第32話 非常階段は異世界へ
二月上旬。
丸の内商事の本社ビルは、新社長の合理化による地下の封印解除によって、外界から完全に隔離された「異界」へと変貌してしまった。
窓の外は太陽の光すら届かない真っ黒な霧に覆われ、携帯電話の電波も圏外。
完全に孤立した8階の総務部フロアから、事態の元凶である地下へと向かうため、俺は、上司の竹内塔子と郵便室のアルバイト・松田透子を連れて、非常階段へと続く廊下へ足を踏み出した。
「中川さん……廊下が、全然違います……」
塔子が俺の背中をぎゅっと掴み、震える声で呟いた。
普段は無機質なリノリウムの床と白い壁の廊下だが、今は壁一面に得体の知れない黒い苔がびっしりと繁殖し、蛍光灯は血のように赤い不気味な光を放っている。空気はひどく冷たく、そしてカビと古い紙の匂いが混じったような嫌な臭いが充満していた。
「気を引き締めてください。このビルは今、長年蓄積された社員たちの『負の念』と『創業者の呪い』が物理法則をねじ曲げ、迷宮化しています。何が起きてもおかしくない」
俺は右手に『封魔の鞭』として巻き付けたネクタイを構え、慎重に前へ進む。
「うぅ……やっぱり私、総務部に残ってればよかったです……」
俺の背後で、透子が半泣きになりながらキョロキョロと周囲を見回している。
「お前をあのパニック状態のフロアに残していく方が危険だ。お前のその強烈な『霊媒体質』は、悪霊たちにとって最高の餌になるからな」
「餌って言わないでくださいよぉ……」
その時だった。
ゴゴゴゴゴォォォ……!
突如として、廊下の空間そのものが生き物のように脈打ち、足元の床がぐにゃりと波打った。
「きゃっ!?」
塔子がバランスを崩す。俺は咄嗟に彼女の腕を掴んだ。
『……ミツケタ……オイシソウナ、ウツワ……』
壁の黒い苔の中から、無数の泥の触手が這い出し、最後尾にいた透子の足首に絡みついたのだ。
「えっ!? なにこれ、いやぁぁぁっ!」
「松田!」
俺がネクタイの鞭を振るおうとした瞬間、透子の足元にポッカリと『真っ黒な穴』が開いた。
「中川さぁぁぁん!!」
透子の体が、まるで底なし沼に飲み込まれるように、一瞬にしてその穴へと落ちていった。
俺が手を伸ばすより早く、穴は音もなく塞がり、元の気味が悪いリノリウムの床に戻ってしまった。
「松田ちゃん!!」
塔子が悲鳴を上げる。
俺は床を強く蹴りつけたが、ただの硬い床があるだけだ。霊的な「落とし穴」だった。
「……落ち着いてください、竹内さん。あれは物理的な穴ではなく、空間の歪みです。彼女は別のフロアに転移させられただけのはずです」
「でも、あんな化け物に引きずり込まれて……松田ちゃん、無事でしょうか!?」
「彼女の生命力を舐めないでください。それに、1階にはソフィアさんがいる。もし松田が下に落ちたのなら、彼女と合流できる可能性が高い」
俺はそう言い聞かせ、塔子を立たせた。
ここでパニックになっても意味がない。俺たちが地下へ向かい、元凶を絶つしかないのだ。
★★★★★★★★★★★
「……いったぁ……」
松田透子は、お尻をさすりながら身を起こした。
周囲を見渡すと、そこはオフィスビルの廊下ではなかった。
うっそうと茂る巨大なシダ植物や、見上げるほど高い熱帯樹が鬱蒼と生い茂る、薄暗い『ジャングル』のような場所だったのだ。
「え……? ここ、どこ? 会社の中だよね……?」
透子が怯えながら立ち上がると、草むらの奥からガサガサと音がした。
「ヒィッ! 食べないで! 私、お肉硬いから美味しくないよ!」
「Oh! 透子チャン! 無事デシタカ!」
草むらをかき分けて現れたのは、プラチナブロンドの髪を揺らす受付嬢、ソフィア・イェゲルだった。
彼女はいつもの制服姿だが、手にはなぜか観葉植物の太い枝を『槍』のように構えている。
「ソフィアさん! よかった、知ってる人がいたぁ……!」
透子は泣きそうになりながらソフィアに抱きついた。
「ここ、1階のエントランスですヨ。置いてあった観葉植物が、オフィスの邪気を吸って巨大な森になっちゃいマシタ」
「エントランスがジャングル!? どうなってるの……」
「No worries!(気にしないで!) 私の故郷ラトビアの森に比べれば、こんなのただの裏庭デス! 森の精霊の加護がある私がいれば安全デスヨ。さあ、一緒にMasterナカガワを探しに行きマショウ!」
