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第34話 情報の海を泳げ

 少しだけ、時計の針を戻そう。

 一月中旬。丸の内商事のビルが外界から隔離された「異界」へと変貌する、数週間前の週末のことだ。


 俺は、六本木のタワービル最上階にある高級スカイラウンジで、眼下に広がる東京の夜景を見下ろしていた。

 隣の席には、丸の内商事・広報部の小野みゆきが足を組み、グラスに入ったマティーニを優雅に揺らしている。

 彼女は漆黒のオフショルダーのドレスを身に纏い、その圧倒的な美貌と内側から発光するような自信で、薄暗いラウンジ内でも周囲の視線を密かに独占していた。


「どう? ここの夜景、綺麗でしょ。年末の特大プロジェクトが成功した特別ボーナスが入ったから、約束通り奢ってあげるわ」


 みゆきは悪戯っぽく微笑んだ。

 年末の大規模イベントを、彼女が完璧な仕切りで成功させ、俺が裏でトラブルを浄化したあの一件だ。


「……時給1200円の派遣社員には、少し場違いな場所ですがね。ご馳走になります」


 俺はジン・リッキーのグラスを口に運んだ。

 ドライジンのキリッとした苦味とライムの酸味が、乾いた喉を潤していく。


「ふふっ、遠慮しないの。……ところで中川さん。最近、社内の空気がまた少しピリピリしてると思わない?」


 みゆきはマティーニのオリーブをかじりながら、ふと声のトーンを落とした。


「新社長のコストカットのせいでしょう。備品の申請も厳しくなりましたし」

「それだけじゃないわ。……私、広報のネットワークで聞いたんだけど、新社長が地下の古い設計図を業者に調べさせてるらしいのよ。デッドスペースをトランクルームにするって名目だけど……あの『開かずの地下』を無理やりこじ開ける気みたい」


 みゆきの顔つきが真剣なものに変わった。

 広報部のエースとしての彼女の「特ダネ嗅覚」は、常に社内の不穏な動きを正確に捉えている。


「……それは、まずいですね」


 俺は小さく顔をしかめた。

 丸の内商事の地下には、創業以来の負の歴史と怨念が沈殿している。物理的な手段だけでこじ開ければ、何が溢れ出すかわからない。


「特ダネの匂いがプンプンするわ。中川さん、何か起きたらまた私の護衛、お願いね」

「残業代が出るなら考えますよ。時給の範囲外の業務はお断りです」


 俺が冷たく返すと、みゆきは「可愛くないわね」と笑い飛ばした。


 この時の彼女の「直感」が、最悪の形で的中することになるとは、この時の俺はまだ確信を持てていなかった。


★★★★★★★★★★★


 そして現在。二月上旬。

 異界と化した丸の内商事ビル。


 3階の社員食堂で『暴食の魔王』を討伐した俺たちは、息をつく暇もなく次の行動を迫られていた。

 竹内塔子、松田透子、そしてソフィアの三人を休ませ、周囲の安全を確保していると、俺のスマートフォンが激しく振動した。

 社内のローカルネットワークはギリギリ生きているらしい。地下のサーバー室に引きこもっている石田繭子からのSOSチャットだった。


『……中川さん。緊急事態。……B1階の基幹ルーターが、物理的に切断された』

『どういうことだ、石田。システムが落ちるのか?』


 俺は素早くフリック入力で返信する。


『……この異界の瘴気が、ビルの神経網を食い破り始めてる。このままだとあと15分で、ビルの制御システムが完全に「向こう側」に飲み込まれて、全フロアの扉とエレベーターが永久にロックされる。……手遅れになる』


 俺は舌打ちをした。

 システムが完全に異界の法則に飲み込まれれば、俺たちはこのビルから永遠に脱出できなくなる。


『遠隔でバイパスできないのか?』

『……無理。物理ケーブルが断線してる。……私が直接B1階のMDF室に行って、バックアップのケーブルを直結してコマンドを叩き込むしかない』


 繭子が、あの『繭』から出るというのか。

 極度の対人恐怖症であり、自分のテリトリーから一歩も出ようとしない彼女が、瘴気に満ちた未知の空間へ足を踏み出す。それがどれほどの恐怖か、想像に難くない。


『俺が代わりに行く。ケーブルの繋ぎ方を教えろ』

『……ダメ。ただ繋ぐだけじゃない。汚染されたルーティングテーブルを、現場で瞬時に書き換えないといけない。……私にしかできない』


 チャットの短い文面から、彼女の震えるような恐怖と、それ以上の「技術者としての意地」がひしひしと伝わってきた。


『……わかった。俺たちもすぐに向かう。合流するまで絶対に死ぬなよ』


 俺はスマホをポケットにしまい、塔子たちを振り返った。


「状況が変わりました。これより、地下1階へ向かいます」


★★★★★★★★★★★


 B2階、サーバー室前。

 重厚な電子ロック扉が開き、石田繭子がゆっくりと外へ足を踏み出した。

 いつも着ているオーバーサイズのパーカーのフードを深く被り、両手には愛用のノートPCと、太いLANケーブルの束を抱え込んでいる。


「……空気、気持ち悪い。……息ができない……」


 彼女の足はガタガタと震えていた。

 B2階からB1階へ向かう薄暗い非常階段は、すでに異界の浸食を受け、元のコンクリートの面影はない。壁には、血管のように蠢く黒いケーブルの束がびっしりと這い回っている。


