第33話 食堂のフード・バトル
少しだけ、時計の針を戻そう。
新社長の強引な改革によって、丸の内商事のビル全体が外界から切り離された「異界」へと変貌してしまう、数日前のことだ。
一月下旬の休日。
俺は、丸の内からほど近い銀座の高級回転寿司店のボックス席で、途方もない勢いで積み上がっていく皿の山を、静かな絶望と共に眺めていた。
「Amazing! この『寒ブリ』、脂が乗ってて最高デス! 口の中でとろけマス!」
目の前で歓声を上げているのは、プラチナブロンドの髪を揺らす受付嬢、ソフィア・イェゲルだ。
今日の彼女は、体のラインがはっきりと出るワインレッドのニットワンピースに、黒のロングブーツという、銀座の街でもすれ違う男たちが思わず振り返るような洗練された私服姿だった。
だが、そのモデルのような美貌とは裏腹に、彼女の食欲はすさまじかった。
「……ソフィアさん。その黒に金模様の皿、一皿で俺の時給に近い金額なんだが。せめて銀色の皿を中心に攻めてくれないか」
「Oh! 遠慮はNo goodデスヨ! 秋の朝に私がエントランスで歌を歌って怨霊を鎮めた時、Masterは『時給が発生しない話はまた今度だ』って逃げマシタよね! あれからずっと、ミユキさんに負けない『高級スシ・デート』を奢ってもらうチャンスを狙っていたのデス!」
ソフィアは悪びれる様子もなく、ウニとイクラの軍艦巻きをパクリと口に放り込んだ。
確かに、秋の人事異動の日に見事な鎮魂歌を歌ってくれた彼女に対し、あの時はぐらかしてしまった負い目がある。広報の小野みゆきからの強引なディナー要求とは違い、こちらは純粋な「防衛任務の報酬」の催促だ。俺としても無下に断るわけにはいかなかったのだ。
「それにしても、Masterとの休日デート、とってもエキサイティングでござる!」
「ただのランチだ。ござるは不要だぞ」
俺がため息をつきながら温かいお茶をすすると、ソフィアは箸を置き、ふと真面目な顔になって周囲を見渡した。
「……冗談はさておき。Masterナカガワ。最近、会社の空気が少し変だと思いマセンカ?」
「変、というと?」
「エントランスの植物たちが、ひどく怯えているんデス。……地下の奥底から、とっても冷たくて、重たい『泥』のような匂いが上がってきている。まるで、嵐の前の静けさみたいデス」
彼女のアイスブルーの瞳が、鋭い光を帯びていた。
霊感のない彼女だが、自然精霊の加護を受けるその直感は、時に俺の霊視よりも正確に危機を察知する。
新社長の就任と、地下倉庫群の改修計画。俺も嫌な予感はしていた。
「……もし嵐が来たら、ソフィアさん、あなたは自分の身の安全だけを最優先にしてください」
「No! 私は丸の内商事のゲートキーパーデス! 悪い奴らは、絶対にタダじゃ通しマセンヨ!」
ソフィアは力強く宣言し、最後に特大のボタンエビの握りを平らげた。
この時の彼女の言葉が、数日後、最悪の形で現実のものとなることを、俺たちはまだ知る由もなかった。
★★★★★★★★★★★
そして現在――二月上旬。
異界と化した丸の内商事ビル。
俺と上司の竹内塔子は、非常階段の幻覚空間を破壊し、さらに下の階へと階段を駆け下りていた。
目指すのは、途中の空間の歪みに飲み込まれて別行動となってしまった、郵便室のアルバイト・松田透子の救出だ。
「中川さん! この扉、3階の『社員食堂』のフロアです!」
塔子が非常階段の重い鉄扉を指差した。
「松田の生命力なら、無意識に食べ物の匂いがする場所へ引き寄せられている可能性が高い。……入りますよ」
俺が警戒しながら鉄扉を押し開けると、そこには、いつもの清潔なカフェテリアの面影は微塵もなかった。
「……うわぁ……ひどい臭い……」
塔子が鼻を覆って顔をしかめる。
フロア全体が、まるで巨大な生物の「胃袋」の中のような、赤黒い肉の壁で覆われていた。
テーブルや椅子はひしゃげ、床には腐りかけた残飯や油がドロドロとした川を作って流れている。
そして、その肉の洞窟の最奥、厨房の配膳カウンターの前に、天井まで届くほどの巨大な化け物が鎮座していた。
『……クエ……クエ……クワヌヤツハ、クッテヤル……』