ソフィアは頼もしく笑い、巨大な枝の槍を肩に担いだ。
透子は彼女の背中を見つめ、「……なんか、すごく心強いかも」と、少しだけ安堵の息を吐いたのだった。
★★★★★★★★★★★
一方、8階に取り残された俺と塔子は、非常階段へと続く重い鉄の扉を開けた。
だが、その先に広がっていたのは、無機質なコンクリートの階段ではなかった。
「……え?」
塔子が息を呑む。
扉の向こうにあったのは、ふかふかの赤い絨毯が敷かれ、クリスタルガラスのシャンデリアが煌びやかな光を放つ、ホテルのような豪華な通路だったのだ。
壁にはクラシックな絵画が飾られ、どこからか優雅なジャズのBGMが流れてきている。
「中川さん……ここ、本当に会社の階段ですか?」
「いえ。これも異界化による『空間の変容』です。おそらく、このビルで働く社員たちの『特定の念』が凝り固まって形作られたフロアでしょう」
俺はネクタイを握り直し、慎重に赤い絨毯の上を進んだ。
通路を抜けると、そこは『高級レストラン』のホールのような空間に出た。
夜景の見える大きな窓、テーブルには真っ白なテーブルクロスと、磨き上げられた銀のカトラリー。
そして、その中央のテーブルの横に、黒服を着たウェイターが立っていた。
「いらっしゃいませ。二名様ですね。お待ちしておりました」
ウェイターが恭しく頭を下げる。
だが、その顔には『目も鼻も口もない』、つるんとしたのっぺらぼうだった。
「ひっ……!」
塔子が俺の腕にしがみつく。
「なるほど」
俺は周囲を見渡し、この空間の正体を推測した。
「毎日毎日、終電まで残業させられている社員たちが、『たまには恋人とお洒落な店でデートしたい』『美味しいディナーを食べたい』と願った、現実逃避のルサンチマンが具現化したトラップですね。……彼らは、この偽の安らぎの空間に人間を閉じ込め、永遠に『終わらないデート』をさせることで生気を吸い取るつもりです」
のっぺらぼうのウェイターが、スッと右手をテーブルへ向ける。
「さあ、お席へどうぞ。……お座りにならないお客様には、お帰りいただきます」
ウェイターの周囲から、ドス黒い瘴気が漏れ出し始めた。どうやら、この空間の『ルール』に従わないと、力ずくで排除しにくるらしい。
今は無駄な戦闘で霊力を消費したくない。地下の大穴を塞ぐまで、体力は温存しておくべきだ。
「……仕方ありません。出口を探すためにも、少しだけ『デート』に付き合ってください、竹内さん」
俺は小さくため息をつき、塔子に向かって言った。
「えっ……デ、デート!?」
塔子の顔が、ボンッ! と音が鳴りそうなほど真っ赤に染まった。
「これはダンジョン攻略のための方便です。ただのロールプレイですよ。残業代は出ませんが、エスコート料はいただきますからね」
俺はそう言いながら、塔子をテーブルへと促し、スマートに椅子を引いて彼女を座らせた。
「あ、ありがとうございます……」
塔子はカチコチに緊張し、膝の上で両手を強く握りしめている。
いつものオフィスカジュアルの制服姿で高級レストランのセットに座っているのはひどく滑稽だが、彼女の整った容姿のせいで、妙にサマになってしまっているのが癪だ。
向かいの席に俺が座ると、のっぺらぼうのウェイターが音もなく近づき、メニューらしきものを差し出してきた。
「本日のメインディッシュは、『蝦夷鹿のロースト・赤ワインソース』でございます」
ウェイターがシルバーのドーム状の蓋を開ける。
そこには、見事な赤身肉のローストが乗っている――ように見えた。
香ばしい肉の焼ける匂いと、芳醇な赤ワインソースの香りが鼻腔をくすぐる。
幻覚の作用が、極上の料理のビジュアルと香りを脳に直接送り込んできているのだ。
「さあ、冷めないうちにお召し上がりください……」
ウェイターの顔のない部分が、ニヤァと歪んだように見えた。
だが、塔子は目の前の皿に見向きもしなかった。
「……いりません」
塔子は両手を膝の上で固く握りしめたまま、震える声で、しかしはっきりと拒絶した。
「松田ちゃんが、あんな怖い目に遭って……今どこにいるかもわからないのに。私、こんなところで食事なんてできません!」
