。
見上げると、広報部のエース・小野みゆきが、腕を組んで階段の踊り場から魔物の群れを睨み下ろしていた。
彼女の全身からは、この薄暗い異界においてすら発光しているかのような、圧倒的な「陽の気」が立ち昇っている。
「小野さん!」
「あ、中川さん! ちょうどよかったわ。上階の社員たちは、一旦全員会議室に押し込んで鍵をかけたわよ。でも、下から変な音がするから見に来てみたら……何よこれ!」
みゆきはカツカツとヒールを鳴らして階段を降りてくると、俺たちの前に並び立った。
「小野さん、よくここまで無事で……。階段は無数の幻覚トラップが仕掛けられていたはずですが」
俺が驚いて尋ねると、彼女はふんと鼻を鳴らした。
「途中で『終わらない残業の幻』だか何だか見せられそうになったけど、『そんな暇あったら次の企画書出せ!』って怒鳴り散らしたら、全部霧散したわよ。気合が足りないのよ、あいつら」
……なるほど。彼女の圧倒的な「陽の気」とポジティブな覇気の前には、陰湿な幻覚など通用しないらしい。最強の物理アタッカーだ。
彼女の強烈なポジティブ・オーラに当てられ、前列にいた魔物たちが「ギィッ!?」と怯んで後ずさる。
だが、後から後から無限に湧き出してくる魔物の波は、みゆきのオーラだけでは押し留めきれない。
「小野さん、危険です! 下がってください!」
塔子が叫ぶ。
だが、みゆきは一歩も引かなかった。
「冗談じゃないわよ。ここを通したら、上のみんなが危ないんでしょ? 広報として、社内の危機を見過ごすわけにはいかないわ」
「……俺が前衛で抑えます。ですが、数が多すぎる。地下の元凶を絶ちに行かなければ、キリがない」
俺が苦々しく言うと、横からソフィアが一歩前に出た。
「Masterナカガワ。ここは、私とミユキさんに任せてクダサイ!」
「ソフィアさん? しかし……」
「忘れないでクダサイ。私はこの丸の内商事の『ゲートキーパー』デス! エントランスの平和を守るのは、私の仕事デスヨ!」
ソフィアは、以前この場所がジャングル化した際に手に入れた、巨大な観葉植物の太い枝を両手で力強く構えた。
彼女のアイスブルーの瞳には、一切の迷いがない。
「……いい度胸ね、ソフィア。気に入ったわ。受付と広報の最強タッグで、このエントランスを死守するわよ!」
みゆきもソフィアの隣に並び、不敵な笑みを浮かべた。
「中川さん、貴方は竹内さんと松田ちゃんを連れて、さっさと地下のボスを片付けてきなさい! ここは私たちが絶対に突破させないから!」
みゆきの言葉に、俺は一瞬だけ躊躇した。
だが、彼女たちの背中から放たれる「覚悟」のオーラは、下手な陰陽術の結界よりも頼もしく見えた。
「……わかりました。ですが、無茶はしないでください」
俺はポケットから、黄色い付箋と青い付箋を数十枚まとめて取り出し、みゆきとソフィアの周囲に乱れ撃ちにした。
「結界展開。――絶対防衛線」
付箋が床や壁に張り付き、青と黄色の光のラインが幾重にも交差して、エントランスの中央に見えない強固な城壁を形成した。
「すごい……! 体が羽みたいに軽いデス!」
ソフィアが驚きの声を上げる。俺の結界が彼女たちの体力と精神力を底上げしているのだ。
「これなら戦えるわね! さあ、ソフィア! そこのジャングルに飲み込まれかけてるソファとローテーブル、それにこの太いツルを絡めて、即席のバリケードを作るわよ!」
「Yes, Ma'amデス!!」
みゆきとソフィアは、驚くべき怪力で、エントランスの重厚な応接セットを引きずり出し、巨大化した植物の幹と組み合わせて、魔物の群れに対する強固な物理防壁を築き始めた。
『ギャアアアアッ!』
先陣を切って飛び込んできた魔物がバリケードに激突し、ソフィアの構えた「精霊の加護が宿る槍」に突き飛ばされて霧散する。
「甘いわよ! 私の視界に入らないで!!」
みゆきが怒鳴りつけると、彼女の陽の気が衝撃波となって魔物たちを焼き払う。
見事な連携だ。
これなら、しばらくは持ちこたえられるだろう。
「中川さん……」
塔子が、不安と決意の入り交じった瞳で俺を見上げる。
透子も、ギュッと拳を握りしめて頷いた。
「行きますよ。彼女たちが稼いでくれた時間を、無駄にはできない」
俺はエレベーターのボタンを押し、塔子と透子を連れて再び箱の中へと乗り込んだ。
扉が閉まる直前。
バリケードの向こう側で、無限に湧き出す魔物の群れに対して一歩も退かずに立ち向かう、みゆきとソフィアの背中が見えた。
「……時給が発生しない業務に、ここまで命を懸けるとはな」
俺は小さく呟き、深く息を吸い込んだ。
今頃、ポカポカに温まった部屋で、クロは平和な寝息を立てているだろう。
その日常を取り戻すためにも、俺は俺の仕事を完遂しなければならない。
エレベーターは、ついにビルの最深部――地下4階へと向かって、ゆっくりと降下を始めた。