それは、無数の人間の「口」と「脂肪」が寄り集まったような、醜悪な肉の塊だった。
――『暴食の魔王』。
カテゴリーAに匹敵する、強大な怨念の集合体だ。
毎日のように食堂で残され、廃棄されてきた大量の残飯の怨み。そして、日々のストレスを「ドカ食い」で発散しようとした社員たちの満たされない欲求。それらがビルの異界化に伴って混ざり合い、この食堂フロアの主として君臨したのだ。
そして、その暴食の魔王の目の前に、見慣れた二つの人影があった。
「ソフィアさん! 松田ちゃん!!」
塔子が叫ぶ。
「Oh! タケウチさん! それにMasterナカガワ! こっちデス!」
ジャングル化した1階から上がってきたのだろう。ソフィアが、巨大な観葉植物の太い枝を槍のように構え、背後の透子を庇うようにして立っていた。
「中川さぁぁん! 助けてくださいよぉぉ! こいつ、無理やり腐ったご飯を食べさせようとしてくるんですぅぅ!」
透子が泣き叫んでいる。
『……ノコサズ、クエ……イブクロガ、ハジケルマデェェッ!!』
暴食の魔王の無数の口から、酸鼻を極めるような腐臭を放つヘドロが吐き出され、ソフィアと透子に向かって津波のように押し寄せる。
あれを一口でも飲み込めば、精神を汚染され、永遠に食べ物を貪り続けるだけの「餓鬼」へと堕ちてしまうだろう。
「させません。――結界展開。防壁!」
俺はポケットから青い付箋を数枚束ねて投げ放ち、ヘドロの津波と彼女たちの間に「浄化の水の壁」を発生させた。
バシャァァァッ! という音と共に、呪われた残飯が壁に弾かれ、蒸発していく。
「Master! ナイス・タイミングでござる!」
「合流できて何よりです。怪我はありませんか」
俺と塔子が駆け寄り、四人がついに合流を果たした。
「松田、腹の減り具合はどうだ?」
俺が唐突に尋ねると、透子は目を丸くした。
「は!? 腹ペコに決まってるじゃないですか! さっき落とし穴に落とされてから、ジャングルの中を死に物狂いで逃げ回ってたんですよ! しかも私、今日お昼ご飯食べる前に異界化に巻き込まれたから、もう背中と胃袋がくっつきそうです!」
「……上等だ」
俺はネクタイを緩め、腕まくりをした。
「あの『暴食の魔王』の領域は、食べ物に関する念で構成されている。物理的な攻撃や中途半端な浄化では、あの巨大な脂肪の壁は貫けない。……だが、奴の『暴食の念』を、お前の『純粋な食欲』で上書きして圧倒できれば、この空間のルールは崩壊する」
「え? つまり?」
「俺が今から極上の飯を作る。お前はそれを、あの化け物に見せつけるようにして、全力で食え」
俺の提案に、透子の瞳の奥で、カッと餓狼のような光が燃え上がった。
「……やります!! 食べ放題ですね!!」
「竹内さん、ソフィアさん。俺が調理している間、松田の護衛と、あの化け物の牽制をお願いできますか」
「はいっ! 任せてください!」
「Of course! 槍の腕前、見せてあげマスヨ!」
二人の心強い返事を聞き、俺は厨房へと足を踏み入れた。
厨房内は、魔王の瘴気の影響でドロドロに汚染されていたが、俺は即座に『清めの塩』を撒き散らし、ガスコンロと調理台の周囲だけを「聖域化」した。
業務用冷蔵庫を開ける。
そこには、役員用の特別メニューのために仕入れられていた最高級の食材――A5ランクの和牛ステーキ肉と、青森産の立派なニンニク、そして大量の冷やご飯が手つかずで残されていた。
これならいける。
作るのは、カロリーと旨味の暴力――『極上スタミナ大蒜炒飯と、厚切り和牛ステーキ』だ。
俺は中華鍋をコンロにかけ、最大火力で熱する。
和牛の脂身を切り取り、鍋に放り込む。ジュワァァァッ! と極上の牛脂が溶け出し、暴力的なまでに香ばしい匂いが立ち上った。
そこに、粗みじん切りにした大量の青森産ニンニクを投入。焦がさないように、しかし香りを最大限に引き出すように油に香りを移す。
卵を溶き入れ、間髪入れずに冷やご飯を投入する。
ここからが勝負だ。俺は手首のスナップを利かせ、重い中華鍋を猛烈な速度で振り始めた。
カンッ! カンッ! カンッ!