彼女の瞳には、恐怖よりも、部下を心配する強い責任感が宿っていた。
その真っ直ぐな言葉が、幻覚の甘い誘惑を跳ね除ける。
『……お召し上がりにならないと、お帰りいただけませんよ』
ウェイターの周囲から、再びドス黒い瘴気が渦巻き始める。これを一口でも食べさせ、永遠の幻覚に閉じ込めようという魂胆だ。
俺の霊視を通した目には、真実の姿がはっきりと映っていた。
皿の上に乗っているのは、ドブ川で腐ったような「黒い泥の塊」と「枯れ葉」だった。
そして、赤ワインソースに見えるのは、ドロドロの紫色の瘴気だ。
「ダメですよ、竹内さん。こんな三流の料理を口にしては」
俺は冷ややかな声で言い放ち、のっぺらぼうのウェイターを見据えた。
「お前、本当にこれを『蝦夷鹿のロースト』だと思っているのか?」
「……お客様?」
「冬の蝦夷鹿は脂が乗って極上の食材だ。だが、この肉はどう見ても火入れがなってない。表面は焦げているのに、中心温度の管理がデタラメだ。シカ肉は火を通しすぎればパサパサのレバーになり、生すぎれば獣臭さが際立つ。最低でも50度の低温調理でじっくり熱を入れ、最後に表面をバターでアロゼしながらカリッと香ばしく焼き上げるのが基本だろうが」
俺は立ち上がり、さらにウェイターを追い詰める。
「それに、このソースだ。赤ワインとフォン・ド・ボーを煮詰めるだけじゃない。ジビエの力強さに負けないよう、少しのブラックベリージャムか、カシスを加えて酸味と甘みの奥行きを出すのが本物のフレンチだ。……お前の作ったこの『泥水』は、ただ臭いだけだ。やり直せ」
俺の放つ「料理への圧倒的なこだわり」と、リアリズムに満ちた具体的な蘊蓄の波が、幻覚空間の『嘘』を真っ向から否定していく。
「な……!? ドロミズ……!?」
ウェイターが狼狽し、空間全体が「ぐにゃり」と歪み始めた。
社員の「美味しいものが食べたい」という曖昧な願望で作られた幻覚など、俺の自炊に対する絶対的な『現実』の前では脆く崩れ去る。
「本物のディナーは、こんな偽物の空間じゃ味わえない。……さっさと現実に戻れ」
俺はポケットから『赤い付箋』を取り出し、それを指先で弾いて、テーブルの上の「泥の塊」めがけて投げつけた。
「結界展開。――極上フランベ!」
赤い付箋が皿に触れた瞬間、青白い浄化の炎が爆発的に燃え上がった。
『ギィィィィィィッ!?』
のっぺらぼうのウェイターが炎に包まれ、悲鳴を上げながらチリチリと燃え尽きていく。
同時に、豪華なレストランの幻覚がガラスが割れるようにパチンッ! と砕け散った。
真っ白なテーブルクロスも、夜景の見える窓も消え去り、そこには元通りの薄暗く埃っぽい、コンクリート打ちっぱなしの「非常階段の踊り場」が姿を現したのだ。
「……はっ!?」
塔子が我に返り、自分がナイフやフォークではなく、ただの埃まみれの「木の枝」を握っていることに気づいて小さな悲鳴を上げた。
「お怪我はありませんか、竹内さん」
俺が手を差し伸べると、塔子は木の枝を放り捨て、俺の手を取って立ち上がった。
「あ、ありがとうございます……私、本当に危ないところでした」
「幻覚を見せられていたんです。無事でよかった」
俺はネクタイを締め直し、下へと続く非常階段の暗闇を見下ろした。
「さて、デートはこれでおしまいです。……地下へのルートが開きました。先へ進みましょう」
「はい……! あ、あの、中川さん」
塔子が、少しだけ俯きながら、小さな声で言った。
「……もし、無事にここから出られて、松田ちゃんたちも助け出せたら。その時は、幻覚じゃない、本当の『美味しいお肉』のレストランに私が連れて行きますからね。……残業代の代わりに」
その言葉に、俺は少しだけ目を見張り、それから苦笑した。
「……時給1200円の身としてはありがたい提案ですが。高くつきますよ」
俺たちは並んで、暗く冷たいダンジョンの階段を、さらに下へと降りていった。
★★★★★★★★★★★
その頃、俺の住むアパートのリビングでは。
「……ミャァゥ」
誰もいない静かな部屋で、クロは床暖房の一番暖かい場所を陣取り、へそ天の状態で幸せそうに寝返りを打っていた。
主人である俺が、魔宮と化したビルで命懸けの残業をさせられていることなど、この愛おしい毛玉には知る由もないのだった。