 ガサッ……ズルルッ。

 壁のケーブルが意思を持ったように身をよじり、先端が鋭い蛇のように持ち上がった。


『……エラー……エラー……排除シマス……』


 かつてのスパム怨霊の残骸が融合し、ビルの防衛システムを乗っ取った『情報汚染の縛霊』だ。


「ヒッ……!」


 繭子が後ずさり、尻餅をつく。

 黒いケーブルの蛇が、彼女の顔面めがけて襲いかかろうとした、その瞬間。


「――そこまでだ」


 頭上の階段から、青白い光を帯びた『ネクタイの鞭』が飛来し、ケーブルの蛇をスパーンッと弾き飛ばした。


「中川さん……!」

「遅くなって悪かったな、石田。よく一人でここまで来た」


 俺は階段を駆け下り、繭子の前に立ち塞がった。後ろからは、塔子たちも息を切らして追いついてくる。


「石田さん! 無事ですか!」


 塔子が駆け寄り、繭子の肩を抱き起こす。


「……遅い。私の心拍数、エラーでフリーズしそうだった」


 繭子は強がりながらも、塔子の腕にギュッとしがみついた。


「ここは俺が抑える。石田は竹内さんたちとMDF室へ走れ!」


 俺はポケットから青と黄色の付箋を取り出し、壁から次々と湧き出してくるケーブルの蛇に向かって投げ放った。


「水行・土行、複合結界! 泥濘の陣!」


 付箋が眩い光を放ち、階段の床を霊的な沼地へと変え、這い寄る蛇たちの動きを極限まで鈍らせる。


 繭子たちは俺の援護を受けながら、B1階の廊下を走り、MDF室の重い鉄扉をこじ開けた。

 中には巨大な通信機器のラックが並び、その一部のケーブルがドス黒い瘴気に溶かされて無惨に断線していた。


「……ひどい。私の綺麗な配線が、台無し……」


 繭子は恐怖を忘れ、凄まじい怒りのオーラを放ちながらノートPCを開いた。

 彼女は持参したLANケーブルをサーバーの空きポートに突き刺し、もう片方を自分のPCに繋ぐ。


「……情報の海を泳ぐのは、私の得意分野。……邪魔なノイズは、全部デリートする」


 彼女の指が、キーボードの上で目にも留まらぬ速さで踊り始めた。

 カタカタカタカタッ! という常人離れした打鍵音が、まるで魔術の詠唱のように室内に響き渡る。


 黒い瘴気が繭子のPCに這い上がろうとするが、ソフィアが横から観葉植物の枝を振り下ろし、それを物理的に払いのける。


「イシダさん、後ろは任せてクダサイ!」

「頑張って、石田さん!」


 塔子と透子も、必死に周囲を警戒しながら繭子を守る。


「……ルーティングテーブル、再構築。……汚染パケット、破棄。……メインシステム、権限奪取!」


 ターンッ!

 繭子がエンターキーを力強く叩き込んだ。


 その瞬間。

 MDF室の通信機器のLEDランプが、一斉に正常な緑色に点灯した。

 壁を這っていた黒いケーブルの縛霊たちが、システムから強制切断されたことで力を失い、バラバラと床に崩れ落ちてただの黒いチリとなって消滅した。


「……ふぅ。……ネットワーク復旧、完了。……エレベーターのロック、全解除」


 繭子はPCを閉じ、深く息を吐いてその場にへたり込んだ。


「見事だ、石田。お前がいなければ、俺たちはビルごと異界に閉じ込められていた」


 俺が階段から降りてきて声をかけると、繭子はパーカーのフードを深く被り直し、小さくピースサインを作った。


「……当然。私は天才だから。……でも、早く帰りたい。私の部屋のベッドが恋しい……」


「もう少しの辛抱だ。これで、地下最深部へのルートが開かれた」


 俺は、緑色のランプが点灯し始めたエレベーターホールの方を見据えた。

 すべての元凶が眠る、大穴の底へ。

 俺たちの定時退社を懸けた戦いは、いよいよ最終局面へと突入する。


★★★★★★★★★★★


 その頃。

 丸の内商事での絶望的な死闘など知る由もない、俺のアパートのリビングでは。


『……ミャム、ミャム……』


 床暖房が心地よく効いた部屋の中央で、黒猫のクロが完全にリラックスしきっていた。

 俺の匂いが染み付いた毛布を自分の寝床に引きずり込み、その中にすっぽりと顔を埋めて丸くなっている。

 すっかりこの部屋の主となったクロだが、寝ている時の無防備さは出会った頃から変わらない。


 時折、夢の中で獲物を追いかけているのか、小さな前足をピクピクと動かしている。


 主人である俺が、このブラック企業という名の魔窟で、時給1200円の限界を超えた労働を強いられている間も、この小さな家族は平和な時間を過ごしている。

 その事実だけが、今の俺にとって最大の救いであり、何としても無事に生きて帰るための強い「執着」となっていた。


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