お玉と鍋がぶつかる小気味良い金属音が厨房に響く。
火の霊力をコンロの炎に同調させ、鍋の中の温度を極限まで引き上げる。ご飯の一粒一粒が牛脂とニンニクの旨味でコーティングされ、パラパラに舞い踊る。これぞ中華の真髄『鑊気』――鍋の息吹だ。
塩、黒胡椒、そして鍋肌から焦がし醤油を回しかける。
醤油が焦げる強烈な香りが、魔王の放つ腐臭を完全に切り裂き、食堂全体を「食欲の匂い」で支配し始めた。
『ガァァァッ!? ナ、ナンダ……コノ匂イハ……!!』
暴食の魔王が、たまらず蠢き出す。
「よし、次は肉だ」
炒飯を大皿に山盛りに盛り付け、空いた中華鍋で、分厚く切ったA5和牛のステーキ肉を一気に焼き上げる。
表面はカリッと香ばしく、中は美しいレアに。特製の玉ねぎ生姜ソースをジュワッと絡め、豪快に炒飯の上に山のように乗せた。
「松田! 出来たぞ、食え!!」
俺は黄金色に輝く『極上ステーキ炒飯』の大皿を、透子の前のテーブルに叩きつけるように置いた。
「いっただっきまーーーす!!!」
透子はスプーンを握りしめ、猛然と炒飯と肉の山に喰らいついた。
「うまーーーっ!! なにこれ、お肉とろける! ニンニク最高!!」
彼女が一口食べるごとに、その小さな体から、太陽のように眩い「陽の気」が爆発的に放射された。
美味しいものを、ただ心から「美味しい」と喜んで食べる。
そのポジティブで健全な食欲のエネルギーは、残飯の怨みやストレス喰いといった「陰湿な暴食の念」を、根底から否定する力を持っていた。
『ア……アアアァァァ……! マブシイ……! ウマソウ……!!』
暴食の魔王が、透子の食べる姿とその放つ光のオーラに圧倒され、みるみるうちに萎縮していく。
奴の作り出した「肉の壁」の領域が、ポロポロと崩れ落ち始めた。
「……竹内さん、ソフィアさん。下がってください」
俺はポケットから、総務部から持ち出しておいた『食券』のロールを取り出した。
食堂の券売機で使われる、なんの変哲もない紙切れだ。
だが、今の俺の霊力を込めれば、それは最強の「精算の呪符」となる。
俺は黄色と赤色の気を行使し、食券のロールを一気に引き出して、怯む魔王の巨大な口めがけて投げつけた。
「結界展開。――お会計だ」
シュルルルルッ! と伸びた食券の帯が、魔王の体をぐるぐると縛り上げる。
「美味しいものを食べたら、しっかり感謝して成仏しろ」
俺が指を鳴らすと、魔王を縛り上げた食券が、眩い浄化の炎となって燃え上がった。
『ゴチソウ……サマデシタァァァァ……!!』
暴食の魔王は、満足げな、しかしどこか憑き物が落ちたような安堵の声を残し、青白い炎に包まれて完全に消滅した。
同時に、赤黒い肉の壁に覆われていた食堂のフロアが、パチンッと音を立てて元の清潔な空間へと戻っていく。
「……ふぅ、食った食ったぁ! ごちそうさまでした!」
透子が、空っぽになった大皿を前に、ポンと手を合わせて満足げに笑った。
あれだけの量をたった数分で平らげるとは、恐るべき18歳だ。
「お疲れ様でした、中川さん! すごい、本当に食堂が元に戻りました!」
塔子が歓声を上げ、安堵の涙を浮かべている。
「Excellent! Masterのクッキング、魔法みたいデシタ! 次は私にも作ってくださいネ!」
ソフィアも観葉植物の槍を下ろし、ウインクをしてきた。
「ああ。時給の範囲外だが、これですべてのフロアの安全が確保できたなら安いものだ」
俺は乱れたワイシャツの袖を直し、小さく息を吐いた。
これで、俺と塔子、そして透子とソフィアの四人が合流を果たした。
ここから先は、この異界化の元凶である地下の「大穴」へと直行するのみだ。
俺の定時退社を賭けた戦いは、いよいよ最終局面へと向かおうとしていた。
★★★★★★★★★★★
その頃。
丸の内商事の魔宮化など知る由もない、俺のアパートのリビングでは。
『……ミャム、ミャム……』
床暖房がポカポカと効いた部屋の隅。
キャットタワーの最上段で、クロが気持ちよさそうに丸まっていた。
時折、前足をピクピクと動かしながら、口をモチャモチャと動かしている。
夢の中で、大好きな高級マグロの猫缶でも腹いっぱい食べているのだろうか。
主人である俺が、化け物相手に命懸けの料理を作って残業していることなど露知らず、黒い家族の平和な寝息だけが、静かな部屋に響いていた。




